神童琥珀とダメな大人たち 第六話

週刊誌騒動から二週間が過ぎて、寒さが増してきた今日このごろ。
日本海からビュービューと吹きすさぶ風は冷たく木々を揺らし、紅や黄色に染まった葉っぱを舞い散らし始めた。長袖にジャンバーを羽織るのが当たり前になり、朝のお布団から抜け出すのに一苦労するこの季節。
神童たる琥珀ちゃんにとって、最大の試練と言えるイベントがやってきてしまった。
「うん、もっと出だしの声をはっきり出そうか。出だしでつまづいちゃうとその後もくぐもって聞こえちゃって、印象も悪いから」
「はーい」
音楽の先生の指示に従って、みんなが大きな口を開けて歌う。
迫りくる合唱祭に向けての練習。うちのクラスで歌う曲は合唱の定番曲、旅立ちの日に。別れのさみしさと未来への希望が詰まった、胸がキュッと締め付けられる素晴らしい名曲。
それはわかる。よーくわかる。なんせ琥珀ちゃん、神童だから。歌詞の理解は先生の次に深いはず。場面を想像してウルってきちゃうくらい、感情移入できる。
でも、でもね。
歌い出してすぐに、んっ、って顔で隣の陽子に横目で見られているのがよーくわかった。
私が音程を外しているから。たどたどしく歌ってるから。見事なまでの音痴だから。
勉強もスポーツもどっちもできる神童の琥珀ちゃん。それでも昔から歌だけは苦手だった。音程もリズムも、歌っているとどっちもよくわかんなくなっちゃって、歌の時間はいつもうつむいて口パクしてごまかしていた。
だけどもう、そんなズルをしたくなかった。みんなが歌ってほしいと願っているのに、もう歌えない人がいるって思うと、私が歌わないのはその人に対する冒とくのように思えて、声を出さずにはいられなかった。
たとえ絶望的なまでの音痴だったとしても。
陽子は眉をひそめながらも、何も言わずに歌っている。こういう音程とリズムだからねって私を引っ張ってくれるように、キャラに合わない大きな声を出して歌っている。陽子は口は悪いけど、性格が悪いわけじゃない。下手だから歌うななんて言わない。
迷惑かけてごめんねって思うし恥ずかしいけど、口パクするのは絶対に嫌で、私はしっかりと歌った。陽子に励まされながら歌った。
拓哉くんの言葉を、思い出しながら。
『琥珀ちゃん、音痴な人なんてなんていないんだよ。みんなそれぞれに自分だけの歌があって、それを心のままに歌えばいいんだ。大事なのは歌いたいって思うハートなんだよ』
もう歌えない拓哉くんの分まで歌うように、私だけの歌をハートを込めて歌う。眠っている拓哉くんに届くように、祈りを込めて。
ねえ、拓哉くん。拓哉くんのハートはまだ、歌いたいって思ってくれているの。

「ここっ!ここだよ琥珀ちゃん!このCメロとサビの間奏の、荒ぶる雷神のようなドラムパート!ああもう、いつ聴いても痺れる最っ高っ!ああっ、彩さまっ…!」
テレビに映し出されたライブ映像を指差し、香澄ちゃんがキラキラとした顔をしている。香澄ちゃんはハートショッカー箱推しではあるものの、その中でも特に彩ちゃんが推しらしい。
本人に会ったら鼻血を吹いて倒れちゃいそうなくらい、ドラムを叩く彩ちゃんに見惚れている。
「うっ、うん、カッコいいよね彩ちゃん」
近くに住んでるよ、と教えてたら卒倒しちゃいそうなのでナイショにしておこう。
「だよね!だよねだよねだよねっ!ああー、もう、くだらないグラビアの撮影でこのライブ行けなかったのは人生一番の不覚だわっ!タイムマシンがほしい!切実に!」
私がこのときのハートショッカーのライブを、最前列の招待席から観ていたのは黙っておいた方が良さそうだ。なんか香澄ちゃん、本気で怒りそうな気がするから。
香澄ちゃんはあれから三日後、うちの近所のアパートに引っ越してきた。単身者向けのワンルーム。いつまで経っても歌わせてくれないし大切にもしてくれない事務所に見切りをつけて、このまま東京にいてもしょうがないからと引っ越してきた。大人しそうに見えてこうと決断してからの行動が早い。
香澄ちゃんの地元はうちの隣の市にあるものの、厳格で昔気質な親からグラビアをすると決めたときに勘当されていた。だから帰る場所もなく、これも何かの縁と思ってうちの近くに引っ越してきた。ママはすごい決断力ねと目を丸くしていた。あの慶次くんですらオレよりロックだぜと驚いていた。
ちなみに仕事はまだない。三森香澄二十七歳、無職。
気まぐれにうちを手伝って、へへっいつもすいやせんと、ねずみ男みたいに笑いながらお弁当の残りをもらったりしている。あとは散歩をしたり本を読んだりサブスクで動画を観たりと、プータローな毎日を送っている。正直ちょっとうらやましい。散歩の成果の猫マップが埋まっていくのが日々の楽しみなのだと、香澄ちゃんはうつろな目で笑っていた。
「とりあえずしばらく休んでもいっかなーって思ってしまいまして。あたしって趣味も友だちもないから、お金だけは貯めてたんだよね。だからしばらく働かなくても困んないし、むしろグラビア崩れでろくな職歴なし、役立つ資格もないあたしを雇ってくれる職場イズどこ、って感じ」
いくら神童と言えども琥珀ちゃんは小学生。職場を紹介できるような力はない。ああ、香澄ちゃんがあと十年くらい遅く生まれてくれていたら、もしくは私があと十年くらい早く生まれていたら力になれたのに。
と世の無常を儚みつつ、私はこうして香澄ちゃんの家に遊びに来てあげるくらいしか、できることがないのであった。
ちなみにお友だちが増えたら嬉しいかと思って、晴海と陽子のお天気コンビを連れて来ようかと言ってみたら青い顔で拒否された。
「あっ、あの、あたし、基本的に人見知りだから。人が三人以上いると、黙っちゃうタイプだから。だからどうかそれは、心の準備ができるまで待ってください」
と直角の見本みたいな角度で頭を下げられた。
香澄ちゃんの部屋にはすでに琥珀ちゃん専用のマグカップとクッションが用意されている。気がついたら買ってくれていた。嬉しいんだけどちょっと圧が強くて、それを分散させる目論見は失敗。
まあ今は楽しいからいいかな、と思いつつランドセルから旅立ちの日にの歌詞カードを取り出した。口は悪いけど歌は上手い陽子に教えてもらったポイントを書き込んだ歌詞カード。
頭の中で上手に歌う自分をイメージしてみたけど上手くいかない。音程とリズムがぐじゃぐじゃーってなって、よくわかんなくなってしまう。なんかのっぺり平坦に、お経みたいになってきてしまう。あれ、ひょっとして琥珀ちゃん、お坊さんに向いているのかもしれない。
困った。思わぬ天職を見つけてしまったけど非常に困った。どうすれば上手く歌えるようになるのかはさっぱりわからない。
「何見てるの琥珀ちゃん?」
身を寄せて横から覗き込んでくる香澄ちゃんのおっぱいに寄りかかった。ぽよんとして気持ちいい。おっぱいってどうしたら大きくなるんだろう。牛乳は関係ないことは確かだ。
「んー、歌詞カード。今度ね合唱祭があるんだけどねえ、琥珀ちゃんちょーっと歌が苦手なんだよねえ」
だいぶ見栄を張ってしまった。
「えっ、そうなの?」
「そうなの。神童琥珀ちゃん唯一の苦手分野なの」
「へー、じゃああたしが教えてあげようか?」
「へっ、香澄ちゃんが?」
「んふふ、琥珀ちゃん。お姉さんが何を目指していたか忘れたかね」
「歌手だっ!」
「そう、これでも二年間歌の専門学校に通って、グラビアやりながらボイストレーナーの先生のところに通ったりしてたからね。教えられることはあると思うよ」
「香澄先生っ!」
ということで香澄ちゃんはプータローから、琥珀ちゃんの歌の先生にクラスチェンジしましたとさ。
それにしても香澄ちゃん、ちゃんと努力はしていたんだ。それを次の仕事に活かせたら素敵なのに、上手くいかないもんだなあ。

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