【映画評】『Underground』に眠るメモリー、掘り起こすイマジネーション
Underground
日本,2025
監督:小田香
公式サイト
https://underground-film.com/
映画が始まって目にするのは、どこかのトンネルとその先に口を開ける暗闇である。
間もなく静寂の中からコーラスが湧きあがり、低音と重なって層をなしてゆく。粗いノイズがガムランとケチャのようにぞろぞろと蠢きだし、湛えられた水面にはプロジェクションマッピングと思しき光の彩りがぼう、と宿って揺れている。通過するメトロ、外界へと這い出す影…
このように、《闇》へと身体が「慣らされていく」。
それは映画館という閉鎖空間の闇を触媒にして映像・音響と同期し、五感がひとつひとつ攻略され開かれていくような感覚だった。
明確なストーリーや、台詞と呼べそうな言葉をもたない映画でもある。その特徴を指してアート/実験映画と呼ぶこともできるだろう。しかしそれ以上に、上記のような感覚を伴った「体験の映画」であると思った。
いつだったか参加したことのある、『ダイアログ・イン・ザ・ダーク』というワークショップを思い出したりもした。
このイベントでは部屋を映るごとに徐々に光量が落ちて行き、やがて「純度100%」の暗闇へと至る。多くの人が日常的に頼りがちな視覚を削ぎ落した先で行われる参加者同士の対話は、光の下で行われるそれとは別の体験となり、様々な気づきを与えてくれる。
この映画もまた、観る者の感覚をチューニングすることによって想像力を揺り起こす。
それはいわば第六感とでも呼びたくなるものだろうか、映画から提供されるコラージュめいた情報群を、わたしたちは否応なく咀嚼・解釈しようとするわけだけれど、そのために必要な想像力と五感を接地させるようなアプローチのように思えた。
劇中でひとりの女性の姿を借りた《影(シャドウ)》を演じるのは、ダンサーであり自身も映像作家である吉開菜央氏。
だからだろうか、今作は映画自体がどこか舞踊らしくもある。
わたしたちは普段、自分の身体のもつ驚くほど複雑な機能と全体を統制し維持する仕組みを意識することなく過ごしている。しかし、「踊る」=身体を日常のくびきから解放してダイナミックに操るためには、必然的に身体そのものと向き合う必要が出てくるだろう。そんな身体の対話のようなイメージが、この映画では《地下》との対話、想像と理解に変換されているように思う。
また、万人に共通する正解のストーリーはなくとも、ある方向性をもった「動き」あるいは「流れ」が確かに存在していることに気付く。それは地下を走る水脈の動きであり、身体を巡る血液の流れ、循環。この映画と吉開氏の所作を通して、二者はリンクしていくのだ。
《影》が壁や石や骨に触れるとき、鈴を擦り合わせたような金属音が鳴る。彼女がキッチンで野菜を切る場面もある。
そのとき、わたしたちもまた水と鉱物を摂取しては体内に蓄え、骨を支えとして立っている存在であることを思い出す。今や《地下》の岩壁はわたしたちの肉と等しくなる。
このような実感の積み重ねを経て、やがて映画の中の《地下》は沖縄のガマ(WWIIの沖縄本土戦において防空壕として使われた洞窟)へと至り、そこでは語り部(ガイド)の男性が戦時中のエピソードを滔々と語っている。
映画の前段で《地下》そのものと同化し《影》にライドするプロセスを経た後の状態において、その聴こえ方・浸透度は普段と明らかに異なって感じられることだろう。米兵から隠れていた者たちの潜めた息遣いや、飢えて死んだ家族を横たえた地面の硬さ・冷たさを、今や「ここ」にあるものとして手に取ることができる。少なくともそう信じさせられる。
さらに、場面は沖縄から対極ともいえる北海道は夕張へとジャンプしたりもする。ここにはかつてダム建設により沈んだ鹿島地区が存在した場所であり、鹿島は炭鉱(≒洞窟)で栄えた地域でもある。灰色に沈黙する水面と突き出る木々は別の惑星の風景のようだ。
ここでも、沈んだ洞窟および沈める水の媒介イメージによって、沖縄であろうと北海道であろうと《地下》の血管と血液で繋がり辿ることが出来るとわかるだろう。
そして、今作は記憶 / 記録に関する映画でもあったことに気付かされる。
戦時中の体験や水面下に沈んだ街の風景は、当然時間の経過とともに実体験を持つ人は減り、失われつつある。しかし、誰かがその記憶を代わりに伝えて記録として保存していくことはできる。
当事者と同様の純度を保つことは難しく感じられる(し、実際に難しい)かもしれないけれど、その試み自体にきっと人の営みの意味がある、のではないだろうか。歴史とは、人の記憶をどのように記録するかの積み重ね、整理と選抜、キュレーションともいえるのだから。
闇の中で手探り心探りに誰かに近づき理解しようとするように、ガマの物語を伝える語り部のように、そしてこの映画のように…
『Underground』は、瞑想的なアプローチによって闇の中で想像力を揺り起こし、空間や他者との境界を溶かして、誰もが記憶と記録の当事者になり得ることを示す。
わたしたちは誰もが同様の水や鉱物で出来ていて、それらは同じ《地下》からやってきたものであり、やがて《地下》へ還ると気付くからだ。これはどちらかといえばオカルトかスピリチュアル寄りになるけれど「水の記憶」みたいな話も思い出され、少なくともイメージの助けにはなるだろう。
ここに、今作が《映画》であることの必然性もある。映画(映像)もまた、人が個人の限界を超えて記憶と記録を共有するために作り出したツールだった。その意味で、この一見すれば異形とも思える作品は、実はどこまでも純・映画的だったといえるかもしれない。
