紫煙の街へ
ヘッドフォンを外すと、雑踏に耳を侵略されるような幻想にとらわれた。この街には何度も来ているのに、そのたびに嫌いになる。
腕をまくって時計を見ると、待ち合わせまでまだ一時間もある。思わず彼に電話をかけそうになったが、思い直して近くの喫茶店へと足を向けた。
あなぐら。
初めて訪れたときから、彼女はこの店をそう呼んでいる。
ドアを開けた瞬間、むわっと煙草のけむりが押し寄せ、洗礼のように彼女を包みこむ。その瞬間、彼女はこの店の一員になるのだ。
「いらっしゃい」
銀髪と呼ぶにふさわしい初老のマスターは、お盆以外はいつもひとりでここにいる。
少し苦みの濃いコーヒーを淹れるその姿は、古びた調度の一部のようだった。
すすけた壁、ギシギシと鳴る板張りの床、色あせた赤い丸椅子、この店のすべてが、彼女の呼吸のリズムと重なっている。
窓際に腰を下ろし、ぽしゅ、とマッチを擦って、メビウスに火を点ける。
まだ二十歳のはずなのに、顔には疲労と諦念の影が混じっていた。吐き出された煙がゆるやかに昇り、紫がかって店内をかすかに染めてゆく。
「あまり、メランコリーを吐き出さないでおくれよ」
マスターは、コーヒーを注ぐ音よりも小さな声で言った。
「角砂糖もちょうだい」
「めずらしいね。ブラウンシュガーでいい?」
「いいですよ。メランコリーの特効薬ですから」
窓の外では、人の波が絶えず流れていた。モーセでも、この海を割ることはできないだろうなと、彼女はそんなふうに思う。
彼はすさまじかった。最初だけは。
変わったことをよく知っていて、面白いことをすぐに思いつく人だった。
彼女の自傷癖をやめさせ、セフレをすべて遠ざけ、代わりに散歩の習慣を与えた。
社会人バスケサークルで初めて見かけたとき、印象に残ったのはアシックスのバッシュだけだった。
それでも、彼の猛烈なアプローチでカフェデートが実現し、三回目の夜には真っ白なシーツの上で互いの名を呼び合っていた。
だが、四回目の映画デートの途中で、一本の電話が彼を蒼白にした。クライマックスの直前、彼は席を立ち、そのまま戻らなかった。
後になって知る。彼にはスタイリストの妻と三歳の娘がいた。あの日は、娘がインフルエンザにかかったのだという。
それでも、彼女は彼を嫌いになれなかった。週末だけの逢瀬を続ける。待ち合わせはいつも同じ場所。雑踏に飲まれるたびに、なぜか「この街が嫌い」と思った。
雨が降り出したころ、スマホが震える。
《ごめん、今日は猫を動物病院に連れていくことになって会えなくなった。》
彼女の指は、しばらくのあいだ止まったままだった。コーヒーの表面に浮かんだ泡がひとつ、ゆっくりと弾ける。
伝票の上に、メビウスの銀紙で折った小さな鶴を置き、席を立つ。
外に出ると、ネオンの上を青い鳥がひとつ飛んでいった。
それが自分の姿だと気づくまで、少し時間がかかった。
街は紫の煙のように揺らぎ、彼女の輪郭をそっと溶かしていく。
はじめて「#なんのはなしですか」に参加させていただきました🕊️
