映画「オールド・オーク」は地味だが、未来映画
見逃していた映画『オールド・オーク』を十三のシアターセブンで観ることができた。ケン・ローチ監督節炸裂、といったところだろうか。
(実はケン・ローチを語れるほど詳しくはない。)
監督の持つ完成された世界観のまま映画が作られていて、安心して観ていられる。場面転換も頑固だ。w
オジイチャンから昔語りの成功譚を聞いているようだが、話は現在進行形であり、日本にとっては近未来の話にもなり得る。
ネタバレを含む。
設定が「とある炭鉱の町で唯一のパブ」というところから、ある程度ジャンルは予想できる。
ところが、「町がシリア難民を受け入れ始めた」ことで、物語は今までとは違う展開を見せ始めた。過去の発展を懐かしみ、狭いコミュニティを大切にし、新しいドアを自ら開くことのできない人たちにとって、異文化の突然の流入は受け入れ難いものなのだろう。炭鉱の町でなくとも、世界中どこでも起こり得る問題だ。
実際に起きている話でもある。

過去の武勇伝のような思い出にしがみつき、新しい変化や文化をなかなか受け入れることができずにいる。
パブの看板「オールド・オーク」の「K」を店主が直そうとする。しかし、堅牢なはずのオークの木も、ここではもはや心もとない存在になっていることには誰も気づかない。それは店主だけの問題ではないのだ。
かつて皆が集い、結束を深めた食事の場も、今や変化に対応できず、朽ちていくばかり。
コミュニティとは聞こえがいいが、傷を舐め合い、慰め合う一方で、実は誰かに出し抜かれることを嫌う集団心理なのかもしれない。彼らに必要なのは、変化への「きっかけ」だけだったのかもしれない。
この映画は、人は誰でも変われる可能性があることを示そうとしていたのかもしれない。

彼らが抱える負の概念である「負け犬」とは、変化に対応できず、時代に乗り遅れてしまった者ではなかったのか。「負け犬」は『わたしは、ダニエル・ブレイク』でもしばしば登場した言葉だ。
設定こそ大きく違うが、『わたしは、ダニエル・ブレイク』と共通するところは多い。そして、主人公が疑問を抱き始め、映画が最終的にたどり着く地点も、同じ方向を向いているように思えた。主人公と関わる人たちの年齢層も、どこか似たような設定だ。
結局この映画も、『わたしは、ダニエル・ブレイク』の設定を変えた形で、監督が訴えたかったのは、「負け犬」だと思い込み、人生後半を迎えてしまった人たちであっても、変わる意思を持ち、行動すれば変化を起こすことができる、ということなのではないか。

この映画では、国や宗教を越え、全員が一緒に食事をすることから会話が生まれ、相互理解が始まる様子が描かれている。差別は無理解から始まる。理解するには歩み寄りが必要だ。まずは一緒に食事をすること。それが何よりも必要なのではないだろうか。この映画は、そんなことに気づかせてくれる。
負け犬とワンちゃん、
負け犬と主人公の生き方、
にも書きたかったが時間切れ。
思った以上に深い映画だった。
