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第1話「楽泳スイミング、始まる」

導野湊、40代後半。

長くスイミングコーチとしてプールサイドに立ち続けてきた湊は、ある日、自分の名前で小さなスイミングスクールを始めた。

名前は、楽泳スイミング。

楽しく、楽に泳ぐ。

それは、ただ力を抜いて泳ぐという意味だけではなかった。

水が怖い子も。

泳ぐことに不安がある子も。

できないことを恥ずかしいと思っている子も。

まずは、安心して水の中にいられるように。

笑顔でプールに来て、笑顔で帰れるように。

そんな願いを込めてつけた名前だった。

けれど、現実は簡単ではなかった。

大きな看板があるわけではない。

有名なスクールでもない。

最初からたくさんの子どもたちが集まるわけでもない。

湊は、スマートフォンの画面を見つめた。

申し込みフォームの通知は、まだ来ていない。

「……まあ、始めたばかりだしな」

そう口に出してみたものの、胸の奥には小さな不安が残っていた。

本当に来てくれるのだろうか。

続けていけるのだろうか。

自分のやりたい水泳は、ちゃんと届くのだろうか。

湊は、プールバッグを肩にかけた。

今日も、プールへ向かう。

受付を通り、プールサイドに立つ。

水の音が聞こえた。

ざぶん。

ぱしゃん。

子どもたちの声。

コーチの笛の音。

水面に反射する光。

湊は、ゆっくり息を吸った。

水の匂いがした。

「ここから、始めるんだ」

自分に言い聞かせるように、そうつぶやいた。

その日、楽泳スイミングの体験に来たのは、ひとりの男の子だった。

名前は、晴斗。

小学2年生。

お母さんの後ろに隠れるようにして、プールサイドに立っていた。

水着に着替えてはいる。

帽子もかぶっている。

ゴーグルも手に持っている。

でも、晴斗の足はプールの方へ向いていなかった。

お母さんは、申し訳なさそうに湊に頭を下げた。

「すみません。本人は来るって言ったんですけど、やっぱり水を見ると怖いみたいで……」

湊は、晴斗の目線に合わせるようにしゃがんだ。

「晴斗くん、来てくれてありがとう」

晴斗は、お母さんの服をぎゅっと握ったまま、小さくうなずいた。

「水、ちょっと怖い?」

湊がそう聞くと、晴斗はしばらく黙ってから、ほんの少しだけ首を縦に動かした。

「そっか。怖いって言えたの、すごいね」

晴斗が、少しだけ顔を上げた。

湊は続けた。

「今日は、いきなり泳がなくていいよ。顔をつけなくてもいい。まずは、プールの近くに来られた。それだけでも一歩進んでる」

お母さんの表情が少し和らいだ。

けれど、晴斗の手はまだ離れない。

その時だった。

プールの奥の方で、水面がゆらりと不自然に揺れた。

湊は、ふとそちらを見た。

普通の水の揺れではなかった。

水面に、黒い影のようなものが浮かんでいた。

それは、煙のようでもあり、墨を水に落としたようでもあった。

影は、晴斗の足元へゆっくり近づいてくる。

湊の胸の奥が、ざわついた。

その影から、小さな声が聞こえた。

「できない」

「こわい」

「笑われる」

「また失敗する」

「水なんか、入らなければいい」

晴斗が急に肩を震わせた。

「やっぱり……やめる」

お母さんが慌てて声をかける。

「晴斗、大丈夫だよ。せっかく来たんだから、少しだけ……」

「いやだ!」

晴斗の声がプールサイドに響いた。

周りの人たちが少しこちらを見る。

晴斗はその視線に気づき、さらに体を固くした。

「見ないで……」

湊は、すぐに晴斗と周りの間に立った。

「大丈夫。大きな声を出してもいいよ。怖い時は、怖いって言っていい」

晴斗の目に涙が浮かんだ。

黒い影は、晴斗の足元から体にまとわりつくように広がっていく。

湊には、それが何なのかはっきりとはわからなかった。

でも、感じた。

これは晴斗そのものではない。

晴斗の中にある不安が、形になっている。

湊の胸の奥で、第0話の夜に生まれた小さな光が、かすかに揺れた。

笑顔で来て、笑顔で帰る。

その言葉が、胸の中に浮かんだ。

湊は、晴斗に静かに言った。

「晴斗くん。今日は水に勝たなくていい」

「……え?」

「水と友だちになる日でいい」

晴斗は涙をこらえながら、湊を見た。

「友だち……?」

「そう。いきなり仲良くならなくていい。まずは、あいさつだけでいい」

湊は、プールの水を手ですくった。

そして、自分の手のひらの上の水を晴斗に見せた。

「これが今日の相手。怖い水じゃなくて、晴斗くんに会いに来た水」

晴斗は、少しだけ水を見た。

黒い影が、ざわりと動いた。

「むりだ」

「できない」

「こわい」

その声が、湊の耳に強く響く。

湊は、胸に手を当てた。

光が強くなる。

頭の中に、子どもの頃に描いていたヒーローの姿がよぎった。

ひとりの時間に、何度も想像していたヒーロー。

誰かを守るヒーロー。

不安に立ち向かうヒーロー。

でも今、湊は気づいた。

ヒーローは、敵を倒すためだけにいるんじゃない。

目の前の子が、一歩進むためにいる。

湊の左手首が、ふっと温かくなった。

そこには、いつも身につけているブレスレットがあった。

ただのブレスレットだったはずのそれが、淡い水色の光を帯びていく。

水面がきらめいた。

湊の周りに、小さな水の粒がふわりと浮かび上がる。

お母さんも、晴斗も、それに気づいて目を見開いた。

「コーチ……?」

晴斗が小さくつぶやいた。

湊は、自分でも驚いていた。

でも、不思議と怖くはなかった。

胸の奥の光と、手首の光がつながっていく。

水の音が、はっきり聞こえた。

ざぶん。

ぱしゃん。

すうっと、前へ流れる音。

湊は、静かに言った。

「ラクエイ・クロス」

その瞬間、水の光が湊のそばに集まり始めた。

足元から立ち上る水の流れ。

青と白の光が交差しながら、ひとつの姿を描いていく。

胸の中心には、交差する水の光。

やがてそこに現れたのは、湊が子どもの頃から頭の中で描いていたヒーローの姿だった。

ラクエイ・クロス。

スイミングスタイル。

それは、湊のそばに立つ、もう一人の相棒。

不安に立ち向かうための力。

誰かの一歩を支えるための存在。

ラクエイ・クロスは、湊の少し後ろに立ちながら、静かに晴斗を見つめていた。

まるで、

「大丈夫。ひとりじゃない」

と伝えるように。

湊は、その存在をそばに感じながら、晴斗の前に立った。

ずっと心の中にいたヒーローが、今、確かにここにいる。

黒い影が、晴斗の周りで大きく揺れた。

その影は、形を変え始める。

水面から立ち上がるように、黒い水のかたまりが現れた。

目のようなものはない。

口のようなものもない。

それでも、声だけが響いていた。

「こわい」

「できない」

「失敗する」

「見られている」

「笑われる」

湊は、その声を聞いて、すぐにわかった。

これは、晴斗の敵ではない。

晴斗がずっと抱えていた不安だ。

湊は、黒い影に向かって身構えた。

でも、拳を握らなかった。

手を開いた。

「晴斗くんの不安だね」

影の声が止まる。

「怖いって思うのは、悪いことじゃない」

湊は続けた。

「でも、その不安で晴斗くんの一歩を止めるなら、僕は向き合う」

黒い影が激しく波立った。

水しぶきが上がる。

影が、晴斗の方へ伸びる。

その瞬間、湊のそばにいたラクエイ・クロスが、静かに一歩前へ出た。

激しく攻撃するのではなく、湊と晴斗の間に立つように。

守るように。

支えるように。

湊の左手のブレスレットが光る。

ラクエイ・クロスの胸のクロスも、同じように淡く光った。

湊は、晴斗に言った。

「大丈夫」

「まずは、指先だけでいい」

湊は手のひらに小さな水の輪を作った。

水は、まるで小さな光のリングのように、ふわりと浮いていた。

晴斗は怖がりながらも、その水を見つめる。

「これなら……触れる?」

晴斗は震える指を伸ばした。

黒い影が叫ぶ。

「やめろ」

「こわい」

「むりだ」

湊は影の前に立ち、水の流れでその声をやわらげた。

「怖くてもいい」

湊は言った。

「怖いまま、ちょっとだけ触ればいい」

ラクエイ・クロスは湊の後ろで、静かに手を差し伸べるように立っていた。

晴斗の指先が、水の輪に触れた。

ぽちゃん。

小さな音がした。

晴斗の目が丸くなる。

「……つめたい」

湊はうなずいた。

「うん。水だね」

晴斗は、ほんの少しだけ笑った。

その瞬間、黒い影が小さく揺らいだ。

不安が、少しだけほどけた。

ラクエイ・クロスの胸のクロスが光る。

水の光が、晴斗の足元へ広がった。

「次は、足の指だけプールに入れてみる?」

晴斗は水面を見た。

まだ怖い。

でも、さっきより少しだけ、目が水から逃げていなかった。

「……ちょっとだけ」

晴斗は、お母さんの手を握りながら、プールのふちに座った。

湊は隣にしゃがむ。

「急がなくていいよ。晴斗くんのタイミングでいい」

晴斗はゆっくり、足の指先を水に近づけた。

黒い影が最後のように大きくうねる。

「できない」

「やめろ」

「こわい」

湊は、影を見つめた。

そして、静かに言った。

「怖い気持ちも、一緒に入ろう」

晴斗の足の指が、水に触れた。

ぱしゃ。

ほんの小さな水音。

でも、湊には大きな一歩に見えた。

晴斗は驚いた顔をして、それからゆっくり笑った。

「入った……」

お母さんの目に涙が浮かんだ。

「晴斗……」

黒い影は、音もなく小さくなっていく。

完全に消えたわけではない。

でも、晴斗を覆うほどの大きさではなくなった。

湊は影に向かって言った。

「不安は、なくならなくてもいい」

水の光が、影を包んだ。

「でも、不安があっても、一歩進める場所をつくる」

ラクエイ・クロスは、湊のそばで静かに立っていた。

その光は、影を消し去るというより、晴斗の周りに安心できる場所をつくっていくようだった。

影は、水に溶けるように小さくなっていった。

プールサイドに、静かな光が戻る。

ラクエイ・クロスの姿は、水の粒となって少しずつ薄れていく。

それでも、完全にいなくなったようには見えなかった。

湊のすぐそばに、まだ温かい気配だけが残っていた。

晴斗は、まだプールのふちに座っていた。

足の指を水につけたまま、そっと笑っている。

「コーチ」

「ん?」

「今日……水にあいさつできた」

湊は笑った。

「うん。すごくいいあいさつだった」

晴斗はお母さんの方を見た。

「帰ったら、お父さんに言う」

お母さんが聞き返す。

「何を?」

晴斗は、少し照れながら言った。

「水、ちょっとだけ触れたって」

湊の胸が、熱くなった。

第0話の夜に想像した食卓の風景が、今、目の前の晴斗の言葉につながっていた。

プールの中で起きた小さな一歩が、家族の時間へ続いていく。

湊は、水面を見た。

小さな波が、きらきらと揺れていた。

その波の中に、さっきの光がまだ少し残っているように見えた。

楽泳スイミング。

それは、大きなスクールではない。

たくさんの生徒がいるわけでもない。

でも、目の前の一人が、笑顔で帰る。

それだけで、始めた意味がある。

湊は、心の中でつぶやいた。

笑顔で来て、笑顔で帰る。

その言葉に応えるように、左手首のブレスレットがほんの少しだけ光った。

まだ湊は知らない。

この先、水泳だけではなく、子どもマルシェ、音声配信、ラジオ、地域のつながりの中で、たくさんの不安と出会うことを。

そしてそのたびに、ラクエイ・クロスの力が少しずつ形を変えていくことを。

けれど、最初の一歩はここだった。

水に触れるのが怖かった男の子が、指先で水にあいさつした日。

湊のそばに、ラクエイ・クロスが初めて現れた日。

楽泳スイミングは、ここから始まった。

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