【短編小説】チョコレートのような恋
今秦 楽子
♯1
目をあけると輸液瓶からポタポタと俺の血管につながった管が真っ赤なルートを作っていた。
「生きたい、死にたくない」 そう彼女に告げた記憶の中で俺の中から吐き出したチョコレート色をした血液がどんどん広がって行くそんな夢から覚めた時。
「目が覚めましたか」 柔らかく声をかける看護師にここは病院かと問いかけて、少しずつ記憶を辿ってみる。そうか血を吐いて救急病院に運ばれたんだった。細かなことを思い出してきた。
「彼女さんはもう帰りましたよ。明日また来るって言っていました」 またも柔らかい声が僕の耳を通っていった。
「もう夜か、長いようでほとんど夢の中だったようなそんな1日」 声にならない独り言を呟きながら真新しい天井の角を見つめていた。
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「ポンくんただいまー、長い間待ったね。偉かったよ」
ドアを開けて走り寄る子犬の頭や背中をなでつけて一緒ぐらい1日が長かったと振り返りながらリビングへ歩んだ。
今日は彼を救急車に乗せて病院まで付き添った。気の遠くなるような1日だった。
ソファーに深く体重を預け、トイレのドアを見つめた。そこには今日の惨烈さを物語っている、チョコレートの雫のような跳ねた壁の染みがある、わかっているけれどそれを掃除する気力がもうなかった。彼が血を吐いた。その時の染み。
「俺、死ぬんかなぁ……」
「救急車呼ぶから、それに乗ったら生きれるから。大丈夫やから」
「生きたい、死にたくない」
彼の放った言葉は腹からでてきたコトバだった。
♯2
「お疲れさま、久しぶりの我が家だね、あらかた掃除したから印象いいでしょ」
彼女がそう言う白を基調とした部屋を見渡した。吐血が間に合わなくてトイレの前をチョコレート溜りにしたあの光景はもう微塵も感じなかった。
ソファーに腰掛け、すり寄る愛犬の体を撫でつけた。
「ポンくんも心配だったと思うよ、ね、ポンくん。」
サマーカットが少し伸びてふさふさとした体の先の尾っぽを、名一杯振っている、愛犬のポン。彼が俺の視線を掴もうと顔を覗き込ませている。
「ただいま、帰ってきたよ、ポン。いい子にしていたかい」
ポンはまた尻尾を大きく振って俺の頬を丁寧に舐めて歓迎していた。
「お酒は?」
心配そうに顔を覗き込みながら、飲まないの返事しか受け止めないと顔にきっちり書いている彼女の視線は俺をそっと追いつめた。
「もうこんなことになったし、お医者さんにも言われたから……大丈夫だよ」
彼女を安心させるためのセリフだった。
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彼はしばらく仕事をセーブして休養をとるとわたしに話した。
「楽子ちゃんは、好きなようにしてて大丈夫だから」
2週間前のこと、わたしは仕事を離れていた。家で書き物をするため、そしてその準備のため。不定期の仕事で受注が入ってから動こうと思っていた矢先の出来事だった。
人は外勤めをやめるタイミングだったんだよ、なんて慰めてくれる。
わたしもきっと仕事を続けていたら、彼の急変に対処できなかったし、見舞いに行くことすら難しくなっていただろう。と、今なら思う。
そういう意味では思い返すとわたしは彼に必要な人であると今は認識する。けれど。
本来そんな立場に立っていていいのだろうか。とも思う。彼にとってのカノジョとは。何か刺激し合う仲なのか、何か認め合う仲なのか、なんのために付き合っているのだろう。
ソファーの隣でポンくんとじゃれついている彼を見ながら、しばらくは彼と暮らす事がわたしの仕事なんだろうと着地した。
「そうだね、未来小説の仕事受けながら、ボチボチ書きためるよ。ありがとう」 彼に微笑んだ。
♯3
「ダメだよな、俺」 と思いながら缶酎ハイのプルトップを鳴らす。
血を吐いたあの日から2週間。久しぶりのアルコールは喉を通った瞬間に、爽快感と一緒に胃と腸を走る。みるみる今まで溜めていたフラストレーションがプツプツと音を鳴らしながら弾けていった。
今日は彼女が福岡に友達に会いに行きがてら一泊してくるというので、久しぶりにひとりの時間が与えられた。用事を済ませに街まででた後、どっと疲れた身体は吸い込まれるようにコンビニに立ち寄って缶酎ハイを手にしていた。そう、やめようと思えばいつでもやめられる。呪文を唱えながらレジに並んだ。
彼女に一生の約束をした訳ではないし、俺は酒ときちんと付き合っていけるはず。そう言った思考は、今まで尽く肝臓や膵臓を傷めた結果、今回のように食道静脈瘤として命を落とす際を彼女に見せた事をも薄ら遠い記憶に染めた。
あの日「生きたい、死にたくない」 と身体から出てきた言葉でさえも、また、身体の奥底へ押し込めていった。
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「飲んだんだ、ま、2週間の禁酒がんばったよね」
彼に聞こえるかの声量で声かけるしかなかった。行っておいでという彼の言葉に甘えた過去の自分を悔やんだ。順調だった禁酒生活も一旦終止符を打つ。それがまた彼の死と隣り合わせに生活が始まることを意味していた。
そもそも福岡に会いに行った友達と死生観について語らった。彼女は元彼を亡くす体験をしていたから、是非聞きたかった。直接会って。彼女は言った。自分のしてきた事を後悔していない、と。そこに至るまでには時間がかかったし葛藤もあったけれどと足した。
万が一、吐血してショックに至っても責任をもつ、と言うわたしの覚悟は揺るぎないものになった。それは大きなものを引き受ける事を意味しているけれど、逆に、大きなものを引き受ける器がわたしに備わっていることが認知できた時間でもあった。
「彼の何を愛しているの?」 なんて聞かれた時に、彼のもつ才能だと答えた。
彼が生まれた意味はきっとその才能を開花させて、影響与えることだと思う。それができる日までは死なされない、後悔させないから、その日までその日まで一緒に生きたいと思った。
♯4
「どう生きようが俺の人生だから」 そういい放ったら彼女は俺の目をまっすぐみて、「いいんだね、わかった」 と言った。
「その代わり残った人生かけて、楽子ちゃんを大切にする。約束する」 彼女の目は優しく緩んでいった。
どうしようもない俺。酒に依存的な性格はどう努力しても変えられなかった。彼女と付き合って2年。彼女はその辺りを理解してくれている。吐血したあの日、薄れゆく意識の中、一旦ここで死んでもいいと言った時、彼女は動じもせず「わかった」 とも話した。けれど腹から出た言葉に掻き消されたのだけれど。
俺はこの酒で身体を壊し幾度も命を落としかけた。そのたび周囲に多大な心配をかけ通しだった。はじめは心配してもらうのも良かった。けれど肝臓や膵臓を痛めつけるたび、周囲からは理解を超えて「失望」 という冷ややかな視線を浴びるようになった。それに痛く反応して、また酒を煽る。悪循環。
周りから愛されたい、ただそれだけを願っているのに。
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彼が好きに生きたいと言った。わたしはそれを肯定した。それは投げやりなんかじゃなくて。遠距離を経て彼のもとへ来ると決めたあの日から、伴走者として一緒に人生を渡る覚悟だった。
彼の才能に惚れただけではない。彼の傷ついた身体、生きてきた奇跡、そして生きるチカラ。それらに愛情を注ぎたい、そう思って遥々やってきたのだ。
「buzzさんはbuzzさんのままで生きて」
何か刺激し合うでもなく、何か認め合うでもなく、あるがままを受け止めることこそ、伴走者たるものなんだと、素直に思った。
そしてわたしに出来ることは、彼の思いを聞くことにあると思う。彼の体験してきた長い歴史、彼の夢、わたしの夢も。それらに想いを馳せて語らおうと思う。
少し前から、夜中に文章に向き合っている彼の姿があった。これから発表する作品について、校正を始めたらしい。彼がまた再び歩き始めている。ワクワクドキドキを携えて、彼の引っ張る方向へわたしも誘われよう。
♯5
窓の外は薄暗く、激しい雨露がベランダを打ちつけた。ポンは雷に向かって大きな鳴き声で吠えだすと、彼女は慌ててポンをすくい上げ、ソファーに座る俺の横に彼を抱いて腰掛けた。
光ってすぐにけたたましい雷鳴が響いたと思うと、部屋は真っ暗になった。停電だった。
真っ暗な部屋にスマホで灯した小さな明かりをもとに彼女と笑い合った。
「こんなシチュエーションだからいうね」 彼女が切り出した。
「buzzさんのしたい様に生きればいい。ただ全力で生きて欲しい。そのためならわたし、何でも協力するから。それでね、buzzさんの未来小説を書かせて欲しいの。あなたのなりたい自分を描かせて欲しい」
急な彼女の申し出だったけれど、頷かざるをえなかった。吐血したあの日、命が持って行かれるならそれも運命だと、俯瞰してみていた自分がいた。全力で生ききれていない、まだやり残したことが俺にはある。それは書き上げなければいけない文章だったり、これからも書き続けなければいけないことだったり。そして楽子ちゃんの文章を開花させて見届けなければならない。それより何よりも彼女を幸せにすること。ソファーでポンに話しかける彼女は笑っていた。
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「じゃ、インタビューはじめるね。録音させてもらうよ」
「OK」
わたしの書く未来小説は不思議なチカラがある。依頼された方のあらゆる夢や妄想について、書き上げるのだけれど、遠い夢や叶わぬ妄想ですら現実に近づいてくる。一旦夢が遠のいたとしてもまた必ず近づいてくる。それほどの引力が秘められている。
今回は彼の未来をカタチにしたくて申し出た。今までは胡散臭いなんて本気に取りあってこなかった未来小説。彼の心境の変化が不思議だけれど。
彼には未来がある事を知って欲しかった。わたしにも平等に未来があるように、幸せになるための未来を描きたい。
「何でもいい、俺の文章で文学賞をとる」 彼の出したエンディングはそんな想いが乗っかった。
60歳まで文章を書いているかな。と付け足した彼のインタビューを終え、後20年生きるしかないね、とわたしはひとり呟いた。
彼がお酒と一緒に買ってきた板チョコを割りながら甘い20年になりそうだと一口頬張った。
了
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縦書きで、残したいから。
