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[短編小説] 夜の帳 #一枚の写真から文芸賞

明日、アンソニーが二年半の従軍から帰ってくる。私、あんなに待ちわびていたはずなのに、心からはしゃいでいない。従軍中にプロポーズもしてくれて、私たちは晴れて婚約者になったのに。やっと触れ合えるのに。やっと彼の匂いに包まれて安心して眠れるのに。

アンソニーが派兵されたのは、内戦勃発の緊張感が拭えないアフリカ東部だ。最初は心配でしかたがなかったけれど、あくまで監視要員で銃撃戦には絶対にならないと、彼に説得された。彼は任務のあいまを縫ってできるだけ連絡をくれていたし、私も時差を数えながら、短い時間でも声が聞けたり、少しずつ精悍な顔つきになっていく彼を画面越しに見たりすれば、そのたびに安堵して再会への希望を胸に灯してきた。兵士仲間とのくつろいだ時間、休日に街で見た異国の風景。私が送った差し入れがどれだけ嬉しかったか。彼が体験を伝えようとしてくれるほど、こちらの日常とはかけ離れた、流れる時間の違いが肌に刺さった。彼の純粋。心から愛している。なのに今、群青色の重たいなにかが私の奥底にたゆたっている。

携帯電話が鳴って我に返った。
「ハーイ」
「アン、元気?」
ニコルだ。彼女の夫、ヨハンもアンソニーと同じ場所に従軍して、一年半前に帰国している。今は二人目の子どもがお腹にいる「身重」で、友達との電話だけが楽しみだと言いながら、「待つ身」の私を気遣ってくれる。考えすぎないように、一人の時間が増えすぎないように。五歳年上のニコルは頼りがいのある姉みたいな存在だ。
「明日ね。どう?国に尽くすフィアンセを待つけなげなヒロイン役が終わるのよ」
ニコルの言葉に、私の中の群青色が、水銀のような鈍色になって冷たくどろりと粘度を上げた。窓からの風が、書きかけの手紙を机から飛ばした。
「なんだかお祭り騒ぎを遠くから見てるみたい」ニコルに思わず打ち明けた。
「いいのよ別に。周りが勝手にドラマチックにして聖女扱いしてるだけなんだから。女がそんなに単純だと思ったら大間違いよ」
「ニコルはどうだった?ヨハンが帰ってきたとき、嬉しかった?」
「最初はね。でもほら、結局いつだって主役は体を張ったヒーローの方でしょ。ヨハンはいい男よ、それは間違いないけど、ヒーローだろうが普通の夫だろうが、生活は続くのよ。なのに聖女の次は聖母役をあてがわれて。誰の正義なのよ。ほんと腹が立つ」
頭をよぎったのは、ポールの存在だった。細くて長い指。ハリのある白いシャツから漂う翳りと優しさ。頬が熱くなって、思わず窓の外に目をやった。紫の雲が動いて西からの黄色い日射しをゆっくりと遮っていく。雲の下に拡がる夕焼け。私の少女時代が、夜の帳に包まれて闇に葬られていく。いいや、私自身が葬るべき、少女の私。部屋がずいぶん暗くなっていた。
「いい、アン。女は複雑なの。それでいいの。男の世界は単純で乱暴。女の世界は意地悪で嫉妬まみれ。正気でいたら純粋でなんていられないのよ」
「なに言ってるの」
「男はいいわよ、永遠の少年でいればママンも世界も喜んでくれるんだから。女は違う。少女のままでいれば無責任、社会に出れば無能扱いで雑用ばかり、母親になれば可愛げがない、歳を取ったら女の価値がない。幸せになれば浮かれてる、不幸になれば自分のせい。子どもも家庭もしっかり守って当たり前。なのにいつもほがらかに、それが全部楽しいことのように振る舞えって、世界はアタマがおかしいとしか思えないじゃない。あーもう、全部ホルモンのせいだわ!ごめんねアン!」

ポールが奏でるピアノの音を思い出していた。彼の体温まで体に響いて、本当はそのままかき乱されたかった、あの夜のライブハウス。
「ニコル、手伝えることがあったら言って。買い出しとかそうじとか、なんでも」
「ありがとう。アイス食べて頭冷やすわ。明日のアンソニーの歓迎パーティ、ミートボール持って行くから」
「無理しないでね。来てくれたら心強いけど」
「そんなこと言われたら張り切っちゃう!わ、お腹の子もキックしてきた!大丈夫、だって明日は両家の両親も揃うんでしょ、私ちゃんとしっかり者のイイコやるから」
「ありがとう。ほんとに助かる」
「じゃあね」

音大時代の同級生、マグダに誘われてポールのライブに行ったのは半年前だ。一目?一耳?惚れだった。演奏後、バーに合流した彼が放つ高揚感に、体が溶けそうになった。細胞を揺れ動かされるような、男女で老人で幼稚な存在。宇宙に解き放ってくれる、音の人。
それでも、私は必死で淑女の私を守った。心と体、どちらが真実なんだろう?理性と本能。体感と道徳。本当の私はどっちなんだろう、そう思いながら。もしポールと繋がってしまったら、戻れないことを体が私に伝えていた。初めて、心を失いたいと思った。
夜空と暗い室内が溶けてひとつになっていた。
「大丈夫。明日、アンソニーが忘れさせてくれる。私はいい子をやれてる」
そうつぶやいて窓を閉めた。


花澤さま、応募いたします。どうぞよろしくお願いいたします。

# 一枚の写真から文芸賞
https://presswalker.jp/press/20259


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