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東ミソスモアは大戦中、どちら側に立っていたのか

東ミソスモアの近現代史を読んでいると、「大戦中、東ミソスモアはどちら側だったのか」という問いに、意外なほど簡単な答えが見つからない。戦後の教科書では、東ミソスモア出身の兵士たちが侵攻軍と戦い、セレン谷の戦いをはじめとする戦闘で多くの犠牲を出したことが強調されている。その意味では、現在の東ミソスモアで大戦を語るとき、自国は侵略を受け、それに抗した側だったという理解が基本になっている。しかし当時の東ミソスモアは、現在のような独立国家として外交方針を決められる立場にはなかった。軍服も軍旗も、兵士たちが命令を受けた司令部も、スドラに置かれた独自政府のものではなかったのである。

そのため「どちら側に立ったのか」と尋ねること自体が、少し現在の国境を過去へ持ち込みすぎている。東ミソスモアの人々は確かに一方の陣営の軍隊として戦った。しかし、東ミソスモアという国がその陣営を選んだわけではない。この違いが、大戦の記憶を現在まで複雑なものにしている。


大戦が始まったとき、東ミソスモアは独立国ではなかった

王国が消えたあとに入った大きな国家

現在の東ミソスモアには、メレシュのノルディナ城や旧王家に関する記録が残っているため、古い王国から現在の共和国まで国家が連続してきたように感じられる。しかし、その間には大きな断絶がある。王政が終わったあと、東ミソスモアは短い政治的混乱を経て、東方に広大な領土を持つ連邦国家の一地域として組み込まれた。スドラには地域行政を担う機関が置かれたものの、外交、軍事、主要な産業政策は遠く離れた中央によって決められ、東ミソスモア単独で他国と同盟を結んだり戦争を宣言したりする権限は持たなかった。

この時代の公文書を見ると、東ミソスモアという地名は消えてはいない。地域名として使われ、学校や行政区画にも残っていた。しかし軍関係の書類では、所属先としてさらに大きな国家名が記され、その下にスドラやメレシュ、リェダといった出身地が添えられている。現在の感覚なら「東ミソスモア軍の兵士」と呼びたくなる人々も、当時はより巨大な軍隊の中に編入されていた。大戦中の立場を考えるには、まずこの状態を理解しなければならない。

「参戦した日」も存在しない

独立国なら、政府が宣戦を決定し、議会が承認し、国民へ発表する日を持つことができる。しかし東ミソスモアには、大戦への「参戦日」と呼べる独自の日付がない。大きな国家全体が戦争へ入ると、スドラにも動員命令が届き、各地の行政機関が対象者を集めた。町の掲示板には出頭場所が記され、鉄道駅には通常より多くの若者が集まり、地方からはトレムやスドラを経由して兵員が送り出された。

つまり東ミソスモアは、政府が外交的判断をして戦争へ参加したのではなく、すでに属していた国家が戦争に入ったことで、その内部から戦場へ引き込まれたのである。後世の地図で陣営を色分けすれば、東ミソスモアの領域は明確に一方の色に塗られる。しかし、その色が人々の政治的意思まで示しているわけではない。

最初に戦場になったのは東側ではなかった

侵攻は山の外から入ってきた

大戦が東ミソスモアの日常を直接変えたのは、遠い戦線の報道によってではなく、外から軍が入ってきたときだった。侵攻軍はハルヴァート山脈を正面から大規模に越えようとはせず、比較的移動しやすい平地と既存の道路を利用して進んだ。ヴァレン港や主要鉄道は軍事的価値が高く、スドラも行政と輸送を押さえるための重要な目標となった。一方、リェダ盆地の小さな村々の一部が直接的な戦闘を比較的免れたのは、そこへ大部隊を入れても戦略上得られるものが少なく、道路も分散していたためである。

この時期の東ミソスモアでは、戦争は「国境で防いでいるもの」ではなくなった。道路標識が外され、橋の状態が確認され、家畜や食料がより山側の集落へ移された。侵攻軍が近づくと、行政文書を焼却した役所もあれば、逆に土地台帳や住民名簿だけを隠した町もあった。何を残し、何を消すかは地域によって異なり、その判断の差が後年の記録量にも大きく影響している。

セレン谷の戦い

東ミソスモア最大の戦争記憶

現在の東ミソスモアで大戦を象徴する場所を一つ挙げるなら、スドラではなくセレン谷になる。セレン谷の戦いでは、侵攻軍の進行を遅らせるため、谷を通る道路と周辺高地をめぐって激しい戦闘が続いた。東ミソスモア出身者を多く含む部隊もここに投入され、現在では各地の戦没者名簿にセレンの地名が繰り返し現れる。

ただし、現在の記念碑だけを見ていると、「東ミソスモア軍が祖国を守った戦い」のように理解しやすい。実際には指揮系統はより大きな軍組織に属し、東ミソスモア出身者だけで部隊が編成されていたわけでもなかった。他地域から来た兵士も多数おり、反対に東ミソスモア出身の兵士が遠く離れた戦線で戦っている場合もあった。セレン谷が「東ミソスモアの戦い」として記憶されるようになったのは、戦場が現在の国土にあり、町や村の住民が戦闘を直接経験したからである。

敗北と撤退も記憶されている

セレン谷について興味深いのは、英雄的な防衛戦だけが語られていないことである。初期の防衛線が崩れ、部隊が撤退したこと、負傷者を十分に運び出せなかったこと、橋の破壊が遅れて侵攻軍に利用されたことなども地域資料には残っている。戦後しばらくはこうした記録が公的な物語から外される傾向があったが、現在の地域博物館では撤退経路や民間人の避難経路まで含めて展示されるようになっている。

東ミソスモアにとって大戦は、勝った側に所属したという一文だけでは説明できない。戦争全体の最終結果と、東ミソスモア各地で実際に起きた出来事の順序は一致しないからである。人々が最初に経験したのは勝利ではなく、動員、撤退、占領、物資不足だった。

スドラは一度、別の旗の下に置かれた

街路名まで変更された占領期

スドラが占領されると、行政機関の一部は接収され、通りの名称や公共施設の表示が変更された。現在でも古い建物を調べると、壁面から剥がされた文字の跡や、別の名称が記された地図が見つかることがある。戦後に元の名前へ戻った通りも多いが、すべてが復元されたわけではなく、現在使われている名称の中には、占領以前とも占領期とも異なる第三の名前を持つ場所もある。

占領統治には現地の人間も動員された。食料配給、清掃、鉄道運行、住民登録といった日常業務をすべて外部から来た人員だけで行うことはできなかったためである。この事実は、戦後の東ミソスモアで長く扱いの難しい問題になった。占領行政の下で働いた人をすべて協力者と見なせば、町の生活を維持するために働いていた者まで同じカテゴリーへ入ってしまう。逆に、単なる仕事だったと説明すれば、実際に占領側へ積極的に協力した者との違いが見えなくなる。

「こちら側」と「あちら側」が町の中にもあった

大戦を二つの陣営だけで考えると、占領下の暮らしは理解しにくい。スドラに残った住民の中には地下活動へ参加した人もいれば、家族を養うため占領行政の仕事を続けた人、何とか政治から距離を置こうとした人もいた。侵攻軍に対して反感を持っていても、食料を得るためにはその配給所へ行かなければならない。鉄道員は占領側が利用する列車を動かしながら、同時に住民の移動も支えていた。

現在の東ミソスモアでは、この時期を単純に「協力した者」と「抵抗した者」へ分ける説明は以前より減っている。もちろん戦争犯罪や積極的な協力は区別されるが、占領された町で日常を維持した行為まで、後世の安全な場所から簡単に判定することへの慎重さがある。大戦中、国土の上では前線が移動したが、人々の立場もまた、一枚の地図ほど明確ではなかった。

山へ入った人々

ハルヴァート山脈は前線の外ではなかった

侵攻後、ハルヴァート山脈へ移った小規模な抵抗組織もあった。山脈には鉄道が通っておらず、大部隊を継続的に送り込むことが難しい一方、ベルノフ峠やヴェルカ峠を含む道路は地域間の移動に重要だった。そのため抵抗側は、山中そのものを支配するより、道路状況の確認、連絡員の移動、占領側輸送の監視などを行った。

しかし、山へ入れば自由だったわけではない。冬は移動できる道が限られ、食料も山中だけでは確保できない。結局、麓の村との関係が必要だった。住民がパンや乾燥肉を渡した例もあれば、報復を恐れて関わらなかった家もある。山の抵抗活動を後世に美しく描く物語では、この部分が省かれやすいが、実際には一人を匿うことが村全体への危険を意味する場合もあった。

リェダ盆地の村々

直接の戦闘を避けたリェダ盆地の村でも、戦争と無縁だったわけではない。若者は動員され、家畜や穀物は徴発され、遠方から避難者が入った。村によっては道路標識を外し、鐘を鳴らさず、夜間に灯りを外から見えないようにした。大規模な戦闘が起きなかったことと、平穏だったことは同じではない。

戦後、セレン谷のように多くの戦死者を出した地域と、比較的建物が残った盆地の村との間には微妙な感情も生まれた。「何もなかった村」と呼ばれることを嫌う人がいたのは、戦場にならなかったこと自体に、逃げ延びた負い目や説明しにくい記憶が伴っていたからである。

戦争の後半、軍は戻ってきた

「解放」と呼ぶ記憶

戦況が変わると、東ミソスモアを含む大きな軍は再び西へ進み、占領地域を奪回していった。スドラの戦後記念碑では、この出来事は長く「解放」と表現されてきた。占領軍が撤退し、強制的な統治が終わったという意味では、住民にとって実際に解放だった。収容されていた人が戻り、変更されていた標識が外され、避難していた行政機能も再び置かれた。

町には兵士を迎えた人々の写真も残る。花を渡す女性、車両の横を走る子ども、建物から古い旗を出す人々。その写真だけを見れば、戦争の立場は非常に明確に見える。侵攻した側と、それを追い出した側があり、東ミソスモアは後者だった。

しかし、東ミソスモアの歴史はそこで終わらない。

戻ってきた軍は「自国軍」でも「外軍」でもあった

占領軍を追い出した兵士の中には、東ミソスモア出身者も多数いた。家族にとっては、息子や兄弟が帰ってきたことになる。一方、その軍隊の最高司令部はスドラにはなく、戦後の政治制度も東ミソスモアだけで決定できるものではなかった。住民にとって、戻ってきた軍は自分たちを占領から救った軍であると同時に、東ミソスモアを包含する巨大な国家の軍でもあった。

ここに、現在の大戦記憶の最も難しい部分がある。占領からの解放を否定する必要はない。しかし「解放された」という事実だけから、その後の政治体制まで住民全員が自由に選んだと考えることもできない。二つは同時に成立する。東ミソスモアは侵攻軍から解放され、その後もなお、自らの外交や軍事を完全には決められない国家構造の中に残った。

東ミソスモア出身兵はどこで戦ったのか

国土防衛だけでは終わらなかった

侵攻軍が東ミソスモアから撤退したあとも、東ミソスモア出身兵の戦争は終わらなかった。部隊はさらに西へ進み、現在の国境から遠く離れた地域で戦った。墓地には、セレン谷でもスドラでもなく、東ミソスモアの人には馴染みの薄い外国の地名が刻まれていることがある。

この事実も、大戦の立場を考えるとき重要である。戦争前半の兵士たちは明確に故郷への侵攻を食い止めるために戦っていた。しかし国土を取り戻したあと、彼らはより大きな軍事目標のために戦い続けた。「どこまでが祖国防衛だったのか」という問いは、戦後から現在まで何度も議論されてきた。

それでも、多くの家族に残った手紙では、政治的な説明より帰宅の話が多い。雪が解けたら戻れると思う、弟に畑を頼む、母に靴を捨てないよう言ってほしい。東ミソスモア出身の兵士にとって、巨大な国家同士の戦争と、自分が帰りたい小さな町は、同じ紙の上に書かれていた。

戦後、勝利の物語は整理された

どの町にも同じ形の記念碑ができた

戦後の東ミソスモアでは、戦没者を記念する碑が各地に建てられた。スドラの大きな記念施設だけでなく、メレシュ、クラディル、ドラヴァ渓谷の町、リェダ盆地の村にも名前を刻んだ石碑がある。デザインには地域差があるものの、初期に建てられたものほど共通した意匠が多く、東ミソスモア国内だけを見て設計されたものではないことがわかる。碑文にも「祖国」「解放」「勝利」といった共通語彙が繰り返され、個々の地域史より、巨大な戦争の中での位置が前面に出されていた。

それは虚偽だったわけではない。実際に多くの人が戦い、占領を終わらせ、膨大な犠牲を払った。しかし公的な記憶が整えられる過程で、撤退の混乱、捕虜になった兵士、占領下で生き延びた人、政治的に扱いにくい抵抗組織などは語られにくくなった。戦争が終わると、複雑だった人々の立場は「勝利した側の住民」という一つの大きな物語へ収められていった。

独立後に碑文を消さなかった

後に東ミソスモアが独立したとき、これらの記念碑を撤去すべきだという議論も起きた。しかし多くは残された。碑が象徴していた政治体制と、そこに刻まれた東ミソスモア出身者の死を同じものとして扱うことができなかったからである。

一部の記念碑では、新しい説明板が付け加えられた。元の碑文を削らず、その横に当時の軍組織、占領の経過、地域出身者の動員数などを記す方法である。古い記念碑をそのまま信じるのでも、消して新しい歴史へ置き換えるのでもなく、別の文章を隣に置く。東ミソスモアが大戦を語り直すときに選んだ方法の一つだった。

「どちら側だったのか」と聞かれたら

現在の東ミソスモアの歴史教師なら、「侵攻した側ではなく、それと戦った側だった」とまず答えるだろう。それ自体は間違っていない。セレン谷では侵攻軍と戦い、スドラは占領され、後には奪回された。東ミソスモア出身の兵士たちは最終的に勝利した陣営の軍隊の一員として戦った。

ただ、そのあとにもう一文が必要になる。

「ただし、東ミソスモアが独立国としてその陣営を選んだわけではない」。

大戦当時、東ミソスモアは広大な連邦国家の一部だった。軍事も外交も中央で決まり、東ミソスモアの若者たちは、その国家の兵士として動員された。国土を侵略されたという経験は現実であり、それに抵抗したことも現実である。一方で、戦後戻ってきた政治体制を、現在の独立国家とそのまま同一視することもできない。

私は最初、「大戦中にどちら側だったのか」という問いには、地図を一枚見れば答えられると思っていた。しかし東ミソスモアの場合、地図に塗られた色は軍事的な所属を示しても、人々が自分たちをどのように考えていたかまでは示さない。

メレシュには王国を覚えていた世代がいて、スドラでは別の言語による行政文書が増え、若者は遠い司令部から届いた命令で列車へ乗った。その後、外から別の軍隊が入り、町の標識が変わり、さらに数年後には最初の軍が戻ってきた。同じ人が、そのすべてを経験している。

だから東ミソスモアの大戦史には、「我々は勝った」という言葉と、「我々が決めた戦争ではなかった」という感覚が同時に残っている。

セレン谷の記念碑に刻まれた兵士たちは、確かに侵攻に抗した側にいた。しかし彼らが守ろうとしていたものを、巨大な国家の境界だけで説明することはできない。家族のいる村、いつも渡っていた橋、スドラの通り、リェダ盆地の畑、メレシュへ続く道。それらを失いたくないという感覚まで含めて考えたとき、ようやく彼らが「どちら側にいたのか」という問いが、単なる陣営名より少し具体的なものになる。

東ミソスモアは大戦中、勝利した側に属していた。ただし、それは独立した東ミソスモアが自ら選んだ側ではなかった。そしてその違いを忘れないことが、この国で大戦を語るとき、いまも重要なのである。

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