見出し画像

「多様性」は繊細な人を破壊する暴力である。適切な「多様性」の踏まえ方

社会から疎外され、生きづらさを抱えてきた人々を救うためのマジックワードとして、昨今「多様性(ダイバーシティ)」という言葉があらゆるメディアや組織で叫ばれています。

「みんな違って、みんないい」「個性を尊重しよう」。 これらの美しいスローガンは、社会の主流から外れてしまった人間にとって、一見すると大きな希望の光のように思えます。

 私自身も、生来の過剰な繊細さや、どうしても大衆の「当たり前」からはハズレてしまう自分の感覚に深く悩み、社会に対して強い違和感と疎外感を抱えながら生きてきた人間の一人です。普通に振る舞おうとすればするほど心がすり減り、なぜ自分だけがこんなにも世界との間に激しい摩擦を感じるのかと、一人で絶望したことは数え切れません。

だからこそ、「多様性を受け入れよう」という昨今の社会の潮流には、少しだけ救われたような気がしました。自分のような規格外の凸凹な人間でも、この社会に存在していいのだという免罪符をもらったように感じたからです。

実際、ビジネスの現場においても多様性の有用性は証明されています。特に「タスクの複雑さ」が高い組織、例えば新規事業開発やイノベーションを目的とするチームにおいては、異なるバックグラウンドを持つ人々の視点が交わることで、単一の集団では突破できない課題を解決し、高い成果に結びつきやすいというデータも報告されています。

しかし、その多様性という言葉が現実のマクロな社会構造に実装された時、私はそこに、かつての画一的な社会システムとはまた別の、新たな息苦しさと「暴力性」が潜んでいることに気がついてしまいました。

私たちは今、この多様性という言葉が孕む残酷な弊害とパラドックスを直視しなければならない歴史的局面に立たされています。今回は、アメリカ大統領選挙という事象と、ジャン=ジャック・ルソーの思想を補助線として、多様性の限界を解剖し、大衆からハズレた私たちが本当に救われるためのコミュニティのあり方を論じていきます。


1. そもそも多様性とは何か

多様性を理念としてではなく、現実の制度として推進した結果、社会はどうなったか。 その最もわかりやすい失敗例が、アメリカのバイデン政権下で推し進められた過剰なDEI(多様性・公平性・包摂性)政策と、その強烈なカウンターとして引き起こされたドナルド・トランプの再選という歴史的イベントです。

ジョー・バイデン氏(Photo:The Washington Post/gettyimages)


マイノリティを保護し、多様性を尊重しようとしたリベラルな政策が、なぜ社会の分断を極限まで加速させ、ナショナリズムの台頭を招いてしまったのでしょうか。

この構造を論理的に理解するためには、多様性の受容という現象を客観的かつ構造的に捉え直す必要があります。多様性を受け入れるということは、客観的に言えば「今まで大きな箱でひとまとめにしていたものを、細分化して捉え直す」という作業に他なりません。

例えば、これまで「男性・女性」という2つのカテゴリー(低い複雑性)で処理していたものを、「LGBTQ+」という無数のグラデーション(高い複雑性)へと細分化する。これまでは無意識の「冗談」で済まされていた日常の会話を、「マイクロアグレッション(無自覚な差別)」という概念を用いて細かく切り分ける。

世界を細分化し、複雑性を高めること。それ自体は弱者を救うための知的で倫理的な営みです。 しかし、ここには社会構造上の致命的な罠があります。社会の複雑性が高まるということは、その複雑さを処理し、他者を傷つけないように正しく振る舞うための「高度な情報処理能力(リテラシー)」が、市民一人ひとりに強要されるということです。

「どの代名詞(プロナウン)を使うべきか」「どの言葉が歴史的背景からNGワードになるのか」。 こうした常にアップデートされる複雑なルールをキャッチアップし、適応できるのは、高い教育を受け、日々の生活の糧を心配することなく情報にアクセスする精神的・経済的な余裕のある「一部の人間」に限られます。

結果として何が起きたか。 日々の過酷な生活に追われ、高度なリテラシーを獲得する余裕を持たない人々、あるいは適応が遅れた大衆は、「アップデートされていない遅れた差別主義者」として社会的に激しく糾弾され、排除されることになりました。

マイノリティを「包摂」するはずだった多様性政策は、いつの間にか、高いリテラシーを持つ人間だけが参加を許される「エリート主義的で排他的なクラブ」へと反転してしまったのです。このリベラル特有の上から目線の啓蒙とエリート主義に対する、大衆の強烈な反発とルサンチマン。これこそが、複雑すぎる世界を「アメリカ・ファースト」という単純で力強い言葉で一刀両断してくれたトランプという熱狂を、再び呼び覚ました真の要因です。

ドナルド・トランプ氏


2. ルソーの「一般意志」:巨大すぎる国家は意志を持てない

国家という巨大なスケールにおいて、過剰な多様性の推進は分断と暴力的なカウンターを生み出す。 このマクロな絶望に対して、私たちはどのような社会モデルを描けばよいのでしょうか。ここで極めて重要な示唆を与えてくれるのが、18世紀の哲学者ジャン=ジャック・ルソーです。

ジャン・ジャック・ルソー


ルソーは近代民主主義の基礎となる著書『社会契約論』において、「一般意志」という極めて重要な概念を提唱しました。

一般意志とは、単なる個人の欲望の寄せ集めではありません。市民一人ひとりが、私利私欲を離れ、「共同体全体の利益(公共善)」を目指して連帯した時に生まれる、ひとつの大きくて純粋な意志のことです。ルソーは、この一般意志こそが国家を正しく導く唯一の主権であると説きました。

しかし、ルソー自身もこの理論の限界を鋭く指摘していました。 それは、「一般意志が成立するのは、ジュネーヴのような小さな都市国家(コミュニティ)に限られる」ということです。

領土が広大になり、人口が増え、人々の価値観や利害関係が複雑に「多様化・細分化」しすぎた巨大国家においては、全員が共通の公共の利益を想像することは物理的にも心理的にも不可能になります。共通の基盤と文脈が失われれば、一般意志は崩壊し、互いの正義と私利私欲がぶつかり合うだけの血みどろの闘争状態に陥ってしまうのです。

現在のアメリカ、そして現代社会全体が直面しているのは、まさにこのルソーの予言通り、「複雑になりすぎた巨大な箱の中では、一般意志という連帯は形成できない」という構造的限界に他なりません。


結論:多様性の暴力から逃れ、連帯するための「クラスター戦略」

では、私たちは多様性という理想を完全に諦め、再び画一的な社会へと後退するべきなのでしょうか。 決してそうではありません。私たちがアップデートすべきは、多様性を担保する「単位(サイズ)」なのです。

バイデン政権が陥った罠は、国家という巨大で単一の箱の中に、あらゆる細分化された多様性を無理やり詰め込み、全国民に同じレベルの高度なリテラシーを強要したこと、つまり上からの画一的な多様性の押し付けにあります。

私たちが目指すべき良き多様性の形とは、巨大な一つの箱を無理に維持することではありません。ルソーが小さな都市国家に一般意志を見出したように、社会のあちこちに、ポコポコと小さな「共同体(クラスター)」を新たに組成していくことです。

それぞれのクラスターの内部では、特定の価値観や、ある程度共通したリテラシーを持つ人々が集まります。その小さな規模であれば、相互理解が追いつき、ルソーの言う一般意志を形成することができます。その上で、あるクラスターは特定のマイノリティを内包し、別のクラスターはまた異なる特性を内包する。

一人ひとりの個人に無限の複雑性という重い十字架を背負わせるのではなく、「クラスター単位で見た時に、社会全体として多様性が保たれている生態系」を構築するのです。

同じ属性や、同じ痛みの解像度を持つ者同士で、小さなテント(クラスター)を張る。そして、それぞれのテントが互いを完全に理解し合えなくても、過剰に干渉しないという不可侵条約を結び、モビールのように全体のバランスを取りながら動いていく。

世界全体を一つの価値観で染め上げようとする巨大なイデオロギーは、それがどれほど正しい理念であっても必ず暴力性を帯び、トランプのような強烈なカウンターを生みます。

私のように、大衆の感覚からハズレてしまい、社会に息苦しさを感じている繊細な人間が本当に身を寄せるべきは、顔の見えない巨大な「多様性社会」という蜃気楼ではありません。

自分と同じ痛みの解像度やリテラシーを共有できる、小さくても確かな一般意志を持ったクラスターを見つけ、あるいは自らの手で創り出すこと。複雑で暴力的な世界から自分の心を守り、同時に社会全体の生態系を豊かにしていくための、これこそが最も現実的で、高度な知的武装なのです。

いいなと思ったら応援しよう!