神童琥珀とダメな大人たち 第十話
合唱祭まで残り一週間を切って、私はだいぶ歌えるようになっていた。
みんなが歌っているメロディーからズレて、あわあわと追いかけたり、ひとりだけフライングしちゃったりするようなことはもうない。
それもこれも香澄ちゃんのレッスンのおかげ。歌っている最中はピアノの伴奏をよく聴いて、首を小さく揺らしてリズムを取るようにしたら、みんなと同じところをちゃんと歌えるようになった。
「琥珀ちゃん運動神経いいんだから、コツさえ掴めば全然問題ないと思うよ」
と香澄ちゃんが言ってくれたのを信じてレッスンに励んだら克服できた。
まだところどころ音を外してしまうことはあっても、致命的というほどではなくてちょっとずれちゃったくらいなもの。隣の陽子と比べて大きなズレになることはもうない。
「あと琥珀ちゃん歌に対する苦手意識が強すぎるんだね。そんなに顔も身体も強張ってたら上手く歌えるわけないよ。リラックスしなきゃ」
硬い声で歌う私を香澄ちゃんがこちょこちょってくすぐった。私は大笑いしちゃって、それから歌ってみたらびっくりするくらい自然に声が出た。それで歌うときの感覚みたいなものがだいぶ掴めた。
学校では香澄ちゃんがいないので、歌う前にニッと口を引き上げる笑顔体操をして、身体や首をぶらぶら揺らしたり、舌を口の中で歯茎に沿うように回したりのストレッチをしてリラックスすることを教えてもらった。そうすると声が伸び伸びと出てくるようになった。
「あと合唱だからね。ひとりがちょっとくらい音程がズレてたって、聴いてる側もわかんないし大きな影響にはならないよ」
そう言ってもらえたことでだいぶ気が楽になって、私はみんなと同じくらい歌えるようになっていた。段々と歌うのって楽しいかも、って思うようにすらなってきていた。
香澄ちゃん、意外と教えるのに向いているのかもしれない。
「琥珀ちゃん歌上手になったよねえ。アルトの練習聴いてびっくりしちゃった」
隣に座ったソプラノパートの晴海が嬉しいことを言ってくれた。人のことを素直にほめられるのが、晴海のいいところだ。
「そうね。あの激烈音痴だった琥珀がちょっとはマシになったじゃない」
こいつと違って。晴海の隣に座った陽子は狐のように目を細めて私を見ている。
五時間授業の水曜日の放課後、私と晴海と陽子の三人は久しぶりに江湊神社の鳥居の前のベンチに座っていた。最近の私の放課後は、香澄ちゃんのレッスンとかとうの手伝いで忙しかったから、久しぶりの三人揃ってのベンチ。神社の参道の木々はもうすっかり色づいている。
「ふんだ、もう音痴は卒業したもんねー。歌の先生にレッスンしてもらってたおかげで克服できましたー」
「ああ、それで最近放課後になると忙しぶってたのね」
陽子の言い方ってほんとに性格悪いと思う。
「歌の先生ってだあれ?」
素朴に首をかしげる晴海に、香澄ちゃんのことを教えてあげた。
「琥珀ちゃんすごーい、大人の人と友だちになったんだ」
「しかもあんたのおじさんと週刊誌でウワサになってた元グラドルって、大丈夫なの?なんか変な人だったりしないの?」
警戒心が強い陽子は疑わしげに眉をひそめている。
「うーん、まあちょっと変わってるとは思うけど、いい人だし面白いよ」
「ふーん、例えば?」
「うーんとね」
週刊誌でラピスラズリが載ってしまったことをママに土下座して謝ってたこととか、神と崇める彩ちゃんに遭遇してタコ公園で土下座してたこととか、公園でダンゴムシに挨拶しようとしていたこととかを話すと、二人ともむちゃくちゃ笑ってくれた。
「ウケる、面白いねその人」
「土下座しすぎでしょ」
気分が良くなってきて、私はどんどん話しちゃえって気持ちになってた。
「つい最近まで無職でね、暇を持て余して猫マップとか作ったりもしてたんだよ」
「へえ、それはちょっと見てみたいかも」
「野良猫多いもんね、この町」
「それを嬉しそうに彩ちゃんに見せたら、そういう楽しみもいいけどあんたはちゃんと将来とか考えろよ、って釘刺されていじけてた。子どもみたいな顔して三角座りしてた」
「彩ちゃんひどいけど面白い」
「そんな話聞かされるとちょっと会ってみたくなっちゃうわね」
それなら会ってみると言いそうになって、香澄ちゃんがそれはまだ待っててくださいって言ってたのを思い出した。でもまあ、あのときからもうけっこう時間経ってるし大丈夫、だよね。なんかこのまんまだと、うやむやにされちゃいそうだし。
「今日もこれからレッスンなんだけど、一緒に行ってみる?」
二人は顔を見合わせて笑顔でうなずいた。
放課後のレッスンはかとうから歩いて五分もかからない河口公園で行っている。雨の日とか風が強い日とかはかとうでさせてもらうけど、そうでない限りは迷惑にならないように河口公園に行く。
公園と名付いてはいるものの遊具はなくて、海岸沿いの遊歩道や広場に桜がたくさん植わっている、桜の名所。お花見の季節になると大勢の人で賑わって、数々の屋台が出店する。季節の花が植えられている大きな花壇もある、憩いの場的な公園。ベンチも多く屋根付きの東屋まである。
遊歩道は犬の散歩や近所の高校や中学校の部活のランニングに使われていて、人通りはそれなりにある。
今日は屋根付きの東屋が空いていたのでそこでレッスン。私と晴海と陽子の三人で並んで立って、私たちの正面に立った香澄ちゃんに向かって歌っていた。
香澄ちゃんは落ち着いた様子で、うんうんってうなずいて聴いている。香澄ちゃん、私が想像してたよりテンパったりしてなくって、ちゃんとしてる。
これはいったい、どうしたことだろう。もっとあわあわってするかと思っていたのに、想定外だ。
「うん、いいね。三人とも上手だね」
にっこり笑ってぱちぱちと拍手をする香澄ちゃんはなんか、いつもの香澄ちゃんと違っていた。そんな白い歯を見せてにっこり笑う歌のお姉さんみたいな爽やかな笑顔、香澄ちゃんがしているなんておかしい。これはよそ行きの笑顔だ。
「晴海ちゃんは一人だけソプラノなのに、ほかの二人に釣られないでしっかり自分のパートを歌えてたよ」
「ありがとうございます!」
ほめられて晴海は目を輝かせている。
「陽子ちゃんはリズムが正確で音程も完ぺき。良い耳を持ってるね」
「あっ、ありがとう、ございます」
陽子も顔を赤くしてそっぽを向いて、嬉しそうにしている。
「琥珀ちゃんも安定して歌えるようになってきたね。この調子なら本番も大丈夫だよ」
「あっ、うん」
私にも爽やか笑顔を向けてほめてくれる。
私は内心で思わず、その笑顔に向かってツッコんでいた。なんでやねん。なんでそんなにまともやねん。
どういうことこれ、香澄ちゃんの皮を被った偽物とかじゃないよね。人見知りのはずなのに、なんだかちゃんとした大人みたいにふるまっている。ハキハキとしゃべって、目もしっかりと合わせている。
てっきりテンパって的外れなこと言いまくって、ドビーみたいになるのを期待してたのにそつがなくて隙がない。まるで歌のお姉さんみたいに。散歩中の犬にじゃれつかれて困ったり、ランニングしてる運動部のかけ声にビクッとして悪態をついたり、些細なことで動揺するいつもの香澄ちゃんじゃない。
どうして、香澄ちゃん。これじゃただのちゃんとしたお姉さんで、いつもの内気で面白い香澄ちゃんじゃないよ。
「あの、ほめてくれるのは嬉しいんですけど、何かこうしたらもっと上手くなるとかないんですか。琥珀があっという間に上手くなったから、あたしたちにもアドバイスしてください」
「たしかに、わたしたちにもなにか教えてください。歌上手くなりたいでーす」
おっ、いいぞ。これで今度こそ香澄ちゃんが的外れなこと言って、呆れられるに違いない。
「そうだねえ、陽子ちゃんはリズムと音程が完ぺきなぶん、ちょっと一本調子になりがちかな。声にメリハリをつけられるといいと思うよ。サビでもっと声を張れれば言う事なし」
「あっ、それは意識してなかったな。ありがとうございます、試してみます」
「晴海ちゃんは語尾を伸ばしがちになっちゃうくせがあるね。そのせいでちょっと次のフレーズの出だしが遅れて駆け足になってるところがあるから、そこを直せるといいかな」
「はーい、気をつけまーす」
あれ、二人とも満足してる。なんの異論もない的確なアドバイスをされて、キラキラした尊敬の眼差しで香澄ちゃんを見上げている。
いいの、香澄ちゃん。それじゃただのちゃんとした、歌が上手くておっぱいの大きいお姉さんになっちゃうよ。本当にそれでいいの。根暗で悪態ついて面白い、いつもの香澄ちゃんを見せないでいいの。
「ちょっと、聞いてたのとぜんぜん違うじゃない。土下座も三角座りもしないじゃん」
「うん、しっかりしたお姉さんだよね。人見知り感もぜんぜんないし、ダンゴムシ探したりもしないし」
私を小突いて小声で言う陽子と、首をかしげる晴海。
「う、うーん…」
「よし、じゃあ今あたしが言ったことに気をつけながら、もう一回歌ってみよっか」
私が答えあぐねていると、助け舟を出すように香澄ちゃんが言ってくれた。二人ははーいと元気に返事をして、すっかり香澄ちゃんを慕った様子だ。
と言うか今の二人の言葉、香澄ちゃんに聞こえてないよね。そうゆうことを話してたと知られたら、なんかちょっと気まずい。うん、香澄ちゃんにこやかな顔してるし、きっと聞こえてない。
こんなはずじゃなかったんだけどなあという私の思いは海風にさらわれてゆき、もう一回通しで歌っていい時間になったので、二人は満足して帰っていった。
私たちもかとうの夜の営業が始まるので並んで歩き始めた。薄暗くなってきて、外灯にもぽつぽつと明かりが灯り始めた帰り道。
隣を歩く香澄ちゃんは「はあぁー」と肩を落として大きなため息をつくと、さっきまでとは打って変わった不機嫌そうな顔で私を見た。
