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ムソルグスキー『聖ヨハネ祭前夜の禿山』⸺粗野だから面白い

ムソルグスキーの『禿山の一夜』と言えば、多くの人はリムスキー=コルサコフが 1886 年にまとめた版を思い浮かべるでしょう。悪魔たちの騒乱が繰り広げられ、やがて教会の鐘が鳴ると悪魔たちは退き、夜明けを思わせる穏やかな音楽で終わります。管弦楽の響きは華麗で、各楽器の役割も分かりやすく、曲全体の起伏もよく整理されています。

ところが、私はこの有名なリムスキー=コルサコフ版よりも、その元になったムソルグスキー自身の 1867 年の作品『聖ヨハネ祭前夜の禿山』のほうが好きです。

こちらは、いささか乱暴です。音がぶつかり、金管は荒々しく叫び、弦や木管も必ずしも美しく混ざり合いません。響きの塊から別の響きの塊へ突然切り替わるようなところもあります。洗練された管弦楽曲を期待して聴けば、確かに「粗野」という言葉が浮かんでも不思議ではありません。しかし、そもそもこの曲は悪魔や魔女たちの饗宴を描いた音楽です。そんなものが礼儀正しく整然としていてよいのでしょうか。



1. バラキレフが嫌った粗野さ

1867 年、モデスト・ムソルグスキー (Модест Мусоргский / Modest Mussorgsky; 1839–1881) は『聖ヨハネ祭前夜の禿山 (Иванова ночь на Лысой горе / St. John's Eve on Bald Mountain)』を書き上げました。後に広く知られることになる『禿山の一夜 (Ночь на Лысой горе / Night on Bald Mountain)』の原典にあたる作品です。しかし、当時ロシア 5 人組の指導的存在だったミリイ・バラキレフ (Ми́лий Бала́кирев/Mily Balakirev; 1837–1910) はこの作品を厳しく批判しました。管弦楽法だけでなく、和声や構成、声部処理などにも問題を見出し、修正を求めたとされています。

ムソルグスキーはこれに従いませんでした。結果として作品は演奏されず、彼の生前に日の目を見ることもありませんでした。

ここだけを取り出すと、経験の浅いムソルグスキーが下手なオーケストレーションを書き、優れた音楽家だったバラキレフがそれを指摘したという話に見えます。実際、ムソルグスキーが体系的な作曲教育や管弦楽法の訓練を十分に受けていなかったことは、この問題を考える上で無視できません。

現在、この 1867 年版を実際に聴いてみると、話はそれほど単純ではないように思えてきます。確かに粗いと言えば粗いのですが、それが妙に魅力的なのです。

▼ ムソルグスキー『聖ヨハネ祭前夜の禿山』⸺キリル・カラビツ(指揮)、ボーンマス交響楽団
 ウクライナ出身で、2009 年から 15 年間ボーンマス交響楽団の首席指揮者を務め、東欧や旧ソ連圏の知られざる作品を積極的に紹介してきたキリル・カラビツの指揮による演奏です。

2. 下手と独創的の境界

芸術では、「技術的に未熟であること」と「従来の規則に従わないこと」を区別するのが難しい場合があります。誰もが知っている作法を十分に修得したうえで意図的に破る場合もありますし、そもそも正統的な訓練を受けなかったために、通常なら避けるような方法を平然と使ってしまうこともあります。後者から新しい表現が生まれることもあります。ムソルグスキーには、その両方があったのではないでしょうか。

彼の音楽を聴いていると、滑らかに整えることそのものにあまり興味がなかったのではないかと思える場面があります。『ボリス・ゴドゥノフ』や歌曲でも、人の話し方や心理、群衆のざわめきといったものを、伝統的な音楽の文法に押し込めるよりも、そのまま音にしようとする傾向が見られます。その結果、当時の作曲家から見れば不格好な書法が生まれました。

しかし、それを百年以上後の耳で聞くと、必ずしも不格好には聞こえません。むしろ、20 世紀以降の音楽を知っている私たちには、音の塊をぶつけるような響き、執拗な反復、極端なアクセント、不意に切り替わる音色などが、かなり自然に受け入れられます。

19 世紀には粗野とされたところが、現代では個性的に聞こえるのです。これは面白い逆転です。

3. リムスキー=コルサコフが直したところ

ムソルグスキーの死後、ニコライ・リムスキー=コルサコフ (Мико́ла Ри́мський-Корсако́в / Nikolai Rimsky-Korsakov; 1844–1908) はその作品を数多く整理し、演奏や出版が可能な形にしました。その功績は非常に大きなものです。もし彼の仕事がなければ、ムソルグスキーの作品が現在ほど広く知られるようになってなかったかも知れません。

但し、リムスキー=コルサコフは単なる校訂者ではありませんでした。彼自身が卓越した作曲家であり、とりわけ管弦楽法の大家でした。そのため、ムソルグスキーの楽譜を前にすると、直したくなるところがいくらでも見えたのでしょう。声部のつながりを滑らかにし、響きの濁りを整理し、楽器の特性を生かして色彩豊かにし、全体の構成を分かりやすくしました。音楽としては非常に合理的です。

『禿山の一夜』の場合も、今日よく演奏される 1886 年版は、1867 年の原典版をそのままオーケストレーションし直したものではありません。ムソルグスキーが後に別の舞台作品で使った素材なども取り入れながら、リムスキー=コルサコフが独立した管弦楽曲として大きく再構成したものです。ですから、原典版を改良した完成版と考えるより、別の美学によって作り直された作品と考えたほうがいいように思います。

▼ムソルグスキー『禿山の一夜』リムスキー=コルサコフによる改訂版⸺
イーゴリ・マルケヴィチ(指揮)、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団

4. お行儀のよい悪魔

リムスキー=コルサコフ版を聴いていると見事だと思います。音色の移り変わりは鮮やかで、クライマックスへ向かう道筋も分かりやすく、どこを取ってもオーケストラがよく鳴ります。

そして、最後には鐘が響き朝が訪れます。この終結は実に美しいものです。混乱と闇の世界から、鐘の音によって現実へ戻り、穏やかな朝の音楽で締めくくられます。劇的構成としても非常によくできています。

しかし、原典版を知ってしまうと、私は少し違った感想も持ちます。「ずいぶん悪魔たちが行儀よくなったものだ」と。

原典版の魅力は、もっと制御不能なところにあります。音楽が整然とした形式の中へ収まりきらず危なっかしく進んでいきます。オーケストラも美しく鳴るというより、時には巨大な騒音発生装置のようになります。けれども、そのほうが悪魔の饗宴としては相応ふさわしいものではないでしょうか。

悪魔たちが管弦楽法の教科書を読み、内声のバランスに気を配りながら宴会をしている必要はありません。

5.「粗野」は悪口なのか

私は「粗野なオーケストレーション」という昔からの評価自体を、必ずしも否定する必要はないと思います。確かに粗野です。問題は「粗野だから悪い」と考えることです。

例えば、絵画でも筆跡を残さず滑らかに仕上げた絵だけが優れている訳ではありません。ゴッホの激しい筆触を、塗り方が雑だから修正しようとは誰も考えないでしょう。文学でも、均整の取れた文章だけが価値を持つ訳ではありません。人物の混乱を描くために、意図的に文章を崩すこともあります。

音楽でも同じことが言えるはずです。ムソルグスキーの管弦楽法には、リムスキー=コルサコフのような洗練はありません。しかし、それによって生まれた音そのものは作品の表現内容に合っているのです。この場合、粗野さは魅力になっていると言えます。

6. ムソルグスキーは時代を先取りしていたか

では、ムソルグスキーは時代を先取りしていたのでしょうか。私はある程度はそう言っていいように思います。但し、後の 20 世紀音楽を予見して先進的な技法を書いていたとまで言ってしまうと話を美化し過ぎでしょう。

彼の書法には、単純に経験不足から生まれた部分もあったはずです。管弦楽法についてリムスキー=コルサコフほど高度な技術を持っていなかったことも事実です。しかし、歴史的に新しいものは必ずしも完璧な技術から生まれるとは限りません。既存の規則を十分に内面化していなかったために、普通なら避けることをやってしまい、その結果、それまでにない表現が生まれることがあります。そして、後の時代に、なぜ当時の人はこれを欠点だと思ったのだろうと感じるようになります。

1867 年版『聖ヨハネ祭前夜の禿山』には、まさにその面白さがあります。現在の耳には、金管の荒々しい響きも、突然現れる音の塊も、執拗な反復も、それほど奇異には聞こえません。ストラヴィンスキーやバルトーク、その後の 20 世紀音楽を知ったあとでは、非常に刺激的な管弦楽法に聞こえます。

もちろん、ムソルグスキーからストラヴィンスキーへ一本の線を引くような単純な歴史観は避けるべきです。それでも、美しく混ぜることを必ずしも目的としない管弦楽の響きに、後世の音楽と共通する感覚を見出すことはできると思います。

7. 整えることで失われるもの

ムソルグスキー作品をめぐる歴史は、芸術作品を整えるとは何なのかを考えさせます。誤りを訂正し、演奏しやすくし、響きを改善し、構成を明瞭にするといった作業だけを見れば、作品は良くなったように見えます。

しかし、整える過程で失われてしまうものがあります。ムソルグスキーの場合、不自然な和声、不器用な声部進行、極端な響き、唐突な構成こそが、その作曲家の顔だった可能性があります。それを一般的な作曲技法の規範に合わせて直していけば、確かに耳馴染みはよくなりますが、同時にムソルグスキーらしさまで薄くなってしまいます。

これは文章の推敲にも少し似ています。文法的に正しくし、重複を削り、角の立つ表現を丸くし、論理を滑らかにつなげれば、読みやすい文章になります。しかし、やり過ぎると書き手の癖も勢いも消えてしまいます。作品というものは粗削りなところまで含めて作品なのです。

8. 粗野な『禿山』がいい

リムスキー=コルサコフ版『禿山の一夜』が名曲であることには異論ありません。華麗な管弦楽法、分かりやすい構成、夜明けへ向かう美しい終結。その完成度の高さは何度聴いても感心させられます。

それでも私は、1867 年の『聖ヨハネ祭前夜の禿山』を聴きたくなります。響きは荒れ、均衡もよくありません。オーケストラは時折ひどく乱暴に鳴ります。しかし、その音楽には後世の誰かによって整えられる前のムソルグスキーがいます。

音楽史というものは面白いものです。粗野だから修正すべきだと考えられた作品が、時代を経ると、その粗野さこそが魅力だと評価されるようになります。

『聖ヨハネ祭前夜の禿山』を聴いていると、管弦楽曲はいつも美しく整ったオーケストレーションがなされるべきというものではないのだと思えてきます。悪魔の宴には悪魔の響きがあります。

そして、私は綺麗に身支度を整えた悪魔たちよりも、ムソルグスキーの楽譜から飛び出してくる少々行儀の悪い悪魔たちのほうがより悪魔らしく見えてくるのです。



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