第十三話「あなたがいたから」心からの、感謝の言葉【小説】「鷲宮ことのは」は自分を好きになる練習をはじめた
母が去った後、ことのはは一人でギャラリーに残っていた。
来場者はまばらになり、夕暮れの光が窓から差し込んで、絵の色を柔らかく照らしている。
その中に、黎士が現れた。
手には花束。いつものくだけた格好のまま。
「見てたよ。……あの人、泣いてたな」
「……そう、見えましたか?」
「少しだけな。でも、君は泣いてなかった」
ことのはは微笑んだ。
「ええ。涙は、絵の中に全部置いてきましたから」
黎士は花を渡した。優しいピンクの小さなブーケ。
「おめでとう。……というより、“ありがとう”かな」
「ありがとう、ですか?」
「うん。君の絵、あれだけ多くの人が立ち止まってた。みんな何かを持ち帰ってたよ。それって、すごいことだと思う」
その言葉に、ことのはは静かに頷いた
「黎士さん。わたくし……あなたに伝えたいことがあります」
改まった口調に、黎士は少し驚いたような顔をする。
ことのはは正面を向き、言葉を選びながら語りだした。
「わたくし、自分が何者かも分からず、ただ“正しく”あることに縛られて生きてきました。
でも、あなたが言ってくださったのです。“その笑顔、本物じゃないよ”と。
あの一言が、わたくしを動かしました」
黎士は黙って聞いていた。
「あなたがいたから、わたくしは“仮面を外すこと”を知り、“描くこと”に救われました。
そして今、“自分を好きになる”ということが、少しだけ、分かった気がします」
彼女の目はまっすぐで、もう震えていなかった。
「ありがとうございます、黎士さん。あなたがいてくれたから、今のわたくしがいるのです」
黎士はしばらく沈黙していたが、やがてふっと笑った。
「俺はきっかけを投げただけさ。進んだのは君自身だよ。……でも、言われると、なんか照れるな」
「ふふっ……」
ことのはは、初めて心の底から笑った。
気高さも、品格も、儀礼もいらない、ただの“わたくし”の笑顔で。

◆ことのは語り
母様と向き合い、胸の奥に長く重く沈んでいた鎖がひとつ外れたとき。
次にわたくしが向き合うべき相手は、すぐに心に浮かびました。
黎士さん。
彼は、最初から仮面の奥を見抜いていました。
誰よりも無遠慮に、そして誰よりも真っ直ぐに。
わたくしに「偽物の笑顔だ」と告げた最初の人。
その言葉に傷つき、戸惑い
けれど最後には救われたのです。
あの日、花束を持ってギャラリーに現れた彼に、わたくしは言いました。
「ありがとうございます。
あなたがいてくださったから、わたくしは“自分を好きになる練習”を始められました」
それは震えも飾りもない、わたくし自身の言葉でした。
黎士さんは、少し照れくさそうに笑いながら答えました。
「俺はただきっかけを投げただけだ。歩いたのは君自身だ」
けれど、その謙遜の奥に、確かに寄り添ってくれる温かさを感じました。
……思えば、わたくしが自分の人生を“選ぶ”ことができたのは、黎士さんのおかげです。
彼の眼差しがなければ、あの一歩を踏み出すことはできなかったでしょう。
だからこそ、感謝を伝えられたことが、何よりもわたくしの誇りなのです。
「あなたがいたから、わたくしは今ここにいる」
その言葉は、わたくしの人生に欠かせぬ真実のひとつとなりました。

◆次回予告
母様に向き合い、黎士さんに感謝を伝え、
ようやくわたくしは“わたくし自身の人生”に立つことができました。
豪奢な館でも、肩書きでもなく。
小さな部屋と、スケッチブックと
そして自分の選んだ時間。
その中で、わたくしは静かに確信します。
最終回
「今日も、わたくしは生きている」と。
物語の終幕、そして新たな始まりを。
どうか最後まで見届けてくださいませ✨
前回のお話はこちら
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