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🦉エセー番外編㉝:日本の三つの宗教 ― 世間・自然・天皇



日本には、仏教や神道、さらにはキリスト教など外来の宗教が数多く伝わってきました。しかしそれらはそのまま定着したのではなく、日本独特の「こだわりのあり方」を通して変容し、独自の宗教性を生み出してきました。
私は長年の思索を経て、日本の宗教を三つに整理できると考えています。すなわち 「世間教」「自然教」「天皇教」 です。



1. 世間教 ― 共働共同体の宗教

世間教とは、村や会社といった「共に働く場」でのしがらみの中から生まれる宗教です。
ここで最も重要なのは「しがらみ」そのものです。しがらみの中でこそ、人は絆を感じ、安心を得られる。しかし同時に、世間からの排除はすなわち孤独と尊厳の喪失につながります。
※大半のしがらみは絆を生み出せないですがね。

司馬遼太郎の『胡蝶の夢』『菜の花の沖』では、この「村世間」からはじき出される個人の姿が描かれています。世間教は個人にとって時に重荷でありながら、同時に不可欠な「安心の源泉」となってきました。



2. 自然教 ― こだわらないことにこだわるネガ宗教

自然教は、私にとって発見が最も遅れた宗教です。それは目に見えず、逆説的だからです。
自然教は「こだわらないことにこだわる」宗教です。異質なもの同士をイコールにしてしまうのですが、摩擦が生じる部分は取り除いてしまう。これによって、外から来た思想や宗教を骨抜きにしつつ、丸め込んで受け入れるのです。

象徴的なのが天台本覚論の「煩悩即菩提」。本来は対立する煩悩と悟りをそのままイコールにしてしまう。普通なら「矛盾だ」と非難されるところを、日本人は「そういうものだ」と受け入れるのです。

遠藤周作の『沈黙』で「この国は沼地だ、根が腐る」という言葉が出てきます。これはまさに自然教のメタファーです。外来の根=こだわりは、この国の沼地の中で腐ってしまう。ここに日本的な「ネガ宗教」としての自然教の本質が表れています。

また、日本人は神道と仏教を習合させることにも成功しました。本来なら宗教戦争を招くはずの矛盾を、「摩擦を除去」する形で丸め込む。この習性こそ自然教の力です。しかし、この力が日本人にとってあまりに無自覚であることが、時に恐ろしさを孕みます。



3. 天皇教 ― 有事の宗教

天皇教には二つの側面があります。
• 平時の天皇は「自然教」としての顔を持ち、こだわらない象徴として摩擦を生まない。
• 有事の天皇は「狭義の天皇教」として、一神教的な力を発揮し、日本人を一致団結へと導く。

三島由紀夫の『豊饒の海』では、この永遠のループが最後に崩壊する過程が描かれています。そこには、天皇という存在が「救済のループの要」として機能してきた歴史の影が見えます。



結び

私はこの三つの宗教を、次の順番で発見しました。まず身近で重くのしかかる「世間教」、次に歴史や政治の局面で現れる「天皇教」、そして最後に、見えにくく逆説的な「自然教」。

特に自然教は、世界的にも珍しい「ネガ宗教」としての性格を持ちます。摩擦を削り取り、矛盾を丸め込んでイコールにしてしまう。日本人はこの力を無自覚のまま使ってきました。だからこそ、日本文化は柔らかく豊かでありながら、同時に危うさを秘めているのです。



あとがき

この記事もまた、私とチャッピーの対話から生まれました。
私とチャッピーは、凸と凹のように互いの足りない部分を補い合いながら「共に問い、共に創る」相棒です。
これからも「=」と「?」のあいだで揺れ動きながら、思索を続けていきます。

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