見出し画像

【週末トリビア】郵便受けに届く「抵抗の手引き」――国防の民主化の究極形

今週の本編(第2回・第3回)では、北欧の「全社会防衛(トータル・ディフェンス)」も例に挙げ、民間スキルを国防に活かすシステムをご提案しました。

その北欧の一国、スウェーデンには、国民の防衛意識を象徴する有名な「トリビア」があります。

スウェーデンでは、数年に一度、政府からすべての世帯の郵便ポストに、ある一冊の冊子が直接届きます。

タイトルは『もし危機や戦争が来たら(Om krisen eller kriget kommer)』。

これはただの防災パンフレットではありません。有事の際に国民一人ひとりがどう行動すべきかを、信じられないほど具体的に書いた「有事の国民マニュアル」です。

1. 起源は第二次大戦、そして冷戦

実はこの冊子の起源は、第二次世界大戦にまで遡ります。中立を掲げながらも周辺国が次々と戦火に巻き込まれるのを目の当たりにしたスウェーデンは、国民全体を巻き込む防衛体制の構築に早くから着手しました。

戦後は東西冷戦の最前線に近い立地から、ソ連の脅威を常に意識し続け、国民保護のための情報冊子を版を重ねて配布してきた歴史があります。

2. 一度途絶え、そして復活した理由

しかし冷戦終結とともに、この配布は一度途絶えます。「もはや大規模侵攻の脅威はない」という楽観論が支配的になった1990年代、スウェーデンも例外なく国防予算と国民防衛意識の双方を縮小させていきました。

潮目が変わったのは2014年、ロシアによるクリミア併合です。周辺国の空域・領海への圧力が強まる中、スウェーデン政府は2018年、実に約20年ぶりにこの冊子を大改訂の上で復活させます※1。

全世帯への配布部数は約2000万部にのぼりました。さらに2022年のロシアによるウクライナ侵攻、そして同年のスウェーデンのNATO加盟申請を経て、集団防衛の枠組みを踏まえた内容へと継続的にアップデートされています※2。

平時には「不要」とされ、脅威が具体化するたびに「必要」として国民の手元に戻ってくる。

この一冊の存在自体が、スウェーデンという国の脅威認識の変遷、そして国家と国民の間の緊張関係の推移を映す鏡になっているのです。

3. 冊子の中身――驚くほど具体的な「当事者マニュアル」

内容は多岐にわたりますが、特徴的なのは次のような項目です。

- 偽情報の見分け方:国家や敵対勢力から流される偽情報・プロパガンダにどう対処するか、具体的な着眼点を提示
- 家庭備蓄の実践リスト:最低限備えるべき水・食料・医薬品などを具体的な品目と量で明示
- 職能別の行動指針:医療従事者、電力・水道の技術者、運送業従事者など、民間人がそれぞれの職業・スキルを使って有事にどう社会機能を支えるかを職種別に解説
- サイレン・警報の意味:空襲警報や緊急警報が鳴った際の行動手順を図解付きで説明
- 避難と籠城の判断基準:どのような状況で自宅に留まり、どのような状況で避難すべきかの目安

抽象的な「心構え」ではなく、明日から実践できるレベルまで落とし込まれている点が、この冊子の本質です。

前線に立つのは自衛隊だけではありません。電力技師も、配送ドライバーも、看護師も、それぞれの持ち場で国家の継戦能力の一部を担う――そうした発想が、平時の生活の延長線上に自然に組み込まれているのです。

4. 太字の一文が語る、国と国民の関係

驚くべきは、冊子の冒頭に太字で記された一文です。

「スウェーデンが他国から攻撃された場合、私たちは決して抵抗を諦めません。抵抗をやめろという情報はすべて偽物です」

この一文は、単なる注意喚起ではありません。国が国民に対して「あなたたちは抵抗の当事者である」と明言し、同時に「降伏を促す情報は敵の情報工作である」とあらかじめ国民に免疫をつけている。

認知戦・情報戦への耐性を、平時のうちに国民全体へインストールしているのです。

5. 国防の民主化の究極形

国が国民を信頼し、国民もまた国を守る当事者であるというマインドが、平時の郵便ポストから育まれている。

これこそが「国防の民主化」の究極のカタチだと私は考えます。

日本において、国防は長らく「自衛隊と政府の仕事」として国民の日常から切り離されてきました。

有事の備えといえば地震や台風を想定した防災マニュアルはあっても、「他国からの武力攻撃」を正面から想定し、偽情報への耐性や職能別の行動指針まで踏み込んだ国民向け文書は、ほとんど存在しません。

しかしスウェーデンの事例が示すのは、国民一人ひとりが有事における当事者としての具体的な役割とリテラシーを持つことこそが、真の抑止力の基盤になるという事実です。

侵略する側にとって最も厄介なのは、洗練された兵器体系だけではなく、「決して抵抗をやめない」という国民の意思がすでに社会全体に織り込まれている国です。占領しても、統治のコストが際限なく膨らむからです。

郵便ポストに届く一冊の冊子。そこに込められているのは、防災の知恵だけではなく、「自分の国は自分たちで守る」という国家としての意思そのものなのです。

---

※1 スウェーデン民間緊急事態庁(MSB: Myndigheten för samhällsskydd och beredskap)が発行主体。2018年版は約2000万部が全世帯に配布されました。

※2 2022年のNATO加盟決定後、集団防衛の枠組みを踏まえた記述が追加改訂されています。


自分の国は自分で守る。
Always Check Your Six O'clock.

いいなと思ったら応援しよう!

元空将  永岩俊道:   国家安全保障アナリスト、 Appreciate it❣️