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📚シリーズ未整理と断片:阿部定事件――尊厳の非対称性が崩れたとき

阿部定事件(1936年)は、しばしば
「異常な愛」「情痴」「狂気」
として語られてきた。
このことから多くの映画が創られてきた。

しかし、この事件を「尊厳」という言葉を使って読み直すと、
そこから見えてくるのは「特異な感情」ではなく、関係の構造が壊れた瞬間である。

尊厳とは、
自分が他者にとって意味を持っているという実感だ。
だがその関係は、相互的でありながら、非対称である。
自分が意味を持たれるかどうかは、
つねに他者の自由に委ねられている。

阿部定事件で起きたのは、
この非対称性が耐えられなくなったという事態だった。

「私は、あなたにとって特別でなければならない」
「あなたは、私だけを選び続けなければならない」

意味を見出したという事実が、
意味を返される権利へとすり替わった瞬間、
尊厳は関係ではなく、要求になる。

他者が変わる自由、離れる自由、
関係が終わる自由。
その不確実性を引き受けることができなくなったとき、
関係は呼吸を止める。

阿部定事件の異様さは、
殺害そのものよりも、
「切断し、保持した」ことにある。

それは、生きて変わり続ける他者を受け入れられず、
しかし完全に失うことにも耐えられないという、
関係を物へ変換する行為だった。

関係は固定され、
意味は凍結され、
他者は「応答する存在」から「所有される対象」へと変えられた。

これは愛の過剰ではない。
不確実性を引き受ける力が失われた結果である。

尊厳とは、
相手を自分の思い通りにすることではない。
尊厳とは、
相手が去るかもしれない、
変わるかもしれない、
その可能性を含んだまま、
それでも関係しようとする呼吸に宿る。

阿部定事件は、
尊厳が失われた人間の物語ではない。
尊厳の非対称性が否定されたとき、
関係がどこまで暴力へ転化するかを示した事件である。

それは、決して過去の異常な事件ではない。
私たちの身近な関係の中にも、
薄く、静かに潜んでいる構造なのだ。

あとがき

この記事を書きながら、私はあるインタビューを思い出した。
人気アイドルグループ「嵐」の解散が発表されたとき、
一人のファンがこう語っていた。

「嵐のメンバーは、私の中でとても大きな存在です。
でも、嵐のメンバーは私のことを知りません。」

この言葉には、嘆きも怒りもなかった。
ただ、関係の非対称性を静かに引き受ける覚悟があった。

私は意味を見出している。
しかし、その意味が返ってくるとは限らない。
それでも関係し続ける――。

阿部定事件が示したのは、
この関係の非対称性が耐えられなくなったとき、
尊厳がいかに容易に暴力へ転化するか、という事実だった。

尊厳とは、返されることを保証された意味ではない。
尊厳とは、返ってこないかもしれない意味を引き受けたまま、
それでもなお関係しようとする呼吸なのだ。

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