【映画評】『罪人たち』は、いつか誰かが赦さねばならない。
Sinners
アメリカ , 2025
監督:ライアン・クルーガー
かつて、ロバート・ジョンソンは十字路で出会った悪魔から《ブルース》を授けられたのだ、という。
果たして、彼が悪魔に願ったのか、彼の才能が悪魔を呼び寄せたのか?それはわからない。ただ、時の経過を耐えて受け継がれるようなパワーのあるものには、善きも悪しきも引き寄せられることだけは確かだ。

ブルースは、ゴスペルやジャズと並んでブラックミュージックの「ルーツミュージック」と呼ばれる。
水脈のように分かれて広がり、現代にまで至るR&B、ソウル、ファンク、そしてヒップホップといったジャンルの音楽。それらの源流(ルーツ)を辿るとブルースに行き着くというわけだ。
そしてもちろん、そのブルースにもさらに源流を求めることができる。民族的故郷であるアフリカのダンス音楽だ。
このように、現代において広く知られている音楽はどんなものでもそれ単体で成立することはできず、追いかければ長大な一筆書きで繋げられる、といえるだろう。
この映画では1930年代のアメリカ(※1)を背景に、神の声と悪魔のギターをもつ主人公の青年サミー(マイルズ・ケイトン)が演奏するブルースを中心にして、そんな過去から未来への音楽の繋がり、ひいては祖先や子孫との魂の繋がりを完璧に可視化・音像化して見せる。
素晴らしい演奏シーンを擁する映画は過去にもたくさんあるけれど、こんなスピリチュアルな本質に迫る見せ方は(少なくともわたしは)初めて観た。ひとことセンス・オブ・ワンダーであり、過言じゃあなく映画史に爪痕を残したのでは?と思う。

そんなサミーが熱狂させる黒人専用ホール…にふらりと現れるのが3人の白人であり、何を隠そう邪悪な吸血鬼(ヴァンパイア)なのである。
そして彼らはまさかのバンジョーとフィドルを背負い、英国やアイルランドのバラッド / フォーク(民謡)、ブルーグラス…すなわち白人音楽のルーツミュージックを歌うのだ。
こんな吸血鬼デザインもまた余りに斬新で驚きと笑いが止まらないのと同時に、演奏が良い曲・良い声すぎてなんだか善悪のラインがバグってきたりする。これもまた音楽の魔力の一種だろうか。

白人文化を前面に出しながら、血を吸い・魂を奪う者=搾取者として現れる吸血鬼たち。ここで否応なしに気付かされるのは、明らかに「文化盗用(アプロプリエーション)」批判の構図を示していることだ。
WWII以降に発展してきたポピュラー音楽史においても、今やこのトピックは避けて通れない。劇中にはこんな台詞もある。「白人はブルース好きなんだ。歌う黒人が嫌いなだけ」。
ロックやポップスと呼ばれチャートを賑わせてきた音楽もその元ネタはR&Bにあり(あのビートルズやストーンズも初めはR&Bのカヴァーバンドだった)、遡ればブルースをベースにしたロックンロールに行き着く。
そもそもは黒人奴隷たちによる生活の苦難を歌ったブルースが、やがてロックに姿を変えて白人たちを躍らせるようになり、いつしか白人中心のエンターテインメント産業の顔のようになっていった…それはある意味では和合ともいえるけれど、搾取の一形態と考える人もいる。事実、エンタメ/音楽業界においては長らく人種間の報酬差などの非対称性が拭えなかった。このあたりに、敬意の欠如=盗用と呼ぶ根拠がある。
今作の吸血鬼たちは、ひとたび同族として仲間に取り込めば記憶や痛みすらもネットワークで共有することができ、やたらと「友愛」「家族」みたいなワードを強調して主人公たちを誘ってくる。しかし、吸血鬼の仲間になると魂が祖先から切り離され、囚われてしまうと語られる。
この様も上記のようなポピュラー音楽史(強者のカルチャーとビジネスに取り込んでいく)の概観と重なりつつ、後の世でサイケデリックロックの流行と共に英米の若者たち(やはり主に白人)を魅了したヒッピー文化、「サマー・オブ・ラブ」や「ラブ・アンド・ピース」を想起する。
そんな吸血鬼たちから、主人公たちは自らの居場所を守るため対峙する。いわばこれは歴史の表面から失われし文化戦争なのだ。
主人公たちの居場所(ホール)とは、奴隷解放宣言後ついに「カネ=経済」という反撃の刃をようやく手にしてつかみ取った「領土」(ホールは白人から買い取った建物)であり、魂や誇りの象徴でもあるわけだ。映画の序盤では何度もカネ/ビジネスの交渉の重要性が強調される。
一方で、彼らもまたアイルランド系・イタリア系(=白人)マフィアから酒などの物資を奪っていたことが明かされたりもして、ここには「やったらやり返される」とでもいうような、暴力の終わりなき連鎖が仄めかされているようでもある。資本というパワーもまた、ブルースと同じく彼らが悪魔から授かった諸刃の剣だったのかもしれない。
さて、ここからちょっと苦言っぽくなってしまうのだけれど…終盤はけっこう普通の吸血鬼ものホラー/アクション映画のようになってしまい、派手になる絵面に反して失速、残念だった。

そしてその残念さは、これまでにぶち上げたテーマの着地点にもいえる。
結局、主人公たち(作り手)の示した「怒り」のファイティングポーズはいっさい下げられることのないまま(むしろダメ押しのような場面を経てから)映画は終わる。そうか…やっぱりそうなってしまうのか…
これはなんだかんだ単一民族中心で人種問題に関してはヌルゲーの島国に住んでいるからお気楽に言えること、とは重々承知ではあるのだけれど、前半~中盤が見事だったからこそ、わたしはここらでその「怒り」の先が見てみたかったのだ。
白人を吸血鬼というヴィラン/モンスターに置く行為は、それはそれで暴力的であり「反論できない」ポジションありきのムーヴといえやしないだろうか。
もちろん彼らにはその無念や怒りを表現する自由と権利があると思う。時を経てもなおBLMの炎は未だ消えない、いやきっと消えることはないのも理解できる。だが、本当にそれでいいのか?
何を甘っちょろいことを、と怒られるならその批判は甘んじて受けるけれど、それでも誰かが赦さねばならないんじゃあないか、と言いたい。
特にこの映画は音楽という格好の題材…共存と共創の可能性(※2)をもち、上述のように素晴らしく独創的な表現を見せながら、結局はそれを《武器》として使ったんじゃあないだろうか。そんなことを、どちらサイドの音楽もこれまた都合よく拝借して勝手にJ-POPなるスーパーガラパゴス音楽を育てあげたこの日本なる辺境から考えていた。
要するに、やるなら最後は歌合戦でキメてほしかったってことかも。
奪うだけを目的とした奴らの軟弱な音に対して、敵(悪魔)すら受け容れて進化するような懐の深い音をみせつけることで勝ってほしかった。
なぜって、それだけのポテンシャルが音楽にあることを、わたしたちは幸いにして知っているからである。
人々が頑なに憎しみに執着するのは、憎しみがなくなれば、痛みに対処せざるを得なくなると感じているからであるだろう。
注なるもの
※1:南北戦争から数十年を経てなお、映画の舞台となるミシシッピ州(南部)は特に差別が苛烈だった地域。第2次KKKの最盛期でもあった。
このシチュエーションで、黒人と白人の混血であるメアリー(ヘイリー・スタインフェルド)は両世界の仲介人として興味深いポジションのキャラだったのだけれど、早々に吸血鬼化してしまって惜しかった。

ただ、このへんには当時のワンドロップルール(アフリカ系の血が家系に一滴でも入っていれば黒人と見なす)の影響もあったりするのかな、とは思う。
※2:音楽担当に名手ルドウィグ・ゴランソンというスウェーデン人(白人)を起用しているのはある意味で可能性のひとつと考えられるかもしれない。あと、ポスクレシーンに映るとあるバンドが人種混合(ドラマーが白人だったはず)だったり。ただ、穿って見ると才能の「逆拝借」とも言いがかりつけようがある?
ゴランソンとライアン・クーグラー監督の縁はMCUの『ブラックパンサー』から。
特に2作目『ブラックパンサー/ワカンダ・フォーエバー』では、アフリカ音楽のみならずメキシコの古代音楽を資料から想像&創造するというアプローチを見せてくれた。今回のブルース解釈もまた、彼の音楽考古学的ともいえる手法の延長にあるのだろう。
※3:このテキストは白人→黒人への憎しみ(に根差す差別意識)を指しているようだけれど、今となってはそのまま逆転して当てはまるケースも散見される、と思う。
