知るメモ|【「近藤浩治」「すぎやまこういち」「植松伸夫」】|ゲーム音楽史の三大巨頭!~ただの効果音が芸術の域になったわけ?
かつて、ゲーム音楽は効果音の一つに過ぎなかった。
しかし今のゲーム音楽は、世界中のコンサートホールでフルオーケストラによって演奏され、オリンピックの開会式で鳴り響き、グラミー賞にも専用の部門が新設されるほどの「芸術」として高く評価されています。
この奇跡のような進化の裏には、初期の厳しい制約の中で、情熱と才能のすべてを注ぎ込んだ「3人の天才」の存在がありました。
今回は、彼らがどのようにして歴史的タイトルに採用され、いかにして私たちの心を震わせるメロディを生み出したのか。
彼らの音楽をあえて「世界の歴史的な大作曲家」と比較しながら、その類まれなる才能の秘密を紐解いていきたいと思います。
◆「制約の芸術」ゲームで音楽を流すという事
1980年代前半、ゲームのサウンドチップが同時に出せる音は「3音」が基本だったようです。
ファミコン(ファミリーコンピュータ)では矩形波2チャンネル、三角波1チャンネル、ノイズ1チャンネルという構成で、今のスマートフォンが何千もの音源を扱えるのとは比べものにならない制約です。
この制約は、作曲家にとって不自由であると同時に、ある種の「自由」でもあった。
神奈川大学を卒業してスクウェアに入社した植松伸夫氏は後年こう振り返っています。
「制約があるからこそ、作り手は自由を探して知恵を働かせていた」と。
3音しかないからこそ、メロディーに感情を込める。
音の少なさを逆手にとって、聴く人の想像力を引き出す。
ゲーム音楽が「短いのに心に残る」のは、この制約から生まれた必然だったのです。
◆「近藤浩治」世界一有名なゲーム音楽を生んだ男
愛知から任天堂へ
近藤浩治氏は1961年8月13日、愛知県名古屋市生まれ。
大阪芸術大学在籍中はカシオペアなどのフュージョンバンドのコピーバンドを組んでいた。
1984年、任天堂に入社し、最初のゲーム音楽担当作は「デビルワールド」。
まだ誰もゲーム音楽を「音楽家の仕事」と見なしていなかった時代に、彼は任天堂というゲーム会社でサウンドクリエイターとして歩み始めた。
そして翌1985年、彼の名を世界に轟かせる作品が発売される。
のちに世界中で愛されることとなるゲーム「スーパーマリオブラザーズ」です。
あのBGMはどう生まれたか
「スーパーマリオブラザーズ」で最初に作曲したのは「イメージするのが最も簡単だった」という水中の曲で、逆に地上の曲は何度も書き直したという。
誰もが鼻歌で歌えるあの「テレッテッテレッテッ」は、何度も試行錯誤を重ねた末に生まれた曲だったのだ。
近藤の音楽哲学は独特。
彼はゲームを「何度も遊ぶ」ことで、プレイのリズムと音楽のリズムを一致させていった。
ゲーム内のキャラクターの動き、ジャンプのタイミング、敵の出現パターンなど、それらすべてと音楽が呼応するように設計されている。
「ゲームソフト1本全体で1曲とする意識が必要。イントロ部分はタイトル曲、サビの部分はボス曲といった感じ。各曲のつながりや全体のバランスが非常に重要だと考えている」
というのが近藤の考え方。
単にBGMを作るのではなく、ゲーム全体を「一つの音楽作品」として構成するという発想は、当時はきわめて革新的だったでしょう。
ポール・マッカートニーが食事に招いた男
この音楽は世界規模で評価を受けます。
あのポール・マッカートニーから「マリオの大ファンだという息子をダシに」食事に招待され、宮本茂と共にサインをねだられたというほど。
スーパーマリオブラザーズの地上BGMは、米国議会図書館に「永久保存に値する貴重な宝」として登録されており、これは日本人作曲家によるゲーム音楽としては初の快挙です。
そこに同じように並ぶ、イマジン(ジョン・レノン)やテイク・ファイブ(デイヴ・ブルーベック)といった20世紀の名曲と肩を並べる存在として認められた、ということです。
さらに2024年には第27回DICEアワード(世界で最も権威あるゲーム賞)で近藤浩治氏が日本人として初めて「殿堂入り」にも選出されている。
「インタラクティブ音楽」の先駆者
近藤の仕事でもう一つ特筆すべきは、「ゼルダの伝説」シリーズです。
マリオがリズムとメロディーの力を見せたとすれば、ゼルダでは「音楽そのものがゲーム体験の一部になる」という新しいアイデアを実践した。
「時のオカリナ」では、楽器演奏がゲームの謎解きや世界の構造に深く組み込まれ、プレイヤーが音楽を「聴く」だけでなく「奏でる」という体験を生み出したのです。
世界の有名音楽家との比較:ジョージ・ガーシュウィンとポール・マッカートニー
近藤さんの音楽性を世界の音楽家と比較するなら、クラシックとジャズを融合させた「ジョージ・ガーシュウィン」や、誰もが口ずさめるポップスを生み出す「ポール・マッカートニー」に近いと言えます。
マリオの「地上BGM」を思い浮かべてみてください。
あの軽快なリズムは、実はラテン音楽の「カリプソ」やジャズの要素がふんだんに取り入れられています。
リズムの裏拍を強調する「シンコペーション」という技法が多用され、マリオがポンッとジャンプするような「ウキウキした跳躍感」が生まれる。
クラシックのような重厚さではなく、ジャズやラテンの「乗れるリズム」をゲームに持ち込んだ点において、近藤さんは真のイノベーターでした。
なぜ私たちはマリオの曲を忘れないのか?
ファミコンは当時、同時に3つの音(メロディ、和音、ベース)と1つのノイズ(効果音や打楽器)しか出せないというこの限られた「同時発音数」の中で、まるで1つのポップバンドが演奏しているかのような錯覚をプレイヤーに与えました。
残り時間が少なくなった時にテンポアップしてプレイヤーを焦らせる演出(インタラクティブ・ミュージックの先駆け)や、コインを取る音(シからミへ跳躍する明るい音階)が、BGMのキー(調)とぶつからないように計算し尽くされていたりと、ゲームを遊ぶ体験そのものをデザインする天才だったのです。
◆「すぎやまこういち」テレビ界の巨人がゲームに革命を起こした
異色の経歴:東大卒のテレビマンが作曲家へ
すぎやまこういち氏の本名は椙山浩一。
1931年4月11日生まれ、2021年9月30日没。
その経歴は三人の中でも際立って異色でした。
東京大学を卒業後、文化放送を経てフジテレビに入社し、ディレクターとして「ザ・ヒットパレード」などの番組を手掛け、同時に作曲家としての活動を始めた。
テレビ黎明期の日本で、クレイジーキャッツをスターに押し上げた番組をプロデュースし、ザ・タイガースやザ・ピーナッツの命名・育成にも関わっていたのです。
「亜麻色の髪の乙女」「花の首飾り」「恋のフーガ」「学生街の喫茶店」など多くのヒット曲、CM、アニメ、映画音楽、競馬場の発走ファンファーレなど幅広いジャンルの音楽も手掛けた。
ゲームに関わる前から、すぎやま氏はすでに日本音楽界の重鎮だった。
そんな人物が、50代を過ぎてゲーム音楽の世界に飛び込むことになるのです。
アンケートはがきが歴史を変えた
ドラゴンクエストとの出会いは、まるで偶然の産物だった。
きっかけは夢中になっていた将棋ゲーム「森田将棋」(エニックス)に「ご意見を」と求めるはがきが付いており、そこに「終盤は強いけど、序盤の駒組みがイマイチ」「音楽が入っていないので、何とかしたら」などと書いて送ったところ、担当者の目に留まったことによる。
すでに日本の音楽シーンを牽引してきた大作曲家が、ファンとして一枚のはがきを送った。
その行動が1986年の「ドラゴンクエスト」第1作に関わるきっかけとなったのです。
これほどドラマチックなきっかけも珍しいでしょう。
「3音の制約」を嘆かなかった巨匠
すぎやま氏の真骨頂は、技術的制約への向き合い方にある。
本来ならばオーケストラで演奏する編成を、ファミコン音源の3音へ絞り込むのは大変な苦労があると思いますが、すぎやま氏本人は「音源が少ないから作曲できないなんていうのはプロではない」と言い切り、一切文句を言わなかったとされています。
クラシック音楽の大家が、ファミコンの「ピコピコ音」に本気で向き合い、その結果生まれたのが、あの「序曲〜ロトのテーマ」であり、「王宮のロンド」であり「広野を行く」だったのです。
チープな音源でありながら、聴けば明らかにクラシックの品格が宿っている。それが多くのプレイヤーを魅了した理由の一つでしょう。
オーケストラコンサートという革命
すぎやま氏がゲーム音楽史に残した最大の功績の一つは、「ゲーム音楽をコンサートホールに持ち込んだ」ことです。
「ゲーム音楽は子どものおもちゃ」
という偏見が根強かった時代に、シリーズ楽曲は交響組曲「ドラゴンクエスト」として編曲され、NHK交響楽団や東京都交響楽団の奏者たちがドラクエの曲を演奏する。
自ら指揮しコンサートを行ったのです。
近年は東京都交響楽団などを中心にオーケストラコンサートを各地で行い、さらに、ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団による録音盤も制作された。
その前代未聞の構想を実現したのは、すぎやまがすでに音楽界の重鎮であり「クラシックの人」としての信頼を持っていたからこそでしょう。
2021年の東京オリンピック開会式では「ドラゴンクエスト」の「ロトのテーマ」が使用され、ゲーム音楽が世界最大のスポーツの祭典を彩る楽曲として認められた瞬間となりました。
世界の有名音楽家との比較:J.S.バッハとリヒャルト・ワーグナー
すぎやま氏の手法は、まさに西洋クラシック音楽の王道です。
音楽の父と呼ばれる「J.S.バッハ」や、オペラでキャラクターごとにテーマ曲を作った「ワーグナー」と比較することができます。
ドラクエの城のBGM(「王宮のロンド」など)は、バロック音楽の要素が色濃く出ています。
「対位法」、複数の独立したメロディを同時に重ね合わせて美しく響かせる技法が使われている。
ファミコンのチープな電子音であっても、すぎやま氏がクラシックの厳格なルールに基づいて音を編み込んだことで、プレイヤーは画面上のドット絵の城から「ヨーロッパの荘厳な石造りの城」を感じ取ることができたのです。
「序曲」が完成するまでの5分間と、その後の50年
あまりにも有名なドラクエの「序曲」。
ファンファーレから始まるあの曲は、すぎやま氏が依頼を受けてからなんと「たった5分」で書き上げられたと言われています。
しかしご本人は、「5分と、それまで生きてきた50年の人生が詰まっている」と語りました。
彼が評価されたのは、ゲーム音楽に「品格」と「郷愁」を与えたこと。
戦闘曲の緊迫感ある和音、フィールド曲のどこまでも広がるような伸びやかなメロディ。
彼はファミコンを「3つの楽器を持った小さなオーケストラ」と呼び、子供たちにゲームを通じて本物のクラシック音楽の響きを教育した、偉大なマエストロだったのです。
そして、2016年には84歳292日で「最高齢でゲーム音楽を作曲した作曲家」としてギネス世界記録に認定されました。
◆「植松伸夫」ビデオゲーム界のベートーヴェンと呼ばれた独学の革命家
高知から、独学で、世界へ
植松伸夫氏は1959年3月21日生まれ、高知県高知市出身。
高知学芸高等学校を経て、神奈川大学外国語学部英文学科を卒業。
音楽大学の出身ではなく、作曲はほぼ独学だったようです。
大学卒業後は就職せず、バイトをしながら作曲を続け、CM音楽作曲家募集の広告を見つけ、毎日デモテープを制作して送り続けた。
その過程で知り合ったゲームクリエイターの坂口博信(後にFFの生みの親となる人物)の誘いで、1986年にスクウェアへ入社。
同年の「クルーズチェイサー・ブラスティー」でゲーム音楽作曲家としてのキャリアをスタートさせます。
初期はゲームが全く売れず、会社は倒産の危機に瀕します。
「これで最後になるかもしれないから、自分の好きなように作ろう」という背水の陣で作られたのが、のちにドラクエと共に国産RPGの双璧を成すことになる、1987年の「ファイナルファンタジー(FF)」でした。
植松さんが採用され、そして神格化された理由は、「人間の感情を直接揺さぶる、泣けるメロディライン」と、「既存のジャンルに囚われない実験的なアプローチ」にあります。
FFの音楽はなぜあれほど感情を揺さぶるのか
植松伸夫さんの功績を語る上で、決して外すことのできない「歴史的転換点」が存在します。
それが、1999年に発売された「ファイナルファンタジーVIII」の主題歌、「Eyes On Me」です。
この楽曲は、単にゲームのテーマソングとして素晴らしいという枠に収まるものではありませんでした。
植松さんの名をゲーム業界の外側、つまり「純粋な音楽市場」へと轟かせる圧倒的な金字塔となったのです。
ストーリーと完全にシンクロした「架空の歌姫」
「Eyes On Me」がプレイヤーの心をあそこまで強く打ち据えた最大の理由は、その設定の巧妙さにあります。
この曲は、ゲーム内に登場する架空のピアニストであり歌手の「ジュリア・ハーティリー」が、愛する人への想いを綴って作った曲、という設定で物語の根幹に深く組み込まれています。
プレイヤーはゲームを進める中で、ジュリアの切ない恋模様や、世代を超えて受け継がれていく想いを追体験し、そのクライマックスでこの曲が流れる時、それはただのBGMではなく「プレイヤー自身が体験した壮大なドラマの結晶」として響くのです。
音楽と物語がこれほどまでに深く、そして美しく絡み合ったゲーム体験は、当時において革命的だったのです。
リアルな世界では、アジアの歌姫フェイ・ウォン(王菲)が歌い上げるこの曲は、オリコン洋楽シングルチャートで19週連続1位という驚異的な記録を打ち立てます。
そして、第14回日本ゴールドディスク大賞にて「ソング・オブ・ザ・イヤー(洋楽部門)」を受賞。
ゲーム音楽が、数ある名曲たちに交じり日本の権威ある音楽賞を受賞したことは、ただの効果音から始まったゲームのBGMが、音楽界の批評家からも一般大衆からも「一つの優れた音楽作品」として完全に認知された瞬間でした。
独学の青年が「ビデオゲーム界のベートーヴェン」になるまで
現在、植松さんは海外のメディアやオーケストラコンサートの場などで、「ビデオゲーム界のベートーヴェン」と最大級の賛辞をもって称されています。
事実、2001年にはアメリカの「Time」誌にて「音楽における革新者」の一人としても選出されました。
ベートーヴェンといえば、西洋クラシック音楽の歴史において「古典派の完成」と「ロマン派の開拓」を成し遂げた絶対的な巨人です。
先にも書きましたが、彼の音楽が専門教育を受けていない「完全な独学」。
専門的な音大やコンセルヴァトワール(音楽院)を出たわけでもない、日本のいち青年がエルトン・ジョンなどに憧れて独学で音楽を学び、やがて生み出したメロディが世界中の人々の心を震わせ、クラシック界の巨人の名を冠して呼ばれるようになる。
これは現代の音楽史における一つの奇跡と言えるでしょう。
世界の有名音楽家との比較:エンニオ・モリコーネとピンク・フロイド
植松さんの音楽は、映画音楽の巨匠「エンニオ・モリコーネ」の抒情性と、プログレッシブ・ロックの代表格「ピンク・フロイド」や「エマーソン・レイク・アンド・パーマー(EL&P)」の実験性を併せ持っています。
植松さんは大のプログレ好きとして知られています。
ボス戦のBGMでは、複雑な変拍子やロックバンドのような激しいベースラインを、ファミコンやスーパーファミコンの音源で強引に鳴らしました。
一方で、町やフィールドの曲では、アイリッシュやケルト音楽のような哀愁漂う旋律(FF6の「ティナのテーマ」やFF4の「愛のテーマ」など)を用い、プレイヤーの涙を誘いました。
アルペジオが奏でる「水晶の輝き」
FFシリーズを象徴する「プレリュード」タイトル画面で流れる曲。
あの「ドレミソ、ドレミソ…」と上がったり下がったりする美しいハープのような音色は、「アルペジオ(分散和音)」という手法です。
和音を一度に鳴らすのではなく、一音ずつバラバラに弾くことで、当時のゲーム機でも「クリスタルがキラキラと輝くような透明感」を表現しました。
植松さんは、ゲームを単なる遊びから「映画を超えるようなドラマチックな体験」へと昇華させました。
キャラクターの悲哀や愛、死といった重いテーマを、植松さんの音楽が雄弁に語りかけていたからこそ、FFは世界的なRPGになれたのです。
◆「制約という名の魔法」3人の天才が共有していたもの
近藤浩治さん、すぎやまこういちさん、植松伸夫さん。
音楽的なバックボーンも、歩んできた道も全く違う3人ですが、彼らには共通する「ある事実」があります。
それは、「厳しいハードウェアの制約があったからこそ、メロディを研ぎ澄まさざるを得なかった」ということです。
現代のゲームは、生録音したオーケストラやボーカル曲をそのまま流すことができます。容量もほぼ無限です。
しかし、彼らが伝説を創り上げた時代は「ファミコンの3和音(+ノイズ)」や「スーパーファミコンの8音」という、途方もない制限の中にありました。
近藤浩治さんは、少ない音数で「リズムと楽しさ」を表現する引き算の美学を極めた。
すぎやまこういちさんは、クラシックの対位法を駆使し、少ない音に「奥行きと品格」を持たせた。
植松伸夫さんは、和音の構成や音色の工夫で、ハードの限界を超える「情景と感情」を描き出した。
現代の世界的作曲家、例えばハンス・ジマーやジョン・ウィリアムズが「オーケストラという無限のパレット」を使って絵を描く画家だとしたら、この3人は「たった3色の絵の具」だけで、モナ・リザやひまわりのような世界中の人の記憶に永遠に残る名画を描いてみせたのです。
そして今日、ゲーム音楽は完全に独立した音楽ジャンルとして世界に認められています。
武道館でゲーム音楽のコンサートが行われ、グラミー賞ではゲーム音楽部門の設置され、映像ストリーミングサービスのプレイリストにも「ゲームサウンドトラック」が定着しつつある。
その起点に、間違いなくこの三人がいるでしょう。
◆まとめ
「あの曲を聴くだけで、当時の記憶が一瞬で蘇る」
音楽には、記憶と強く結びつく力があります。
ゲーム音楽が特別なのは、それがただ受け身で聴くものではなく、私たちがコントローラーを握り、自分で困難を乗り越え、世界を救った時のBGMだからです。
プレイヤー自身の人生のサウンドトラックなのです。
近藤さんが仕掛けたウキウキするリズムに体を揺らし、すぎやまさんが紡いだ壮大なファンファーレに勇気をもらい、植松さんが奏でる哀愁のメロディに涙した。
その経験は、間違いなく私たちの心を豊かにしてくれました。
街中で又は何かの動画の後ろであのBGMが聞こえたら、彼らの凄まじい音楽的才能と情熱を感じてみてください!
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次回は「コロコロとドラえもん」について少し書いていますので、お時間あれば読んでみてください。
日々の出来事から日記代わりにいろいろ書いています。
前回の記事も時間がありましたら読んでみてください。
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