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【映画評】『顔を捨てた男』は、捨てられなかったものに捨てられる。

A Different Man
アメリカ , 2024
監督:アーロン・シンバーグ

公式サイト
https://happinet-phantom.com/different-man/


安定のみんな大好き『笑ゥせぇるすまん』型ブラックコメディとしてのクラシカルで掌サイズの面白さを担保しつつ、ルッキズム、ポリティカル・コレクトネス、自己実現/自己受容…といった現代らしい様々なカットでの深掘りに耐える、バランスよい作品。

中でもわたしがまず着目したいのは、映画やTV、演劇などのショウビズ界を中心に議論されるようになって久しい「当事者キャスティング」問題の寓話としての観かたである。

当事者キャスティング、つまりフィクション作品の演者として登場人物の属性(人種、性別、性的指向、障害、文化的背景など)に即した当事者を配役することを求める動き。保守vsリベラル、表現の自由vsインクルージョン…みたいな対立構造を生みがちな話題でもある。

今作の主人公エドワード(セバスチャン・スタン)は疾病により大きく変形した顔面をもち、役者を志しながら孤独に生きてきた人物。
そんな彼が、降って湧いたような新薬の治験を受けたことで外見が劇的に変わることになる。彼は元の自分を人生ごと捨て、新たな男「ガイ」として生き直しを始める。

からの、
これがおれの本体のハンサム顔だ(予告編より)

やがてエドワード=ガイはかつての自分を題材にした演劇作品の存在を知り、自らエドワード=自分自身を演じようとする。まさに本人なわけなので、真に迫る演技が監督にもウケる。
しかし、以前の自分と同じような症状を抱える男、オズワルド(アダム・ピアソン)がふらりと稽古場に現れたことで、事態は一変する…という物語だ。


エドワード=ガイとオズワルド、そして劇中演劇の中のエドワードという事実を基にしつつも創作されたキャラクター、この3者の関係は非常に複雑だ。
エドワード=ガイは「本人」でありながら現在「当事者」のオズワルドに仕事を奪われる構図になる。加えて、メタ視点ではエドワード=ガイ役S・スタンは特殊メイクで顔を作り、オズワルド役A・ピアソンは生身(現実の当事者)なわけで…と、はたしてこの場の「当事者」って誰のことなんだ?とトリックアートに出くわしたように困惑・混乱してくる。

気分はこれ(エッシャー『婚姻の絆』)

そもそもオズワルドは、確かにかつてのエドワードと近しい境遇にはあるけれど、決定的にエドワードとは別人=『A Different Man』であることが(実に意地わるく残酷なやり方で)強調される。(※1)
そして演劇の登場人物として創られたエドワードもまた、オズワルドの登場などの影響で事実とは違う筋書きを歩むことになり、エドワード=ガイとは別人になっていく…といえるだろう。

極論をいえば、どのような場合でも誰かが別の誰かを演じる以上、そこに変わりはないのではないか?そんな思考も生まれてくる。演者/俳優とは、誰しもが自分ではない別人であることにリアリティを持たせようと、技術を磨き探求を続ける人々だからだ。

今作は、このようにある極端に戯画化されたパターンを提示することで「当事者キャスティング」の偏重にアラートしているように思えた。


重要なのは、作品の創り手に「どのようなポリシーがあるか」「何を表現したいか」が確固として定まっているか、ではないかと思うのだけれど、今作はそこにも皮肉を忘れない。

舞台監督イングリッド(レナーテ・レインスヴェ)やエドワードに治療を持ち掛ける医者たち、あの社員研修ビデオなど、結局は外野からエドワードをネタ、つまり自身の成功とか表現とかの「食い物」にしている存在を配置してグロテスクさを描きだす。彼らにはときに悪意すらなかったりするのだけれど、無意識である故により邪悪に響く言動が端々でトゲトゲと突き刺さる。

たぶん膝蹴り入れても合法な女(予告編より)

また、エドワードの住むアパートは壁も薄く常に騒々しく、明らかに耳障りに調整されたドアを叩く音や、天井の水漏れに悩まされている。日常の彼がどれほど悪意や好奇心、あるいは善意であっても不必要な「ノイズ」に囲まれ、かつそれを諦めながら暮らしているかが伝わるようだった。随所に配置された赤色(※2)も危機感を煽る。

そして、イングリッドは物語の筋や結末すらコロコロと変えてしまう。ここにはポリシーの欠如、目的と手段の取り違えがうかがえ、空虚な印象を残す。
しかし、各方面に配慮し散らかした結果なんともチープな仕上がりになってしまう…という姿はきっと近年の映画作りにおいて「あるある」の光景であり、この皮肉には自戒も込められているのだろう。


結局、外見を変えても内面の根本は変わらず、前の通り(か、あるいはそれ以上)の閉鎖的で受動的な性格に戻ってしまうエドワード=ガイ。彼は「死すら選べない」…ことが、ラスト近くのとある人物との一瞬の邂逅によって上塗りされる。(※3)

ガイとなったエドワードの真の失敗は、営業マンとして成功の道が開けていたにも関わらず、捨てたはずの自分をやはり捨てられず固執してしまったことだろうか。
ここにはどこか、奇しくもイングリッドと通じる迷いの形があるようにも思う。何を大切にして生きるか、自分が本当に何を欲しているか見極め、更には保ち続けるのは自分自身ですら難しい…ということなのかもしれない。

予告編より

エドワードとは誰だったのか?
最終的にはガイも、そしてオズワルドすらもかつての彼らとは異なり、また『A Different Man』へ変わってゆくことに気付く。実体のない幻のようなエドワード=当事者という存在に振り回された彼らの姿は、わたしたちの目を真に見つめるべきものへと導いてくれるようだ。


※1:オズワルドはエドワードと対照的に社交的で多趣味多才、明るさで周りの人を引き込む魅力がある。
エドワードだけでなく多くの観客(もちろんわたしも含め)のコンプレックスを刺激するだろう彼からは、現代において弱者やマイノリティと呼ばれる人々が持ち得る「正しさの暴力」みたいなものもうかがえる。

歌もうまいんかーい(予告編より)

※2:創作の象徴である(はずの)タイプライターの扱いにも注目したい。

※3:この点において、連想しやすい作品であろうデヴィッド・リンチ『エレファント・マン』とは対照的ともいえるかも。


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