何年も変わっていないけど、新鮮なままの部分
「お盆はゆるっとした投稿にして、自分が何をやりたいのかを改めて言葉や文章にしてみよう」とやってみて、思いの他かなりたくさんあったことにびっくりしている。
みなさん、こんにちは。禧螺です。
世はお盆休み真っ只中ですが、我が家はゆるっとお盆なので、今日もこうしてありがたくnoteを書けています。
自分で言うのもどうかと思うのですが、親や親族が、一応忖度なしに教えてくれたことで「禧螺は、難しいことを簡単にかみ砕いて、人(特にその難しいことでも知りたいと思う人)に説明するのが上手い」というお言葉をいただきました。
それはいつかの時、あるいは何十年前にも聞いた内容とやはり変わらず、相手にはそう見えているし実際に体感してもらっている部分なのだなと、思った。
一時、いただいたお言葉があまり嬉しくなかった。
少しコツを掴んで練習すれば、誰でも簡単にできることだと思っていたから。
「そんなの練習すれば誰でもできる。なんか……そんな誰でもできることを、大袈裟にできるみたいに言われてもあまり嬉しくない。そんなことできたって鬱なだけだな……」とさえ思った。
でも、そこを評価してくれる人からすれば違うらしいです。
同じ内容を教えてもらうにも、人が違えば教えられた感覚も全然違うのだとか。
私の場合、誰かに何かを教えてもらう、あるいは教える立場にあるにしても、結局「自分はなにもわかっておらず、わかったというフリになっていただけだ」という体感と考え方があるので、そこまで敢えて考えないのですが、他の人はそうではない。
いつか聞いた同じ話題でも、違う話や知識が例え話として毎回違うから面白いと、親族が教えてくれました。
また特に母は、自分も教育現場に出ていて、たくさんのいろいろな先生を見て来て一緒に働いたから、第三者として言うけどみたいに言ってくれました。
母は、自分が教える分野では、常に高みを目指して生徒に理解してもらうことやわかってもらえることを追究してきて、同僚の先生にも忖度のない人で煙たがられていたらしいから、私にいただけた評価は全くの第三者視点でくれたものだと思いたい。
「この能力なぜ、社会に役立たせないの?それを持てているのに」とも言われた。
言葉が出なかった。
私自身は「教える・教えられる」ということに関して、全くいい思い出がないし、むしろ金輪際生きている間では絶対に関わりたくないとも思っている分野なのに。
いつか誰かの言葉「自分が一番呼ばれたくない場所に、一番呼ばれていることがあるんだよ」を思い出した。
なんでそういう……
変わらないけど新鮮なままな部分が、そこなんだろう……
みなさんのなかにも、似た経験をされた方はいらっしゃるだろうか。
それではみなさん、よきお盆休みを過ごされてください。
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