「大丈夫」の記憶は、わたしの今日を照らす光
泣くしかできなかった子どもの頃、わたしの小さな背中を、母がゆっくりさすってくれた。
そのときに添えられた「大丈夫だよ」という一言は、今もわたしを支える言葉になっている。
時が経った今、同じ言葉を自分に語りかけながら、わたしは今日を生きていく。
弱さを抱えながらも生きていく自分を、少しだけ肯定できる気がするのだ。
言葉を使いこなせなかった、わたし
言葉というものは、どのように受け取り、取り扱うかによって、全く違う光を放つものだ。
わたしは、自分で、自分を信じてあげることが出来ずにきた。それ故、他人からの言葉を頼りに、わたしという自分像を構築していた。その割には、相手からかけられる言葉の受け取り方が下手だった。
これまでにいただいてきた言葉の数々を、自分の身にできたことは、どれだけあったのだろうか。

小さい頃は、自分の心の土壌も整っていなかったから、どれだけ根を張って立ち上がろうとしても、すぐに折れてしまった。
悲しい時。辛い時。本当は、怒りたい時。
自分の部屋に閉じこもり、声をあげて泣くことしかできなかった時期がある。
何か他に発散できる方法を見つけていたら、自分の心へ繋がる扉を閉ざさずにいられたのだろうか。
自分の現状を言語化できていれば、当時のもどかしさは解消されていたのだろうか。
少しは自分の力で打破できるような現状もあったのかもしれないが、この場で、たらればを述べていても、仕方ない。
未熟さを露呈する恥ずかしさを自覚しながら、過去のわたしを解きほぐし、綴っていくことにする。
*--*--*
自分の身に起きたことや感情を、うまく言語化して表出できなかったわたしは、学校生活で辛いことが起こった時も、帰宅してから泣くという選択肢しかなかった。
泣いていると、父はたいてい機嫌が悪くなり、しまいには怒られるため、わたしが泣けるタイミングは、ひとりの時か、母だけが在宅している時だった。
あまりに泣き続けるわたしを見て、母も困り果てていた。
このように言い切っていいのかは、母に尋ねたことがなく定かではないが、今、過去の自分が置かれていた環境を思い返して、その場面を俯瞰して見てみると、そのように見える。
「大丈夫」と、手のひらが伝えてくれたこと
母は、泣くばかりのわたしの身に何が起こったのかを聞くことをしなかった。ただ、わたしの隣に座って、「大丈夫だからね」「大丈夫なのよ」とつぶやきながら、ゆっくりと背中をさすってくれた。
さすってくれる母の手から伝わる温度感で、余計にわたしの両目から大粒の涙があふれ出てくるわけだけれど、そのことに気付いてもなお、母はわたしの背中をさする手を止めることが出来なかったのだろう。
わたしが泣き疲れて、呼吸しかしていない状態だとわかると、母はおもむろに立ち上がり、おにぎりを作ってくれた。
レンジで温め直した白ご飯を握り、味噌を塗り、オーブントースターで焼いたおにぎり。
母の手により、ひと手間かけられた味噌焼きおにぎりは、このタイミングでしか食べられない、特別な味だった。
「あれだけ泣いたら、お腹すいたでしょう。これ、食べなね。」
泣いた後で、どんなに気分を損ねていても、焼かれた味噌の香りのおかげで、食欲が勝ってくるから不思議なものだ。
味噌のしょっぱさと香ばしさが、お米の甘さを引き立たせて、じんわりと身体に染み渡る。
いつもよりも大きめに握られたその味噌焼きおにぎりは、あっという間にわたしの体内へと収められ、言葉にできないものたちをそっと抱えながら、ただ眠った。

この時のわたしは、言葉にできる力を育てられなかったけれど、自分を癒す方法については、知ることが出来た。
「大丈夫」という言葉を皮切りにして、ひとしきり泣き、心の中を洗い出して、お腹を満たす。睡眠をとって、身体を休める。
この方法が、言葉を使いこなせなかったわたしには効いたのだ。
*--*--*
もう、あの頃には戻れない
時は経ち、いつの頃からか、わたしが母の話を聞くようになった。
母の前で、泣けなくなった。
これには、もちろん物理的な距離があるということも影響しているが、何よりも大きいのは、心的な距離感が、過去よりも大幅に離れてしまったことだ。
もう、あの頃のように、母の元には、戻れなくなってしまった。
わたしが、わたしの道を生きることを選択し、地元との距離を取ったのだ。

これが、本来の巣立ちと言えば、そうかもしれない。
新しい巣作りは、自分の力でする必要がある。
そこからが、本当の意味で、わたしの生きる道だった。
わたしは、コツコツと安心を模索し続けてきたつもりだ。その結果、「今がいちばん幸せ」と思えるようになってきたのだ、とも思う。
でも、この幸せというものは、ただの一面だけで叶えられるようなものではない。
「今がいちばん幸せ」という気持ちに嘘はないけれど、幸せと相反する気持ちも、同時に抱いている。
「自分の生き方、生活は、このままでもよいのだろうか?」と考えれば、不安でビクビクしてしまう。
「今のわたしが、わたしに課されたタスクを果たせているのだろうか?」と思うと、無力しか感じない。
この不安感を、対面する相手に感じさせないように…と、外では演じているけれど、家の中に入ったら、涙が出てしまうこともある。
*--*--*
大人になればなるほど、自分に向けて相手から発される、優しくあたたかい言葉は、減っていく。
その分、増えたのは、わたしから相手に向かって発する気配りや視線だった。
相手を思えることは、決して悪いことばかりではない。
そのご縁から、素敵な出逢いに恵まれるきっかけが生まれることだってある。
でも、それだけでは、自分の心がやせ細っていくのが、目に見えていた。
わたしから、わたしへ「大丈夫」を
本当は、大人になった今だって、あの頃と同じように「大丈夫だよ」って、言ってもらいたい。
たとえ、それが、根拠のない〝大丈夫〟だったとしても。
わたしは、その言葉が、また次の歩みを支える光になりうるということを知っている。
様々なことをゆっくりと進むしかできなかったわたしは、周りの人が過ごす時間の経過とは、やや異なる世界線を生きていたのかもしれない。
それでも、今この瞬間を、多くの人が暮らしている社会で、共に生きている。
支えの言葉が、誰かに届くように
暮らしていると、様々な感情に向き合う。
嬉しいことや楽しいこともあるけれど、心が折れそうになることも、目の前のことに必死になりすぎて、呼吸が浅くなっていることもある。
今日もまた、わたしは、わたしに向けて、「大丈夫だよ」とつぶやく。
そっと身体をさすりながら、明日へと続く安心を育てている。
その言葉が、かつてのわたしのように、不安の中にいる誰かの心にも、そっと届くことを願いながら。

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