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『タモリ倶楽部』は、なぜ“役に立つか分からないこと”で40年も続いたのか?無駄は、大人の教養だった。

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私は、無駄な時間にすぐ罪悪感を持つようになっていた

最近の私は、何をしていても、すぐ意味を探してしまいます。

本を読むと、

「で、何を学んだのか」

と考える。

映画を見ると、

「何か感想にできることはあったか」

と考える。

散歩をすると、

「健康にいいから、これは必要な時間」

と理由をつける。

カフェでぼんやりしていても、

「これは気分転換であり、明日の生産性を高めるための投資である」

みたいな顔をしてしまう。

うるさい。

私の中の小さな経営者が、うるさい。

私はただ、カフェラテを飲んで、窓の外を見ていただけなのです。

そこに投資対効果を持ち込まないでほしい。

いつの間にか、何かを楽しむにも理由がいるようになっていました。

休むにも効能がいる。

遊ぶにも意味がいる。

ぼんやりするにも、脳の回復という説明がいる。

ただ楽しい。

ただ好き。

ただ笑った。

それだけでは、少し不安になる。

私は、ただ休んでいるだけなのに、なぜか心の中で稟議書を書いていることがあります。

「本件、疲労回復を目的とした一時的な休息として承認願います」

誰に出しているのでしょうか。

上司でしょうか。

神でしょうか。

自分でしょうか。

たぶん、一番厳しいのは自分です。

何でも役に立てようとする私

大人になると、無駄が少し怖くなります。

時間の無駄。

お金の無駄。

労力の無駄。

無駄話。

無駄遣い。

無駄足。

無駄という言葉は、だいたい怒られるときに出てきます。

「無駄だったね」

と言われて、喜ぶ人はあまりいません。

私もたぶん、少し遠い目をします。

心当たりがありすぎるからです。

深夜のネット通販。

なぜ買ったのか分からない収納グッズ。

使えば暮らしが整うと思ったのに、収納グッズそのものを収納する場所に困っています。

暮らし、整う前に渋滞。

また私が愚かでした。

だから、無駄を減らすことは大事です。

本当に大事です。

無駄な会議は減ってほしい。

無駄な手続きも減ってほしい。

無駄に長いパスワード変更ルールも、できればやさしくなってほしい。

人間はもう十分、英数字と記号に追い詰められています。

でも、ふと思うのです。

本当に、無駄は全部いらないのでしょうか。

無駄な時間。

無駄な会話。

無駄な笑い。

無駄なこだわり。

役に立つか分からない趣味。

誰に説明しても「へえ」としか返ってこない好きなもの。

そういうものまで全部削ってしまったら、私たちはどこで息をするのでしょうか。

最近の私は、何でも役に立てようとしすぎていました。

読書も学び。

映画もアウトプット。

散歩も健康管理。

睡眠も疲労回復戦略。

趣味も副業候補。

昼寝すら、睡眠負債の返済。

寝ているのか、借金を返しているのか。

布団の中まで会計処理です。

人間、油断すると休息まで経理になります。

そんな私に『タモリ倶楽部』は不思議だった

そんな私にとって、『タモリ倶楽部』は少し不思議な番組でした。

ゆるい。

変。

深夜。

マニアック。

何の役に立つのか、一瞬では分からない。

でも、見てしまう。

大人たちが、どうでもよさそうなことを、どうでもよくない温度で楽しんでいる。

外国語の歌詞が変な日本語に聞こえる。

それをわざわざ映像にする。

細かすぎる趣味の世界を、大人たちが真剣にのぞく。

鉄道。

地形。

料理。

音楽。

工作。

専門的すぎる話。

知らない世界。

分からないこだわり。

普通なら、

「それ、何の役に立つの?」

と言われて終わりそうなものを、『タモリ倶楽部』は終わらせませんでした。

むしろ、そこから始まる。

私はずっと、『タモリ倶楽部』を、

ゆるくて変な深夜番組

だと思っていました。

もちろん、それは間違っていない気がします。

むしろ褒め言葉です。

深夜にだけ許されるような、あの独特のゆるさ。

肩に力が入っていないのに、なぜか妙に記憶に残る感じ。

でも、あらためて考えてみると、それだけではなかったのかもしれません。

『タモリ倶楽部』は、役に立つか分からないことを、役に立つか分からないまま大人が本気で楽しむ番組だった。

無駄に見えるものを、雑に捨てない番組だった。

そして、その無駄の中に、笑いや好奇心や、知らない世界への入口があったのかもしれない。

無駄な時間が怖い。でも、無駄のない人生も少し怖い

私は、無駄な時間が怖いです。

これは本音です。

何かしなきゃ。

勉強しなきゃ。

片づけなきゃ。

返信しなきゃ。

体を動かさなきゃ。

将来のためになることをしなきゃ。

そう思ってしまう。

でも同時に、無駄のない人生も少し怖いです。

全部に意味がある。

全部に目的がある。

全部に成果がある。

全部が効率化されている。

それは一見、きれいです。

きれいなのですが、少し息苦しい。

部屋でいうと、収納は完璧なのに、座る場所がない感じです。

何も散らかっていない。

でも、くつろげない。

そんな人生は、少し寂しい。

『タモリ倶楽部』のことを調べながら、私はそんなことを考えていました。

あの番組は、役に立つ情報を届けるためだけに続いた番組ではなかったのかもしれない。

もちろん、知識はありました。

知らない世界への入口もありました。

でも、それ以上に、

役に立つか分からないものを、面白がっていい

という空気があった。

大人が本気で遊んでいい。

くだらないことを、くだらないまま笑っていい。

マニアックなものを、分からないままのぞいていい。

意味がすぐに分からなくても、そこにいていい。

それは、今の私が少し失いかけていたものかもしれません。

今回の問いは、ここです。

『タモリ倶楽部』は、なぜ“役に立つか分からないこと”で40年も続いたのか。

そして、

無駄に見える時間は、本当に無駄だったのか。

調べていくうちに、少し分かってきました。

無駄は、ただ削るものではない。

無駄は、心が呼吸するための余白だったのかもしれません。


『タモリ倶楽部』は、ゆるくて変な深夜番組だと思っていた

『タモリ倶楽部』。

この名前を聞くだけで、頭の中に深夜の空気が流れます。

昼間のテレビとは少し違う、あの感じ。

やたら元気に盛り上げない。

正解を急がない。

すごい感動へ無理に連れていかない。

なんなら、こちらが少し眠くなっている時間に、妙に細かい話をしている。

でも、なぜか見てしまう。

私は最初、『タモリ倶楽部』をかなり雑に理解していました。

つまり、

タモリさんが、深夜にゆるく変なことをしている番組

です。

雑。

かなり雑。

番組の奥行きを、コンビニでもらった薄いスプーンくらいの厚みにしていました。

また私が知ってるつもりでした。

もちろん、その印象が全部間違いだったわけではありません。

『タモリ倶楽部』には、ゆるさがありました。

変さもありました。

深夜の空気もありました。

でも、あらためて考えると、その「ゆるくて変」が、ただのゆるさや変さではなかったのかもしれません。

約40年続いた“流浪の番組”

『タモリ倶楽部』は、1982年から2023年3月末まで、約40年にわたって続いた深夜番組です。

40年。

すごいです。

人間なら、かなり立派な大人です。

健康診断の結果を見て、少し黙る年齢です。

「去年より数値が……」と、小声になる年齢です。

そんな長い時間、『タモリ倶楽部』は深夜にあり続けました。

しかも、ただ長かっただけではありません。

この番組には、“流浪の番組”という言葉がよく似合います。

ひとつのテーマに固定されるのではなく、面白そうな横道へふらっと入っていく。

鉄道。

空耳。

地形。

料理。

音楽。

工作。

専門的すぎる道具。

よく分からない業界。

細かすぎる趣味。

「今日はこれを学びましょう」

というより、

「なんか面白そうだから、ちょっと見てみましょう」

という感じがありました。

この“ちょっと見てみましょう”が、かなり大事だった気がします。

普通、番組には分かりやすい看板があります。

料理番組なら料理。

ニュースならニュース。

旅番組なら旅。

健康番組なら健康。

見ればだいたい、何を得られるか分かります。

でも『タモリ倶楽部』は、そういう分かりやすい看板を少し避けていました。

いや、避けていたというより、看板を持ったまま横道に入っていった感じです。

「こちらが正面入口です」

と言いながら、なぜか裏路地へ曲がる。

そして気づくと、知らない人のすごく細かい趣味の話を聞いている。

どういう導線なのでしょうか。

でも、それが面白い。

番組の企画だけ見ると、ときどき会議でどう通ったのか心配になるものがあります。

「これは誰が見るのだろう」

「どこに需要があるのだろう」

「スポンサーさんは大丈夫なのだろう」

余計なお世話です。

完全に素人の心配です。

でも、そう思ってしまうくらい、企画はしばしば横道にいました。

そして、その横道が長く愛されました。

ただ変なだけなら、40年は続かない。

ただゆるいだけなら、記憶に残らない。

『タモリ倶楽部』には、変なものを変なまま続けられる、妙な強さがあったのだと思います。

ゆるいのに、なぜか見てしまう

『タモリ倶楽部』の不思議さは、力が入りすぎていないところにあります。

見ているこちらを、ぐいぐい引っ張らない。

「さあ、ここで感動してください」

と言わない。

「ここが今日の学びです」

と黒板に大きく書かない。

「人生が変わります」

とも言わない。

むしろ、ときどき、

「これ、何を見せられているんだろう」

と思う瞬間があります。

でも、そこが良い。

大人になると、テレビでも本でもSNSでも、何かを受け取ることを求められがちです。

勉強になる。

役に立つ。

泣ける。

笑える。

考えさせられる。

明日から使える。

人生が変わる。

すごい。

全部すごい。

でも、少し疲れます。

こちらはもう、会社で十分いろいろ受け取っています。

メール。

依頼。

確認事項。

会議資料。

修正依頼。

そして、なぜか増える未読通知。

これ以上、深夜にまで大きな学びを背負わされたら、肩が終わります。

私の肩は、そんなに企業研修向きではありません。

その点、『タモリ倶楽部』は軽かった。

軽いのに、浅くはない。

ゆるいのに、退屈ではない。

ふざけているのに、どこか知的。

このバランスが独特でした。

知らない世界を扱っているのに、先生が教壇から教える感じではない。

マニアックな話なのに、こちらを試験に出す感じではない。

「分かる人だけ分かればいい」と突き放すのでもない。

ただ、そこにいる大人たちが楽しそうにしている。

すると、こちらも少しのぞいてみたくなる。

そんな番組でした。

変なものを、変なまま面白がる場所

私は『タモリ倶楽部』を、深夜にだけ許される変な番組だと思っていました。

でも、今考えると少し違います。

変な番組だったのではなく、

変なものを、変なまま面白がれる場所

だったのかもしれません。

これは、かなり大きな違いです。

普通、変なものは、どこかで整えられます。

分かりやすくされる。

役に立つ形にされる。

きれいな結論にされる。

「つまり、これはこういうことです」とまとめられる。

もちろん、それは親切です。

分かりやすさは大事です。

私も家電の説明書は分かりやすいほうがいいです。

急に詩的な炊飯器マニュアルを渡されても困ります。

「米は水と出会い、やがて湯気となる」

違います。

何合ですか。

水位はどこですか。

だから、分かりやすくすることは大事です。

でも、すべてを分かりやすくしすぎると、変なものの変な面白さが消えてしまうことがあります。

『タモリ倶楽部』は、そこを急いで直さなかった。

どうでもよさそうなことを、どうでもよさそうなまま置いておく。

でも、雑には扱わない。

むしろ、大人が本気で見る。

本気で遊ぶ。

本気で笑う。

ここがすごいのです。

役に立つか分からないものを、役に立つか分からないまま楽しむ。

マニアックなものを、マニアックなまま面白がる。

意味がすぐに分からないものを、意味が分からないまま少し眺めてみる。

それが許される場所だった。

たぶん私は、そこに惹かれていたのだと思います。

ただの変な番組では片づけられない

『タモリ倶楽部』を「変な番組」と言うのは簡単です。

実際、変でした。

かなり変でした。

でも、それだけでは足りません。

変なだけなら、一回見て終わりです。

「何だったんだろうね」

で終わります。

でも『タモリ倶楽部』は、約40年続きました。

ということは、あの変さの中に、長く人を引きつける何かがあったはずです。

それは、派手な企画力だけではなかった気がします。

豪華さでもない。

涙でもない。

大事件でもない。

むしろ、小さな横道です。

誰かの細かすぎるこだわり。

一見どうでもよさそうなテーマ。

意味があるのか分からない笑い。

役に立つのか分からない知識。

でも、そこに大人たちが本気で向き合う。

すると、どうでもよさそうだったものが、少しずつどうでもよくなくなる。

知らない世界が、少しだけ開く。

ここに『タモリ倶楽部』の魅力があったのかもしれません。

私は、ゆるくて変な番組だと思っていました。

でも本当は、

変なものを、正しい形に直さず、変なまま面白がれる番組

だった。

そして、変なものを変なまま面白がるには、意外と大人の余裕がいる。

効率や正解を急ぐ心では、なかなかできない。

『タモリ倶楽部』は、その余裕を深夜にそっと置いてくれていたのかもしれません。


大人が本気で遊ぶと、遊びは教養になるのかもしれない


『タモリ倶楽部』について調べていると、

「趣味の教養化」

「知的笑い」

という言葉に出会いました。

なるほど。

たしかに、そう言われると分かります。

分かるのですが、急に少し背筋が伸びます。

「趣味の教養化」。

漢字が強い。

スーツを着た言葉です。

会議室のホワイトボードに書かれていそうです。

私の中のゆるい深夜番組が、急に資料提出を求められた気持ちになります。

でも、この言葉が指しているものは、かなり大事だと思いました。

『タモリ倶楽部』は、ただふざけていただけではなかった。

かといって、正面から「教養番組です」と名乗っていたわけでもない。

もっと不思議な場所にありました。

遊びと教養のあいだ。

くだらなさと知性のあいだ。

本気と脱力のあいだ。

普通なら混ざらなそうなものが、深夜の時間に、なぜかいい感じで混ざっていたのです。

どうでもよさそうなことを、どうでもよくない温度で楽しむ

『タモリ倶楽部』の面白さを私なりに言うなら、

どうでもよさそうなことを、どうでもよくない温度で楽しむ番組

だったのだと思います。

これです。

かなりこれです。

一見すると、どうでもいい。

いや、言い方が少し雑です。

でも、正直に言うと、最初はそう見えることがあります。

「それを番組にするの?」

「そこをそんなに掘るの?」

「そのこだわりに30分使うの?」

と思う。

でも、見ているうちに、だんだん分からなくなってきます。

どうでもいいと思っていたものが、少しずつどうでもよくなくなる。

知らない世界に、知らない熱量がある。

誰かが本気で好きなものには、こちらの想像を超える深さがある。

そこが見えてくる。

ここが『タモリ倶楽部』の強さだった気がします。

たとえば、私の日常には、あまりにも分かりやすい目的が多いです。

仕事は成果。

買い物は必要。

運動は健康。

勉強は成長。

掃除は生活維持。

どれも大事です。

掃除をしないと、部屋はすぐに自然へ帰ろうとします。

服は床に群れを作り、紙袋は繁殖し、冷蔵庫の奥では何かが静かに歴史になります。

生活には、目的が必要です。

でも、目的ばかりだと疲れます。

何のためにやるのか。

何に役立つのか。

何を得られるのか。

そればかり考えていると、心がずっと勤務中になります。

『タモリ倶楽部』には、その勤務中の心を少し休ませる空気がありました。

これは何の役に立つのか。

そんな問いを、いったん横に置く。

面白いから見る。

よく分からないから、のぞく。

くだらないから笑う。

それでいい。

その感じがありました。

大人が本気でふざけていた

大人が本気でふざける。

これは、簡単そうで意外と難しいです。

子どもがふざけるのは自然です。

若いころにふざけるのも、まだ分かります。

でも、大人になると、ふざけるにも少し勇気がいります。

ちゃんとしていないと思われるのが怖い。

意味がないと思われるのが怖い。

時間を無駄にしていると思われるのが怖い。

なので、大人の遊びは、ときどき言い訳をまといます。

これは勉強になるから。

これは人脈につながるから。

これは健康にいいから。

これは感性を磨く時間だから。

言いたくなります。

私もよく言います。

休日に何もしなかっただけなのに、

「今日は自分を整える日でした」

みたいな顔をします。

違います。

ただ寝ていました。

かなり寝ていました。

整ったというより、布団と一体化していました。

でも、大人はつい遊びに意味をつけたくなる。

そのほうが安心だからです。

『タモリ倶楽部』は、その意味づけを急がなかったように見えます。

もちろん、結果的には知識があります。

知らない世界が開きます。

専門的な話も出てきます。

でも最初から、

「この知識は明日から役に立ちます」

という顔をしていない。

「これを学べば人生が変わります」

とも言わない。

ただ、大人たちが真剣に、妙なものを楽しんでいる。

ここが良いのです。

真剣なのに、偉そうではない。

ふざけているのに、雑ではない。

ゆるいのに、投げやりではない。

このバランスは、なかなかありません。

教養は、正座しているときだけ来るわけではない

私は、教養というものを少し誤解していたかもしれません。

教養と聞くと、なんとなく姿勢を正したくなります。

分厚い本。

難しい言葉。

歴史。

哲学。

美術館。

クラシック音楽。

静かな図書館。

そして、眠くなってはいけない空気。

だいたいそういうものを想像します。

もちろん、それも教養です。

大事です。

ただ、私のような人間は、あまりにも正面から教養が来ると少し身構えます。

「今から学んでください」

と言われると、学生時代の記憶がよみがえる。

ノート。

テスト。

赤ペン。

提出期限。

急に胃が小さくなります。

でも『タモリ倶楽部』の教養は、少し違いました。

正面玄関から来ない。

むしろ裏口から来る。

笑っているうちに、知らない世界の入口に立っている。

ふざけているうちに、専門的な話が耳に入っている。

「何それ」と思っていたものが、だんだん「ちょっと面白いかも」に変わっている。

これは、かなり優しい教養です。

知識をありがたく拝むのではなく、面白がっているうちに、いつの間にか知らない世界の入口に立っている。

『タモリ倶楽部』の良さは、ここにあったのかもしれません。

教養を、ありがたいものとして高い棚に置かない。

手元に降ろす。

笑いの中に混ぜる。

変な企画の中に忍ばせる。

しかも、「さあ、学びなさい」と言わない。

気づいたら少し知っている。

これくらいが、私にはちょうどいいのです。

役立ちを急がないから、好奇心が残る

今の私たちは、すぐに役立ちを求めがちです。

この知識は何に使えるか。

この趣味は何につながるか。

この時間は何を生むか。

もちろん、必要な問いです。

何でもかんでも無計画でいいわけではありません。

家計簿も大事です。

締切も大事です。

冷蔵庫の賞味期限も大事です。

現実は、こちらの情緒を待ってくれません。

でも、すべてに役立ちを求めると、好奇心が少し縮む気がします。

「役に立つかどうか」で先に判定してしまうと、

「よく分からないけど気になる」

という気持ちが育つ前に切られてしまう。

これは、少しもったいない。

好奇心は、最初から立派な理由を持っていないことが多いです。

なんとなく気になる。

なんか好き。

理由は分からないけど見てしまう。

そのくらいの小さな芽です。

それを毎回、

「用途は?」

「成果は?」

「将来性は?」

と詰めていたら、芽は出る前に帰ります。

好奇心だって、圧迫面接は苦手です。

『タモリ倶楽部』は、その小さな好奇心を急かさない番組だったのかもしれません。

何の役に立つか分からない。

でも、ちょっと面白い。

それで十分。

その十分さが、今になるととても貴重に見えます。

大人が本気で遊ぶと、遊びは教養になるのかもしれません。

ただし、それは「遊びを教養に変換しましょう」という話ではありません。

遊びを、すぐに役立つものへ変えなくていい。

遊びを遊びのまま大事にしていると、結果として知らない世界が開くことがある。

そのくらいの、ゆるい教養です。

私は、そこに救われる気がしました。

役に立つものだけを集めていると、人生は整うかもしれません。

でも、面白がる力は、少し痩せていくかもしれない。

『タモリ倶楽部』は、深夜にその逆をやっていた。

整えすぎない。

急がない。

意味を決めつけない。

横道に入る。

面白がる。

そして気づけば、知らない世界が少し増えている。

それは、かなり大人の教養だったのではないかと思います。


マニアックなのに、なぜ置いていかれなかったのか

マニアックな世界は、面白いです。

でも、少し怖いです。

これは正直に言いたい。

知らない趣味。

専門的な言葉。

やたら詳しい人たち。

そこにしかないルール。

何をどこから聞けばいいのか分からない空気。

私は、そういう場所に入ると、すぐに借りてきた猫になります。

しかも、かなり礼儀正しい猫です。

「失礼があってはいけない」

「にわかだと思われてはいけない」

「変な質問をしてはいけない」

と、妙に縮こまります。

でも内心では、何も分かっていません。

分かっていないのに、分かっている顔をする。

出ました。

知性の偽装工作です。

また私が愚かでした。

マニアックな世界は、ときどき玄関が見つかりません。

入口の前に、いきなり地下室があります。

階段を降りた先で、もう常連の人たちが専門用語で盛り上がっている。

私は靴を脱ぐべきなのか、会員証が必要なのか、そもそもここが入口なのかも分からない。

そんな気持ちになります。

でも『タモリ倶楽部』は、その怖さを少しやわらげてくれる番組だったように思います。

分からない世界に、勝手口を作ってくれる

『タモリ倶楽部』には、マニアックなテーマがたくさんありました。

鉄道。

地形。

音楽。

空耳。

料理。

工作。

専門的な道具。

謎の業界。

細かすぎる趣味。

普通に生活していたら、なかなか触れない世界です。

たぶん自分からは検索しない。

おすすめにも出てこない。

友だちとの会話でも、いきなり出てこない。

「最近どう?」

「まあまあ。ところで、この特殊な工具についてなんだけど」

とは、なかなかなりません。

なる人もいるかもしれません。

その人とは友だちになりたいです。

でも多くの場合、知らない世界は、知らないまま通り過ぎていきます。

『タモリ倶楽部』は、そこにふらっと連れていってくれました。

しかも、正面からではありません。

授業のように、

「本日のテーマはこちらです。まず基礎知識から学びましょう」

とは来ない。

もっとゆるい。

もっと横から。

気づいたら、知らない世界の入口に立っている。

しかも入口が正面玄関ではない。

勝手口です。

『タモリ倶楽部』は、知らない世界に勝手口を作ってくれる番組だったのかもしれません。

勝手口だから、少し入りやすい。

きちんとした服を着ていなくてもいい。

完璧に理解していなくてもいい。

「何それ?」

という顔のまま入っていい。

これがありがたいのです。

私は正面玄関が苦手です。

立派な門構えを見ると、急に背筋が伸びます。

「私のような者が入ってよろしいのでしょうか」

という気持ちになる。

でも勝手口なら、少し気楽です。

「ちょっとのぞくだけです」

という顔で入れる。

『タモリ倶楽部』のマニアックさには、その気楽さがありました。

知らない人を置いていかないマニアックさ

マニアックな世界は、ときどき人を置いていきます。

これは仕方ない部分もあります。

深く好きな人たちが集まると、話は自然と細かくなります。

専門用語も出ます。

前提知識も増えます。

「これは当然知っていますよね」

という空気も生まれます。

私は、その空気を浴びると一瞬で不安になります。

当然を知りません。

当然の列車に乗り遅れています。

ホームで弁当だけ持っています。

でも『タモリ倶楽部』では、マニアックな話が出てきても、どこか笑える入口がありました。

専門家やマニアの熱量を、そのまま見せる。

でも、視聴者を試験にかけない。

「これが分からない人は帰ってください」

とは言わない。

分からない人も、その場にいられる。

むしろ、分からないこと自体が入口になる。

「何それ?」

「そんな世界があるの?」

「そこにこだわるの?」

この驚きが、番組の面白さになっていました。

ここがすごいです。

マニアックなものを分かりやすく薄めすぎると、面白さが消えることがあります。

でも、濃すぎると入れない。

『タモリ倶楽部』は、その濃さを笑いとタモリさんの空気でちょうどよくしていたのかもしれません。

専門的なのに、偉そうではない。

細かいのに、閉じていない。

変なのに、排他的ではない。

このバランスが、見ていて気持ちよかったのだと思います。

人の“好き”を見ると、少し元気になる

私は、人が何かを本気で好きな姿を見るのが好きです。

たとえ自分には分からなくても。

いや、分からないからこそ面白いことがあります。

なぜそこにそんなに熱くなれるのか。

何がそんなにうれしいのか。

どこが違うのか。

こちらには全部同じに見えるものを、相手は細かく見分けている。

これが面白い。

たとえば、文房具に詳しい人。

紙の厚みや書き味について語る。

私は最初、

「紙は紙では?」

と思います。

最低です。

でも、聞いているうちに少し分かってくる。

この人には、紙が一枚の世界として見えている。

ペン先と紙の相性に、ちゃんと物語がある。

そう思うと、急に紙が紙だけではなくなる。

私はそこまで詳しくなれなくても、その人の“好き”に触れるだけで、世界の解像度が少し上がります。

『タモリ倶楽部』には、そういう瞬間がありました。

知らない世界の人たちが、自分の好きなものを語る。

細かい。

熱い。

ときどき、こちらには意味が分からない。

でも、その熱量を見ていると、少し元気になります。

人間は、こんなにも細かいものを好きになれるのか。

こんなにもどうでもよさそうな差に、ときめけるのか。

それは、かなり希望です。

大げさに聞こえるかもしれません。

でも、本当にそう思います。

世界は、自分が知っている範囲だけではない。

誰かの“好き”の数だけ、横道がある。

そう思えるのは、少し救いです。

バカにするのではなく、面白がる

ここで大事なのは、『タモリ倶楽部』の笑いが、マニアックな人をただ笑いものにしていたわけではないということです。

もちろん、番組には笑いがあります。

変な企画もあります。

「そこまでやるのか」と思う場面もあります。

でも、私には、その笑いの奥に、どこか尊重があったように見えます。

バカにするのではなく、面白がる。

この違いは大きいです。

バカにする笑いは、相手を下に置きます。

「何それ、変なの」

で終わります。

でも、面白がる笑いは、相手の世界に少し近づきます。

「何それ、変だけど、ちょっと見せて」

になります。

この差です。

『タモリ倶楽部』は、知らない世界を、正しさで裁く番組ではありませんでした。

「これは役に立つのか」

「これは一般的なのか」

「これは意味があるのか」

と判定するより先に、

「面白いね」

と見る。

この姿勢があったから、マニアックなのに置いていかれなかったのだと思います。

分からないものを、分からないまま面白がっていい。

これは、かなりありがたい許可です。

大人になると、分からないことを恥ずかしく思いがちです。

知らないと不安。

説明できないと不安。

ちゃんと理解できないと、そこにいてはいけない気がする。

でも本当は、知らない世界に入るとき、最初から分かっていなくていいのです。

「何それ?」

から始めていい。

『タモリ倶楽部』は、その「何それ?」を笑いながら受け止めてくれる番組だったのかもしれません。

マニアックとは、閉じることではなく入口にもなる

マニアックという言葉には、少し閉じた印象があります。

分かる人だけの世界。

細かすぎる世界。

外から見ると入りづらい世界。

でも『タモリ倶楽部』を見ていると、マニアックとは必ずしも閉じることではないのだと思えてきます。

むしろ、知らない世界への入口にもなる。

一人の人が、何かを深く好きでいる。

その深さが、入口になる。

「そこまで好きなら、ちょっと見てみたい」

と思わせてくれる。

浅く広く知ることも大事です。

でも、誰かが深く掘った穴を横からのぞくのも、かなり面白い。

穴と言うと少し失礼です。

でも、趣味の世界はときどき穴です。

深い。

暗い。

底が見えない。

そして中から楽しそうな声がする。

怖いけど、気になる。

『タモリ倶楽部』は、その穴の横に小さな階段をつけてくれるような番組だったのかもしれません。

全部降りなくてもいい。

一番底まで行かなくてもいい。

専門家にならなくてもいい。

ただ、少しだけのぞく。

「こんな世界があるんだ」と知る。

それだけでも、日常は少し広がります。

私は、『タモリ倶楽部』のマニアックさに、そういう広がりを感じました。

分からないものを、分からないまま面白がっていい。

知らない世界を、完璧に理解できなくても、少しのぞいていい。

それは、役に立つか分からないけれど、心にはかなり効くことなのかもしれません。


空耳アワーは、役に立たないけど、笑いの最高峰だったのかもしれない

『タモリ倶楽部』を語るとき、やはり避けて通れないものがあります。

空耳アワーです。

この響きだけで、もう少し口元がゆるみます。

空耳。

アワー。

なんでしょう、この絶妙な軽さ。

世界を救う感じはありません。

社会課題を解決する感じもありません。

明日の業務効率が上がる感じもありません。

でも、なぜか記憶に残っている。

これはかなりすごいことです。

空耳アワーは、外国語の歌詞が日本語のように聞こえる現象を楽しむ名物コーナーでした。

しかも、ただ「そう聞こえるね」で終わらない。

そこに映像をつける。

投稿を受ける。

タモリさんと安斎肇さんが見る。

笑う。

賞品が出る。

冷静に考えると、かなり本気です。

聞き間違いに、ここまで丁寧に向き合う。

普通なら一瞬で流れていくものに、わざわざ椅子を用意して座らせる。

空耳アワーは、聞き間違いにわざわざ正装させるようなコーナーだったのかもしれません。

一瞬の聞き間違いを、わざわざ形にする

外国語の歌詞が、日本語のように聞こえる。

こういうことは、たしかにあります。

ふとした瞬間に、

「あれ、今なんて言った?」

となる。

本当は全然違う言葉なのに、こちらの耳が勝手に日本語として受け取ってしまう。

耳の空振り。

いや、空振りというより、謎のホームランです。

狙っていない方向に飛んでいく。

普通なら、その場で笑って終わりです。

「今、変に聞こえた」

「ほんとだ」

「くだらないね」

終わり。

それで十分です。

むしろ、それ以上どう広げるのか分かりません。

でも空耳アワーは、そこを広げました。

聞き間違いを投稿する。

映像をつける。

番組内で見せる。

大人たちが真剣に笑う。

この手間がすごいです。

役に立つかと言われると、かなり怪しい。

外国語学習に役立つかというと、むしろ少し危ない。

正しい発音から遠ざかる可能性があります。

英語の先生に見つかったら、少し困った顔をされるかもしれません。

でも、そこにしかない楽しさがありました。

正しく聞くことではなく、変に聞こえてしまうことを楽しむ。

間違いを、ただの間違いとして処理しない。

そこに笑いの居場所を作る。

これは、『タモリ倶楽部』らしい遊び方だったと思います。

役に立たない笑いを、役に立たないまま大事にしていた

空耳アワーのすごさは、聞き間違いを無理に役立てなかったことです。

「この空耳から学ぶ異文化理解」

みたいなことを言い出さない。

「聞き間違いが生むコミュニケーションの可能性」

みたいに、急に大学の講義にしない。

もちろん、後から考えれば、音の聞こえ方や言語の面白さにもつながるのかもしれません。

でも、番組の空気としては、まず笑う。

くだらない。

でも笑う。

それでいい。

この軽さが大事でした。

私は、つい何でも意味をつけようとします。

楽しかったら、

「この経験から得たものは何か」

と考える。

笑ったら、

「この笑いにはどういう構造があるのか」

と考える。

怖いです。

自分で自分を分析しすぎです。

笑ったら笑ったでいいのに。

なのに、すぐ感想文を書き始めようとする。

心の中の国語教師が強すぎます。

でも空耳アワーは、そういう分析を急がなくていい場所でした。

意味があるから笑うのではない。

役に立つから笑うのでもない。

ただ、変に聞こえたから笑う。

映像が妙に合っているから笑う。

その無意味さが、むしろ心をほどく。

意味がないからこそ、心がほどける笑いがある。

私は、そう思います。

間違いを責めずに、遊びに変える

空耳アワーを考えていると、もう一つ面白いことがあります。

それは、

間違いを責めない

ということです。

普通、聞き間違いは間違いです。

正しく聞けていない。

意味を取り違えている。

言語としては、不正確です。

大人になると、間違いはできれば避けたいものになります。

仕事では、間違えると修正が発生します。

メールの宛先を間違えると、汗が出ます。

資料の数字を間違えると、心拍数が上がります。

会議で用語を間違えると、帰り道に反省会が始まります。

しかも一人で。

脳内で。

長い。

私の脳内反省会は、議事録が残りそうなくらい長いです。

でも空耳アワーでは、聞き間違いが責められません。

むしろ歓迎されます。

「間違えたね」

ではなく、

「面白いね」

になる。

この変換が、とても優しい。

もちろん、仕事のミスを全部笑いにしましょうという話ではありません。

それはそれで危険です。

請求書の金額を空耳で処理してはいけません。

現実は現実です。

でも、日常の中には、間違いを少し遊びに変えられる場面もあります。

聞き間違い。

見間違い。

勘違い。

言い間違い。

本来なら「違う」で終わるものを、「面白い」に変える。

そこに、人間の余裕があります。

空耳アワーは、その余裕をコーナーにしていたのかもしれません。

間違いを正すだけではなく、間違いから笑う。

これは、かなり大人の遊びです。

大人が本気で無意味を形にする

空耳アワーの本質は、

大人が本気で無意味を形にする

ことだったのかもしれません。

本気で無意味。

すごい言葉です。

会社の目標設定には絶対に書けません。

「今期は、本気で無意味を形にします」

上司が静かに資料を閉じます。

でも、空耳アワーにはその豊かさがありました。

意味がないものを、意味がないから捨てるのではなく、意味がないまま形にする。

聞き間違いに映像をつける。

投稿を集める。

笑い合う。

ただそれだけ。

でも、その「ただそれだけ」が、なぜか忘れられない。

私たちは、役に立つものを残そうとします。

便利なもの。

効率のいいもの。

成果につながるもの。

説明しやすいもの。

でも、人の記憶に残るのは、ときどき説明しにくいものです。

何の役に立ったのか分からない。

でも笑った。

なぜ好きだったのか分からない。

でも覚えている。

そういうものが、心の奥に残っている。

空耳アワーは、まさにそういうものだった気がします。

意味がないものに、居場所を作る

空耳アワーは、意味がないものに居場所を作るコーナーでした。

外国語の歌詞が、日本語に聞こえる。

それ自体は、意味のある情報ではありません。

むしろ誤解です。

でも、その誤解に居場所を与える。

「それは間違いです」と終わらせない。

「面白いから、ちょっと見せて」と言う。

この姿勢は、『タモリ倶楽部』全体にも通じている気がします。

役に立つか分からないもの。

意味があるか分からないもの。

誰が必要としているのか分からないもの。

そういうものを、すぐに捨てない。

少し眺める。

面白がる。

形にする。

その中から、笑いや好奇心が生まれる。

ここに、無駄の豊かさがありました。

空耳アワーは、役に立たない笑いを、役に立たないまま大事にしていた。

そして、それが多くの人の記憶に残った。

これは、かなり不思議です。

でも、同時にかなり納得もできます。

人間は、役に立つものだけで生きているわけではありません。

むしろ、役に立つか分からない笑いに、何度も救われています。

くだらないことで笑った夜。

意味のない会話で少し元気になった帰り道。

何の成果にもならない動画を見て、やっと肩の力が抜けた時間。

そういうものは、記録には残りにくい。

でも、心には残ります。

空耳アワーは、その小さな無駄の価値を、かなり本気で見せてくれていたのかもしれません。

意味がないからこそ笑えるものがある。

役に立たないからこそ、心が休まるものがある。

そう考えると、空耳アワーはただの名物コーナーではなく、

無駄を楽しむ力の象徴

だったのだと思います。


最後まで、横道にいる番組だった

『タモリ倶楽部』らしさを考えるうえで、最終回の話はかなり象徴的です。

『タモリ倶楽部』の最終回は、2023年3月31日深夜に放送されました。

約40年続いた番組の最後です。

普通なら、かなり大きく構えたくなります。

名場面集。

豪華ゲスト。

感動の手紙。

番組を支えた人たちの証言。

花束。

拍手。

「ありがとう、タモリ倶楽部」。

そういう方向へ行きたくなる気がします。

もちろん、それはそれで見たいです。

私はたぶん泣きます。

深夜に一人で、ティッシュを抱えて泣きます。

翌朝、目が少し腫れたまま出勤します。

「花粉です」と言います。

でも、『タモリ倶楽部』の最終回企画は、そういう壮大な感動回ではありませんでした。

企画は、

タモリさんの料理レシピを訂正する

という内容でした。

40年の最後に、レシピの訂正。

普通なら、もう少し花束を持たせたくなります。

でも、この感じが、ものすごく『タモリ倶楽部』らしいと思ってしまいました。

40年の最後に、レシピの訂正

最終回にレシピの訂正。

この文字だけで、少し笑ってしまいます。

いや、笑っていいのか分かりません。

最終回です。

長寿番組の最後です。

でも、レシピです。

しかも訂正です。

壮大な別れの言葉ではなく、作り方の確認。

湿っぽさより、台所。

記念碑より、調味料。

ここに、最後まで横道に立っている感じがあります。

もちろん、これは私の受け取り方です。

番組側にどんな意図があったのかを、勝手に断定することはできません。

でも、視聴者として見ると、

「ああ、最後まで正面玄関に戻らなかったんだな」

と思ってしまいます。

40年続いたからといって、急に大河ドラマの最終回みたいにしない。

深夜番組らしい軽さを残す。

大げさに泣かせすぎない。

最後まで、どこか変。

最後まで、少し横。

最後まで、役に立つのか分からないけれど、妙に見てしまう。

この距離感が、『タモリ倶楽部』だったのかもしれません。

私はこういう終わり方に、少し救われる気がします。

終わりには、つい意味を求めたくなります。

総括。

感謝。

功績。

名場面。

歴史。

それも大事です。

大事なのですが、すべての終わりが立派でなくてもいい。

最後まで、いつもの調子でいる。

最後まで、横道で笑っている。

そういう終わり方もある。

『タモリ倶楽部』は、そこを見せてくれたような気がしました。

深夜という時間に似合う距離感

『タモリ倶楽部』は、深夜に似合う番組でした。

昼間の番組には、昼間の顔があります。

明るい。

分かりやすい。

元気。

役に立つ。

誰にでも届く。

もちろん、それは大事です。

昼間からあまりにも横道に入られると、こちらも困ることがあります。

洗濯を干しながら、急に専門的すぎる趣味の深淵を見せられたら、タオルを持ったまま固まります。

でも、深夜は少し違います。

一日の用事がだいたい終わっている。

明日のことを考えると寝たほうがいい。

でも、まだ少しだけ起きていたい。

そんな時間です。

人間が少しだけ真面目を脱ぐ時間。

昼間の自分から、少し離れる時間。

『タモリ倶楽部』は、その時間にちょうどよく存在していた気がします。

「さあ、役に立つ情報を吸収しましょう」

ではない。

「今日の疲れを感動で浄化しましょう」

でもない。

「人生を変えましょう」

でもない。

ただ、変なものを少し見る。

知らない世界をのぞく。

くだらないことで笑う。

それで、なぜか少し気持ちが軽くなる。

深夜には、そういう番組が必要だったのかもしれません。

私は夜になると、昼間より少し判断力がゆるみます。

ネット通販も危険です。

深夜の私は、昼間の私より財布のひもがゆるい。

なぜ深夜に収納グッズを買うのでしょうか。

しかも、昼間に見たらそこまで必要ではない。

夜の私は、未来の自分を過信しています。

「これがあれば片づく」

片づきません。

片づけるのは私です。

でも、そんなふうに人間が少しゆるむ時間だからこそ、『タモリ倶楽部』の横道感は合っていたのかもしれません。

深夜は、少し無駄が許される時間です。

立派でなくてもいい。

効率的でなくてもいい。

ただ、面白いものを面白がっていい。

そういう空気がありました。

独創性とは、横道を横道のまま守ることだったのかもしれない

番組終了時には、『タモリ倶楽部』は「深夜の顔」として語られ、その独創性も大きな財産として受け止められていました。

独創性。

これもまた、少し硬い言葉です。

でも『タモリ倶楽部』における独創性とは、派手な新しさだけではなかったように思います。

もっと静かなものです。

横道を、横道のまま守ること。

役に立つか分からないものを、役に立つ形へ無理に変えないこと。

マニアックなものを、薄めすぎないこと。

くだらないものを、くだらないまま大事にすること。

これも独創性だったのではないでしょうか。

現代では、何かを続けるために、分かりやすさが求められます。

誰に向けているのか。

何が得られるのか。

どんな価値があるのか。

どこが売りなのか。

それを説明できることは大事です。

大事なのですが、『タモリ倶楽部』は、そこから少し離れた場所にいました。

いや、完全に離れていたわけではありません。

番組として成立していた以上、ちゃんと作られていたはずです。

でも、視聴者から見ると、

「これ、誰に向けているの?」

と思うような企画が、ちゃんと放送されている。

そこに自由さがありました。

正面玄関ではなく、横道に椅子を出していた番組だったのかもしれません。

通りかかった人が、

「何してるんですか」

と聞く。

すると、

「ちょっとこれが面白くて」

と返ってくる。

それだけ。

でも、気づくと隣に座って見ている。

そんな番組でした。

横道があるから、人生は少し広くなる

私は、横道が苦手になっていたのかもしれません。

最短距離。

効率。

目的。

成果。

分かりやすい価値。

そういうものばかり見ていると、横道に入るのが怖くなります。

こんなことをしていていいのか。

時間を無駄にしていないか。

何につながるのか。

また心の中の経理部が出てきます。

「この横道の費用対効果は?」

うるさい。

横道くらい、黙って歩かせてほしい。

『タモリ倶楽部』は、その横道を肯定してくれる番組だった気がします。

役に立つ正面玄関ではなく、面白い横道。

そこには、知らない趣味がある。

変な笑いがある。

マニアックな人の熱量がある。

意味があるのか分からないけれど、なぜか忘れられない時間がある。

人生は、正面玄関だけでできているわけではありません。

仕事。

家事。

用事。

責任。

予定。

それらは大事です。

でも、それだけだと少し息が詰まる。

横道があるから、景色が増える。

無駄があるから、心が座る場所ができる。

『タモリ倶楽部』は、最後までその横道にいた番組だったのかもしれません。

40年の最後に、レシピを訂正する。

その少しずれた感じに、私は番組の美学を感じました。

大げさに意味を背負わない。

でも、雑ではない。

くだらないことを、ちゃんと面白がる。

最後まで、深夜の横道に椅子を出している。

そんな番組だったのだと思います。


もっと知りたくなった人へ

役に立つか分からない世界を、もう少し楽しみたい人へ

『タモリ倶楽部』について考えていると、番組そのものだけでなく、タモリさんの“面白がり方”が気になってきます。

なぜ、あんなに力が抜けているのに、見ているこちらは置いていかれないのか。

なぜ、どうでもよさそうなことを話しているのに、いつの間にか知らない世界の入口に立っているのか。

なぜ、正解を急がないのに、話が退屈にならないのか。

この不思議です。

私はつい、会話にも成果を求めてしまうことがあります。

「で、何の話だったんだっけ」

「結論は?」

「それで、どうなったの?」

すぐに着地を探す。

また心の中の司会者が出てきます。

「そろそろまとめに入りましょう」

うるさい。

雑談くらい、横道に行かせてほしい。

でも、タモリさんの番組を見ていると、横道に入ることそのものが面白さになっているように感じます。

正面から答えに行かない。

相手の話を急いで整理しない。

分からないものを、分からないまま少し眺める。

その余白があるから、会話も番組も、どこか呼吸しているように見えるのかもしれません。

この“面白がる力”をもう少し知りたい人には、まず『タモリ学』が合いそうです。

タモリさんの発言やエピソードを読み解きながら、その独特の魅力に迫る本なので、今回の記事で考えた、

無駄に見えるものを面白がる大人の知性

を、もう少し別の角度から見られると思います。

タモリ学

もう一冊、タモリさんの“会話の余白”に興味がある人には、『タモリさんに学ぶ話がとぎれない 雑談の技術』も相性が良さそうです。

ただ、私はこれを、

「会話術を身につけるぞ」

と肩に力を入れて読むより、

タモリさんのように、相手の話を急いで正解に持っていかない空気を味わう本

として読むほうがちょうどいい気がします。

雑談も、考えてみれば少し無駄です。

結論が出ない。

何かが解決するわけでもない。

議事録も残らない。

次のアクションも決まらない。

会社なら少し不安になる時間です。

でも、その無駄なやりとりの中で、人との距離が少しだけやわらぐことがあります。

くだらない話をしているうちに、肩の力が抜ける。

意味のない一言で、場が少しあたたまる。

用件だけでは届かないものが、雑談の中では届くことがある。

そう考えると、雑談もまた、心の横道なのかもしれません。

タモリさんに学ぶ話がとぎれない 雑談の技術 【電子書籍】

役に立つ本だけで本棚を埋めなくてもいい。

少し横道に入る本があると、心に通気口ができます。

もちろん、実用書も大事です。

家計管理。

健康。

仕事術。

文章術。

どれも大切です。

私も買います。

そして積みます。

積んでいる時点で、もはや仕事術とは何かを考えます。

でも、全部の本が「明日から使える」必要はないのかもしれません。

すぐには役に立たない。

でも、なんとなく気になる。

読んだあと、少しだけ世界の見え方がゆるむ。

そういう本が、本棚に一冊あるだけで、日常に小さな横道が増えます。

『タモリ倶楽部』が好きだった人には、たぶんその横道が似合います。

最短距離ではないけれど、少し楽しい道。

目的地にはすぐ着かないけれど、途中で変なものを見つける道。

人生を劇的に変えるわけではないけれど、心の風通しが少し良くなる道。

そんな道を、もう少し歩いてみてもいいのかもしれません。


まとめ:無駄は、心が呼吸するための余白だったのかもしれない

私は、無駄な時間が少し怖くなっていました。

何かの役に立たなければいけない。

学びにならなければいけない。

成果につながらなければいけない。

将来の自分に回収されなければいけない。

そんなふうに、いつの間にか時間を査定していました。

映画を見ても、感想を探す。

本を読んでも、学びを探す。

散歩をしても、健康効果を探す。

休んでいても、回復効率を探す。

もう、心の中がずっと審査会です。

「この時間の有用性について説明してください」

やめてください。

私はただ、深夜にぼんやり笑っていただけなのです。

でも、『タモリ倶楽部』について調べてみて、少し考えが変わりました。

あの番組は、役に立つか分からないものを、役に立つか分からないまま楽しんでいたように見えます。

マニアックな趣味。

知らない世界。

細かすぎるこだわり。

聞き間違い。

横道。

深夜のゆるい空気。

普通なら、

「それ、何の役に立つの?」

と聞かれて終わりそうなものを、番組はすぐに終わらせませんでした。

少し眺める。

面白がる。

映像にする。

大人たちが本気で遊ぶ。

すると、どうでもよさそうだったものが、少しずつどうでもよくなくなる。

無駄に見えるものの中に、笑いや好奇心や、知らない世界への入口があったのです。

役に立つことだけで人生を埋めると、心が座る場所がなくなる

もちろん、役に立つことは大事です。

仕事も大事。

家事も大事。

健康も大事。

お金も大事。

請求書は、詩では払えません。

どれだけ情緒豊かに月を眺めても、電気代は引き落とされます。

現実は、かなり現実です。

だから、効率も必要です。

目的も必要です。

成果も必要です。

私も、できれば仕事は早く終わらせたい。

無駄な会議は減ってほしい。

無駄な手続きも短くなってほしい。

無駄に複雑なパスワード更新ルールも、そろそろ人類にやさしくなってほしい。

でも、役に立つことだけで人生を埋めると、心が座る場所がなくなる。

これも本当だと思うのです。

全部に意味がある。

全部に目的がある。

全部に成果がある。

それはきれいです。

でも、少し息苦しい。

収納が完璧すぎて、くつろぐ隙間がない部屋みたいです。

片づいている。

美しい。

でも、座ると緊張する。

人生まで、そんなモデルルームみたいにならなくてもいいのかもしれません。

少しくらい、変なものが置いてあってもいい。

何に使うのか分からないけれど、なぜか捨てられないものがあってもいい。

誰にも説明できない好きなものがあってもいい。

意味はないけれど、笑ってしまう時間があってもいい。

そういう余白が、心を少し休ませてくれるのだと思います。

私は、無駄を嫌っていたのではなく、無駄を許す余裕を失っていた

今回、『タモリ倶楽部』について考えていて、いちばん残ったのはここでした。

私は、無駄を嫌っていたのではなく、

無駄を許す余裕を失っていた

のかもしれません。

本当は、くだらないことで笑いたい。

意味のない話をしたい。

結論の出ない雑談をしたい。

何の役に立つか分からない本を読みたい。

知らない世界を、分からないままのぞいてみたい。

でも、どこかで怖かったのです。

こんなことをしていていいのか。

もっと有益なことをしたほうがいいのではないか。

この時間は何につながるのか。

また心の中の経理部が、電卓をたたき始める。

本当に忙しい部署です。

『タモリ倶楽部』は、その電卓を少し止めてくれる番組だったのかもしれません。

役に立たない笑いを、役に立たないまま大事にする。

マニアックな世界を、分からないまま面白がる。

大人が本気で、無駄に見えるものを遊ぶ。

その姿を見ていると、

「ああ、こういう時間があってもいいのか」

と思えてくる。

それは、派手な救いではありません。

人生が劇的に変わるわけでもありません。

明日から急に生産性が上がるわけでもありません。

むしろ、生産性という言葉から少し離れるための時間です。

でも、その小さな離れ方が大事なのだと思います。

無駄は、心が呼吸するための余白だった

『タモリ倶楽部』は、ただのゆるい深夜番組ではありませんでした。

少なくとも、今の私にはそう見えます。

変なものを、変なまま面白がれる場所。

知らない世界に、勝手口を作ってくれる場所。

意味のない笑いに、居場所を作る場所。

最後まで、正面玄関ではなく横道に椅子を出していた番組。

そこには、大人が忘れがちな自由がありました。

役に立たないものを、役に立たないまま楽しむ自由。

分からないものを、分からないまま面白がる自由。

くだらないことを、くだらないまま笑う自由。

私はそれを、少し忘れていました。

無駄は、ただ削るものではなかった。

無駄は、心が呼吸するための余白だったのかもしれない。

そう思うと、今日のぼんやりした時間も、少し許せる気がします。

意味のない雑談も。

つい見てしまう変な動画も。

何の役に立つか分からない本も。

深夜に笑ってしまうくだらないことも。

すぐには役に立たないかもしれません。

でも、心のどこかに小さな通気口を作ってくれる。

それだけで、十分なのかもしれません。

また一つ、

「知ってるつもり」が減りました。

でも、まだまだ知らないことばかりです。

次回も一緒に、

「知ってるつもりでした。」

を卒業しに行きましょう。

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