死にゆく夏 第一話
九月の中ごろにさしかかり、ようやく連日の真夏日が落ち着いてくれて過ごしやすくなってきた。
寒暖差の激しい地元の朝と夕方はもう、半袖では涼しいを通り越して肌寒いとすら感じる。水不足と日照りのせいで生育不足と言われていた稲は、それでも立派に実って黄金色に色づいている。収穫まで秒読みと言ったところ。
もう夏とは言えず、かと言ってまだ秋でもないあわいのような季節。きっと今年も残暑は長引くのだろう。
八月から始まった大学の夏休みは長く、あと二週間ほどもある。バイトをしておらず、サークルにも入っていないぼくは、お盆から帰省した実家でわりと時間を持て余していた。
こうして早朝の散歩なんていう健康的なことを日課にしてしまうくらいに。
下は名前入りの高校時代のジャージの長ズボンにサンダル。上も同じジャージの半袖。見事なまでの地元民スタイル。
山に囲まれた盆地で、広がっているのは田んぼばかり。人家よりも田んぼの面積の方が広い超ド田舎。田んぼ沿いには一車線の道路くらいの幅の川が流れている。子どもの頃は夜になって布団に潜るとその流れる音がやけに大きく聞こえてきて、なんとなく怖かったものだ。
川をまたぐ橋の中程まで来たところで古びた欄干にもたれかかり、滔々と流れる川をボーっと眺めた。橋の上は歩道よりも涼しい感じがして、風が吹くと歩いて火照った身体に心地良い。
まだ日が昇ったばかりの早朝。外に出ている物好きはぼくくらいなもので、人の気配はまるでない。車も農機具も走っていない。気の早い秋の虫が鳴く声だけがひっそりと聞こえてくる。
見渡す限りに広がるのは黄金色の絨毯とまばらな人家に、ぼくが通っていた小学校に保育園。それらをぐるりと背の低い山が囲んでいる。まるで檻のように。
四月から進学のために引っ越した東京はどこに行っても人だらけでうんざりする。
駅前も大学もどこもかしこも縁日のような人だかり。お店も目移りするほどあって、コンビニまでチャリで二十分かけて通っていた生活がバカみたいに思えた。食事だって宅配で気軽に何でも頼めて、自炊をするのがすぐにバカバカしくなった。
最初のうちはそうゆう都会の喧騒が物珍しく、刺激的で、楽しかった。
だけどそのうち、そうゆうのを段々と息苦しく感じるようになっていった。曇り空が覆いかぶさってくるみたいに、毎日どんよりした気持ちにさせられた。
あんなに人がいるのに、ひとりぼっちの自分に。
人というものは自分たちとは異質なものを排除しようとし、自分たちの輪に入れたがらないことは知っていたはずなのに、あっさりと露呈してしまった。
これだけ人が多く、色んなところから多様な価値観が集まってきているのだから、多少のことは個性として受け入れてもらえるんじゃないのか。そんな甘いことを、考えてしまった。
その結果が、高校のころとおんなじ、見世物のように遠巻きにされる毎日だった。
「おはよう、アユムくん」
虫の声よりも軽やかで、ふんわりとした声に我に返った。欄干から手を離して顔を向けると、ぼくと同じジャージを着た人懐っこい感じのする女の子と、食パンみたいな毛色をした犬が並んでいた。
違うのはジャージの組み合わせが長袖に短パンなところだけ。何となく半袖長ズボンよりもお洒落な感じのする組み合わせ。
「おはよう、ミコトちゃん」
ニコリと笑うミコトちゃんの首には一眼レフがぶら下がっている。
お父さんの形見の、ニコンのカメラ。
ミコトちゃんはどこに行くにもたいていこれをぶら下げている。
『このカメラを通じてお父さんもおんなじものを見てくれてる気がするから、なるたけ色んなものを撮っておきたいんだ』
お父さんのお葬式のとき、中学の夏服姿のミコトちゃんは赤く腫れた目で写真を撮りまくって、親戚のおじさんに不謹慎だと怒られていた。しょんぼりするミコトちゃんに声をかけると、そう言って泣き出しそうな顔で微笑んでいた。
「パンもおはよう」
名前を呼ばれるとパンは耳をぴくんと震わせ、短い足をトコトコと動かしてぼくに近寄ってきた。コーギーという犬種はいつも笑ったような顔をしているのがなんともかわいい。
少し屈んで鼻先に手を伸ばすと、手のにおいをふんふんと嗅いでペロッと舐めておしりを向けてきた。撫でてくれの合図。ミコトちゃんの家に来たばかりのころはまだまだ子犬だったのに、すっかり大きくなったものだ。
「パンはなんでおしり撫でられるのが好きなんだろうねえ」
ミコトちゃんが呆れたように肩をすくめている。わしわしとおしりを撫でてやると、短い尻尾がフリフリとおしりごと揺れているのがわかって自然と笑みがこぼれる。
ミコトちゃんは手にしていたリードとビニール袋の紐を腕に通して、カメラを構えてパシャリと撮った。急に撮られるのはいつものことだから気にならない。
「やっぱり犬によって違うのかな。撫でられて気持ちいいところ」
「そうだと思うよ。友だちのところは同じコーギーでも首とか背中とか撫でられるの好きだし」
「へえー、個性があるもんなんだね」
うんとうなずいてミコトちゃんはリードとビニール袋をぼくに渡して、橋の上から川を一枚撮った。そしてさっきまでぼくがそうしていたように欄干にもたれかかる。
「はあー、仕事やだなあ。このままサボってカフェとか行きたい」
川に向かって深い溜め息をこぼしている。ミコトちゃんの行きたい場所は毎日違う。昨日は温泉だったし、一昨日はカラオケだった。
「社会人さんには頭が下がります」
「大学生さんはいいですねえ、お気楽で。ねえ、夏休みいつまでだっけ?」
「月末まで」
確か同じことを一昨日も聞かれた。
「はあー、マジ天国じゃん。残りの日数身体を入れ替えてくれ」
そして一昨日も同じことを言われた。ため息の深さは一昨日以上だけど。週末が近いから疲れも溜まってきているのかもな。
ミコトちゃんは高校を卒業してから市役所に務めている。安心安定の公務員を選んだのはミコトちゃんらしい。でも幼なじみが社会人なんて、しかも市役所の窓口で対応しているなんて、なんだかすごく変な感じがする。同い年のぼくが大学に通っているんだからそりゃそうなんだけど、違和感しかない。
こうして会って話していても昔と全然変わらなくて、毎日働いていると言われても中学生のときにあった職場体験の延長みたいな感じがしてしまう。
「アニメとかドラマじゃないんだから。そんなこと現実に起こるわけがないって」
「言ってみただけですー。はあー、今日も市民様とお局様のサンドバッグになるのかあ。死にたい。川に落ちて死ぬのってしんどいかな」
ミコトちゃんは油断するとすぐ死にたがる。
「どうだろ、流れもそんな早くないし水深もないし、この川だと落ちたとしても助かるんじゃないかな」
「ちっ、自殺もできねえなんてショボい川だ」
川に向かって悪態をついている人を初めて見た。
「現実は世知辛いみたいだね、パン」
リードを腕に通してしゃがみ込んで、パンのおしりを撫でてやった。
パンはご主人様の嘆きにも素知らぬ顔でおしりをフリフリ振っている。コーギーのおしりってほんとに食パンに似ているな。においもなんだか香ばしくていいにおいがして、顔を埋めてみたくなってしまう。そんなところを写真に撮られるのは嫌だからしないけど。
「お局様さー、昨日の帰り際に嬉しそうに言ってたんだあ。これからマッチングアプリで繋がった人と初デートなのお、って」
声だけはお局様の明るい調子を真似たものの、ミコトちゃんの顔は死んでいる。このまま川に飛び込んでしまうのではないかってくらい、悲壮感が漂っている。
「ああ、まだやっていたんだ」
ゴールデンウィークに帰省したときもそんな話を聞かされていた。四ヶ月ほどが経った今でもお局様に進展はなかったらしい。こっちも世知辛い。
「そりゃ続けるしかないっしょ。職場の適齢期でまともな人たちなんてもうみんな結婚してて、出会いなんか期待できないんだし。余ってるのはほんとに一癖も二癖もあるキワモノだけだよ」
人懐っこい顔と雰囲気とは裏腹に、ミコトちゃんはちょっと口が悪い。
「ははっ…」
ぼくも分類すればキワモノに入るのだろうなと思うと苦笑いするしかない。パンは何かを察したのか、ぼくを振り向いて心配そうな顔で見つめてくれた。ありがとうの気持ちを込めて撫でると、口角を上げてニコって笑ったように見えた。犬が笑わない何ていうのは嘘だと思う。
「まあそういうわけで、今日のお局様は確実に不機嫌なんだよ」
「上手くいく、って想定はしないんだ」
「いくわけないない。お局様のマチアプの写真は盛りすぎチョモランマだし、理想が高すぎるから上手くいきっこない」
「チョモランマ…」
チョモランマになる前のお局様の写真を見せてもらったことがあったけど、親方と呼びたくなるような貫禄の持ち主だった。世の中にはそういう趣味の人もいると聞くし、いっそのことそのまま載せたほうが会ってガッカリされるよりチャンスがあるのではと思わなくもない。
「年収八百万超え、身長百八十センチ以上、さらに顔は小栗旬似の男なんて余ってるわけがないでしょう。奇跡的に余っていたとしても、お局様を選ぶ理由がマジで皆無だし」
「さ、さあ、性格で選ぶ人も中にはいるんじゃないかなあ」
「可愛い新人をイビり回してストレス解消しているのは、確かにいい性格してると思うけどね」
皮肉な笑みを浮かべて、川に向かってまたため息を落とした。そのうちミコトちゃんのため息で川がせき止められやしないかと心配になる。
「まあそうゆうわけでさあ、今日は確実に強く当たられてメンタル死んでると思うから、夜お邪魔するね」
「うん、了解。仕事がんばってね」
「うん、ありがと。ほらパン、いつまでもおしり撫でられてないで行くよ」
立ち上がったぼくからリードとビニール袋を受け取り、ミコトちゃんは暗い顔で歩いていった。はぁ死にたい、と呼吸するように呟いている。仕事のある日の朝の平常運転だ。
何度も振り向いてくれるパンに手を振りつつ、今夜はなるべくミコトちゃんの好きそうなものを作っておくことに決めた。
