カノン ― 世界の終わりに、“温度”を知った僕の追奏曲 ―
【あらすじ】
「あと十年で世界は終わる」
夢に現れた謎の老人“大神様”の予言をきっかけに、結婚生活、闘病、心の病を経て、“温度”を失ったアラ還男の人生が動き出す。
彼の前に現れたのは、バスの乗客、カウンセラー、そして夜の街の女性。
まるで追奏する旋律のように、姿を変えながら現れる“カノン”。
男は彼女との出会いを通して、忘れていた恋と生きる喜びを取り戻すが、有償と無償の愛の狭間で自分を見失い、多くのものを傷つけてしまう。
やがて一匹の犬との出会いを経て、男は長年ともに歩んだ妻との絆に向き合うことになる。
追いかけ、重なり、響き合う――
まるで追奏曲のように……
終末世界を背景に描く、有償と無償の愛、喪失と再生の物語。
『前奏曲』
「カノンとは、ひとつの旋律が
時をずらして追いかけ合い、
やがて重なり、響き合う演奏術である」
——『古楽理論拾遺集』より
『第一楽章 失われたもの』
「あと十年で世界は終わる」
「おぬし、どう生きるつもりじゃ?」
僕の視界が揺れた。
指先がたちまち感覚を失っていく。
あと十年だから?
そうじゃない。
あと十年も……だからだ。
何も湧いてこない。
不安も、恐れも、焦燥も。
あるはずの熱が、
どこにもない。
世界の終わりはまだなのに、
僕の内側はもう、
静かに止まっていた。
確かなのは、
ぽっかり空いた穴だけだった。
僕の夢には、ときどき、ある老人が現れる。
胸元まで届く白い髭と、月光を映す頭。
古代の彫像のような佇まいだ。
今夜も夢に出てきた。
老人は「うむ」と言って指を弾く。
すると、重厚な管弦が響きだし、辺りの空気を塗り替えた。
組曲『惑星』だ。
僕はこの老人を「大神様」と呼んでいる。
初めて会ったときから、どこか懐かしい。
大神様は時折、僕の夢に現れては、
心の奥底にある「何か」を掘り起こす。
さて、今日の問いに対して——
「大神様?」
「この世界が終わるとは?」
「文字通りじゃよ。人類は滅び、すべてが消える」
「つまり、僕もですね」
「うむ、こう言うと、大抵の者はうろたえるが……おぬしには『熱』というものを感じぬ」
「……」
その言葉はこれまでの人生で消耗し、欠片も残っていない。
大神様は奇異なものでも見るように僕を見つめていたが、ふと我に帰り、問いの答えを促した。
「考える時間をください」
ここで目覚まし時計が鳴り響いた。
その日、僕はいつも通りの日常を過ごした。
閑職にある僕は、始業ぎりぎりに席に着く。
セピア色の資料を眺めては、時計の針だけ進ませる。
終業のベルと同時に、人目を避けて帰宅する。
家族とのつながりも希薄だ。
年老いた母とは留守電のやり取りのみ。
子どもたちからLINEが来るのは、金の無心の時だけ。
妻とは共働きで、すれ違いの生活だ。
挨拶は原則として一言。
ゴミの日には命令形の伝達が増える。
僕の行いと妻の機嫌次第で、さらに小言がひとつかふたつ。
生きているのが面倒だった。
ほんの最近までは――
その夜、床に就くと、また大神様の気配がした。
「答えを聞かせてもらおうか?」
大神様がわずかに身を乗り出す。
僕はBGMを『誰も寝てはならぬ』に変えてもらった。大神様は不満げだったが……
甘く切ない旋律が胸をつく。
「……恋、オペラのような燃え上がる恋をしたい!」
一瞬、大神様の呼吸が乱れた。
だが、すぐいつもの表情に戻り、続きを促した。
「取るに足らない人生でした」
「五十で癌を患い、心も壊れ、『熱』のすべてを失いました。
もう、いつ人生を終えてもよかった」
ここで、一瞬、BGMに意識が向いた。
「そんなときでした。あの人に出逢ったのは……」
「何の変哲もない朝、通勤中のバスで、ひとりの女性が僕を見つめています。茶色の巻き毛と凛とした顔立ち。
彼女はクリッとした大きな目で僕の顔を覗き込み、
『あなた、大丈夫?』
と心配そうに尋ねます。声はやや掠れ、その笑顔には優しさとも哀しみともつかない色が浮かんでいました。
しかし、続く言葉は、
『会社に行きたくなさそうな顔!』
思わず、吊革を握る手に力が入りました。
でも、なぜか目を逸らすことができません。
塞がっていた心に、ふと風が通ったからでしょうか?
それからというもの、僕の目は無意識に彼女を追いかけていました」
「ある日、こんなことがありました」
雪の朝、
徒歩で出勤すると、
長靴を履いた後ろ姿を見つけて、
僕は駆け出した。
彼女が振り向く。
グレーのストールが、
首元でふわりと揺れた。
『おはよう!』
掠れた声と白い息がパッと弾けた。
『おはよう!』
僕は彼女に追いついた。
息が上がる僕を見て、
『駆け足なんて、案外若いね!』
『ふん、言ってくれる!』
僕らは並んで、
真新しい雪道に足跡を刻んだ。
キュッという感触を味わいながら。
ふいに彼女が手を握る。
手袋越しに伝わってくるもの。
それを逃すまいとする僕。
気がつくと、
僕の会社を通り越していた。
あとで聞くと、
彼女の会社も、とうに過ぎていた。
その日はふたりとも、
ずる休みした。
「この歳で、こんな風になるなんて……」
「でも、この幸せが続いたら、もう思い残すことはありません!」
背後では、テノールがクライマックスを高らかに歌い上げ、僕の感情も最高潮に達していた。
大神様は、最後まで話を聞いたあとに尋ねた。
「たとえ世界が滅びても?」
「ええ、世界が滅びても!」
ここでまた、目覚まし時計が鳴り、僕はゆっくり目を開けた。
隣では、妻がまだ寝息をたてていた。
僕は、目の前の手を握ってみた。
妻は何も気づいていない。
よく見知った小さな爪や指や掌。
白く透き通った肌に、血の通う跡。
薬指のリングも……
あの日、照れくさそうに交換したお揃いの。
昔のままだ。
でも、つかめない。
いつの間にか変わっていた。
「ああ、違う。今日も……」
そう呟き、ため息をついた。
すると、妻の指がわずかに動き、不機嫌そうに
「おはよう……」と言った。
思わず手を離す。
そして、返事もせず、こそこそと逃げるようにベッドを抜け出した。
『第二楽章 目覚めの旋律』
その朝、テレビを点けると、ある大国の選挙結果が報じられ、不穏な影を落としていた。世界経済にも影響があるという。
僕は妻に内緒の外貨預金を思い浮かべ、お茶漬けを流し込みながら眉をひそめた。
しかし、その日はカウンセリングの予約日だったので、テレビを消して出かける準備をした。
家を出る際、掃除の手を止めて妻が尋ねる。
「どこ行くの?」
僕はちょっと面倒くさそうに、
「散歩だよ」
と一言いって、そそくさとドアを閉めた。
古びたエプロンの何色ともつかぬ色だけが、視界に残った。
僕が心療内科に通っていることを、
妻はまだ知らない……
家を出ると、街の空気は乾いていた。
待合室は静まり返り、数人の患者が生気のない顔で待っている。
壁の見慣れたひび割れが、「また来たの?」と言いたげだ。
しばらく待つと、どこか聞き慣れた声で名前を呼ばれた。
不思議に思いながら部屋に入ると、僕は思わず鞄を落とした。
そこには、あのバスの女性が座っていた。
しかも、カウンセラーとして!
事情が飲み込めず、おどおどしている僕を見て、
「どうしました? いつもと違いますね?」
何事もないかのように先生は笑う。
「だ、大丈夫です」
と顔を伏せ、もつれる舌をどうにか動かした。
バスで見た、緩やかにカールする髪と凛とした顔立ち。
カウンセラーとして座る彼女は、以前より大人びて見えたが、瞳の奥の柔らかな光は、あの日と変わらなかった。
本当にあの人?
それとも——
雑談のあと、カウンセリングが始まった。
落ち着きない患者を気遣いながら、心の深層を拾ってくれる先生に、胸を打たれた。
先生は言う。
「ずっと誰かのために正解だけを選んできたんですね」
「でも、それって……すごく苦しかったでしょ?」
「もう、自分を許してあげていいんですよ」
一筋の涙が零れた。
僕はすかさず顔を伏せたが、先生はハンカチを差し出しながら、
「大丈夫。泣きたいときは泣いていいんです」
と、寄り添ってくれた。
気がつくと、恥ずかしげもなく、先生のハンカチを濡らしていた。
静まり返った部屋に僕の声だけが響いた。
こうして、カウンセリングの時間は過ぎ、次回の予約を一か月後に取って終わった。
「また、来月お会いしましょう!」
静かに閉まるドアを見つめながら、しばらく、その場を離れられなかった。
帰宅すると、玄関に脱ぎっぱなしにしたスリッパがきちんと揃えられていた。
妻の顔がよぎったが、ただいまも言わずに部屋に籠もった。
先生と想い人が入れ替わった理由など、どうでもよかった。
来月のカレンダーを見つめた。
その日は、はるか遠く感じられた。
それから数日後の夜、大神様が現れた。
「最近、落ち着きがないのう?」
「ええ、僕は……」
「皆まで言わんで良い」
「では、突然、女性がカウンセラーと入れ替わったのは?」
「ああ、知っとるよ。人の出会いなど、風向きひとつじゃからの」
「おかげで望みが叶ったろうに、何をそんなに悩んでおる?」
僕は間髪おかずに答えた。
「今すぐ先生に会いたい。でも、次の予約が待ち遠しくて……」
「何とかなりませんか?」
「うむ、ならなくもないが……」
大神様が髭をしごいた瞬間、目覚まし時計が鳴った。
起き抜けに妻の寝顔が視界に入る。
僕は妻の指に触れようとしたが、ふと手が止まった。閉じた瞼が、ほんの少し責めてくる。
僕は強張る指を静かに引き寄せ、妻に背を向け目を閉じた。
それからしばらく、先生に会えない夜が積み重なった。
世界の端々では、不穏な影が色濃くなっていた。
群衆と警察隊が衝突している。
真実とも虚構ともつかぬショート動画が何度も流れては、僕に不安と迷いを投げてくる。
その殺伐さは、胸の奥のひび割れとどこか似ていた。
やがて、カウンセリングの日がやってきた。
病院には早く着いた。
うるさい鼓動を鎮めるように、時計の針を眺めながら数人の患者を見送ると、僕の番になった。
「こんにちは!」
自分でも驚くほど張りのある声で部屋に入ると、そこにいたのは見知らぬ先生だった。
しかも、頭が禿げ上がった老人の……
カウンセリング中、僕は壁の画鋲の跡をぼんやり目で追っていた。
時計の動きが、思いのほか鈍い。
カウンセリングの最後に宿題が出された。
「今まで封印していたことをやってみること」
気も漫ろな僕だったが、宿題のことだけは妙に印象に残った。
その晩、数年ぶりに酒を飲んだ。
久しぶりの酒は思いのほか強く、いつしか吸い込まれるように眠りについた。
「おぬし、おぬしよ!」
どこか遠くから大神様の声が聞こえる。
「のう、起きんか!」
僕は大神様の声に気づいて目を覚ました。
すると、大神様は呆れたように、
「封印を解けとは言ったが、飲みすぎじゃ」
「えっ、それは今日の……」
朦朧とした僕に、大神様はピシャリと言った。
「おぬし、まだ気づかんのか?」
「ああ、失礼しました」
「でも、あれは何ですか?」
「僕の先生を返して!」
BGMが猛々しく流れる。
「そう怒るでない」
「おぬしの願いはもう動いておる」
「えっ?」
「月一度と言わず、いつでも会えるのじゃ」
「では、毎日カウンセリングを?」
「そうではない」
「おぬしも覚えておろう、『封印していたことをやってみること』じゃ」
「でも、いったい何から解けばいいのやら?」
途方に暮れていると、
「片っ端から解けばよかろうに!」
背中をドンと押され、目が覚めた。
『第三楽章 幻影のカノン』
翌朝、テレビで、ある大国が隣国を侵略したと大きく報じていた。
崩れた建物、傷ついた民衆、泣き叫ぶ子ども——
画面の向こうから、砂埃と血の匂いが漂ってくるようだ。
遠い異国の崩壊を見つめながら、僕は自分の生活のどこかが崩れはじめた気がした。
「あと十年……」
妻が無言でテレビを消した。
その日から、僕はまっすぐ家に帰れなくなった。
コンビニで酒とつまみを買い、部屋でこそこそと飲む。
気づけば、封じ込めていたものをひとつずつ取り戻していた。
僕の生活は、底の見えない未来に向かって静かに堕ちていった。
ある晩、久しぶりに行きつけの小料理屋に出掛けた。癌の手術以来、数年ぶりだった。
出掛けに妻に声をかけられた。
「あなた、大丈夫なの?」
「平気さ」
僕は、少し雑に答えて家を出た。
心配そうな妻の声が夜の街に漂っていたが、僕の足は止まらなかった。
小料理屋で少し飲んだあと、隣のバーにハシゴした。
店に入ると、内装の変わり様に息を呑んだ。
鏡張りの壁が照明の光を眩しくはね返している。
僕の姿が映る。
顔の皺や骨ばった手の甲に、よく見知った、でもなぜか思い出せない誰かの姿を見た。
やがて、店の奥からママが出てきた。
「あら、今日はとっても珍しい方がいらっしゃること!」
少し皮肉の色がする声を聞きながら、席に案内された。
「大変だったそうね。それに痩せたみたい」
オードブルの皿を出しながら、ママが気遣った。
「そうそう!」
「紹介したいコがいるの! 会うの、初めてよね?」
そう言って、ママはひとりの娘を連れてきた。
その途端、グラスを持つ指が思わず緩んだ。
「せんせ……?」
口から出た言葉が、最後まで形にならない。
真紅のワンピースを纏い佇む女性。
濃いめのルージュと漂う香りが、容赦なく僕を刺激してくる。
「はじめまして、カノンです」
茶色がかった巻き毛が耳元で揺れた。
顔も、声も、間違えようがなかった。
同じだ。
バスで出会った彼女と。
カウンセリングで向き合った先生と。
そんなわけ、ないはずなのに……
目の前のカノンは、僕の慌てようなど気にも留めず、隣に座った。
上目遣いに見つめる大きな瞳も、やはり以前のままだ。
ただ、その瞳には、バスや診察室で見せた柔らかさとは違う、計算された艶があった。
しばらく雑談したあと、
「私、あなたのこと、なんでもわかるよ」
カノンは微笑みながらそう言うと、いつも一緒にいたかのように、僕のことを次々と言い当てた。
僕はポケットのハンカチで顔を拭った。
「あら、素敵なハンカチ!」
「でも、女性物?」
カノンは、何かを知っているような思わせぶりで言った。
そうだ。
このハンカチは先生とのカウンセリングでお借りしたものだ。
「君にあげるよ」
聴き取れないほど小さな声で僕は呟いた。
「えっ、ホントに?」
そう言って、カノンは大事そうにポーチに仕舞った。
カノンとの会話は時計の針を早く進め、気がつけば、閉店までグラスを重ねていた。
結局、僕の動揺をよそに、カノンは初対面らしい戸惑いを一度も見せなかった。
「また来てね!」
見送りに出たカノンは明るくほほ笑んでいた。
だが、店のドアが閉まるとき、狭い隙間から覗いた顔は、もう表情をなくしていた。
その日以降も、度々カノンに会いに行った。
カノンが纏う「何か」の輪郭は、かつて僕が手にしていたものと、残酷にも一致していた。
カノンと手が触れるたび、忘れていた感覚が蘇る。
昔、妻と並んで歩きながら、そっとつないだあの手の……
ある日のこと、店に行くと、カノンはいつもと様子が違った。
「あのね、うちの猫ちゃんが……」
病状の深刻さが、目の下の隈に滲んでいた。
「逝かないで!」
「私には、この子しかいないもの」
「ひとりになるの……怖いよ」
俯向きながら、呟いた。
その悲しい横顔には、守ってあげたいと思わせる危うさが漂っていた。
とはいえ、僕にできたのは、神社でお守りを買ってくることだけだった。
おみくじも引いた。
中身を見ずに持ち帰り、そっと手渡した。
カノンは恐る恐る開けてみる。
「大吉!」
ぱっと明るくなった。
だが、二週間してカノンの猫は虹の橋を渡った。
別のある日、店に行くと、カノンは先客の相手をしていた。
しばらくその様子を見ていたが、次第に不愉快になり、立て続けにグラスを飲み干した。
普段にも増した甘い声。
笑い声に合わせて艶めかしく躍動する肩。
僕は、ピーナッツを細かくつぶしていた。
すると、視線に気づいたのか、カノンは僕を流し目で見つめながら、男の肩にそっと指を這わせた。
その仕草を見た途端、僕は伝票を鷲掴みにして逃げるように席を立った。
その夜は、いつまでも時計の音が気に障った。
ベッドの上でスマホを握りしめる。
だが、画面が光ることは最後までなかった。
その日以降、しばらく店に行かなかった――いや、行けなかった。
僕はカノンを責め、連絡が来るまで会いに行くまいと意地を張った。
LINEを待つ。
でも来ない。
薄暗い部屋に差し込む夕陽に、僕の影が伸びていく。その影は、道化のように揺れていた。
数日後、些細な抵抗はあっけなく終わる。
「嫉妬する男って、ホント面倒」
そう言ってカノンは笑った。
グラスの氷がカランと溶けた。
それから数か月が経った。
バレンタインの日。
カノンの手作りチョコレートを手に、
「これ、本命だよね?」と尋ねると、
カノンは笑いながら、「モチロン!」と胸を張る。
「きっとこの恋、叶うよ!」
嬉しさから、僕は少し気が大きくなっていた。
すると、カノンの表情がにわかに曇り、
「どうかな?」
「幸せな私の姿って想像できないよ」
「そんなの、似合わないから……」
そう言うと、無理に笑って席を立った。
突然の変化に戸惑いながら、僕はハートのチョコを半分に割った。
パキン。
乾いた音が辺りに響いた。
家に帰ると、妻が鼻歌を歌いながら、台所に立っていた。
鍋から湯気がいい香りを運んでくる。
「おかえり!」
声が弾んでいる。
エプロンのポケットから、赤いリボンがはみ出している。
食卓につくと、鍋の中身は僕の好きなシチューだった。
僕は半分に割れたチョコレートを、ポケットの奥にぎゅっと押し込んだ。
それから数日したある夜。
僕は胃に違和感を覚え、吐血した。
救急車で運ばれ、入院生活に逆戻りすることになった。
妻に散々叱られた。
しばらく口を利いてもらえなかったが、病院の面会には毎日来てくれた。
「もう、独りにしないでよ……」
ぼそっと言ったひと言に、僕は妻の顔をまともに見ることができなかった。
だが、その小さなひと言は、妻との間に絡まっていたものをちょっとだけ溶かした気がした。
入院中のある晩、久しぶりに大神様が現れた。
「おぬしも極端よのう」
「封印を解けとは言ったが、ここまでとは!」
大神様は続けた。
「心が強すぎて、無理が祟るといつもこうじゃ!」
僕は居心地が悪くなり、話題を替えた。
「カノンはどうしていますか?」
「店を辞めたようじゃの」
「……」
僕を見送るカノンの姿が脳裏に浮かぶ。
ドアが閉まる瞬間、その笑顔はふっと消え、視線だけが床に落ちる。
それは、演じ疲れた終幕後の役者のようだった。
『椿姫』の前奏曲がさめざめと流れている。
ヒロインとカノンの横顔が重なる。
「まずは体を治すことが先決じゃ!」
そう言うと、大神様は舞台袖に退場した。
『第四楽章 回帰と喪失』
それから一か月が経った。
退院した夜、久しぶりに妻の手料理を食べた。
消化のいい、優しい味付けだった。
食事中、妻のかけたCDが静かに流れる。
「この曲は?」
箸が止まった。
追いかけっこをするようなこの感じ。
昔、妻が娘とよく演奏していたような……
「ゆっくり食べてね」
そのひと言に呼び戻されて、おかゆを一口啜る。
薄い塩味がじんわりと沁みた。
退院後は大人しく養生し、二か月もするとすっかり良くなった。
近頃は、世界的に流通が壊れはじめていた。
街の看板から明かりが消え、ガソリンスタンドは長い車列が伸びている。
店の棚から彩りが消え、人々の眼だけが異様に光っていた。
ある日の午後、妻から買い物を頼まれた。
お菓子に使う食材のようだ。
リストを手に、いつもと違う遠くの店に出かけてみた。
この店も品薄で、店内をウロウロしてみたが、欲しいものは見つからなかった。
僕は空の買い物かごをぶら下げて、来た道をとぼとぼと戻ってきた。
「ただいま、無駄足だったよ」と告げると、
妻は寂しそうな笑顔で、
「ありがとう、気にしないで」と静かに言った。
妻は、下ろしたての
紺のエプロンをしていた。
その鮮やかな色が、
何かを訴えている。
やっと気づいた。
「あのさ……」
言い淀む僕に、
妻は気を取り直して、
「こんなときはね、こう言うの」
「おめでとうって!」
「ケーキもご馳走もないけど……」
「それでも、記念日に違いないわ」
僕の胸がトクンと鳴った。
とはいえ、まだすれ違いがちな妻と僕だった。
そんな隙をつくように、僕の恋心は再燃し抑えきれなくなっていた。
カノンの声を聞きたくて、バーや心療内科など思いつく限り、訪ねてみた。
だが、どこに行っても冷たい目で、門前払いされるだけだった。
彼女が同じ人なのか、別人なのか、もうどうでもよかった。
ただ、足だけが動き続けた。
ある日の夕べ、僕は大神様に呼びかけた。
「今夜、来てください!」
その夜、大神様は望み通り現れた。
姿を見るなり、僕はすがりついた。
「どうかカノンに会わせて!」
「それほど恋しいか?」
「ええ、心から!」
「何をそんなに求めておる?」
「奥方にはないものか?」
僕は、ちょっとためらったあとに言った。
「昔は……あったんです」
「ある日の夕暮れ、妻は携帯で『お外、きれいだよ!』とメールしてきました。
急いで外に出ると、燃えるような夕暮れが広がっていました。
遠く数百キロの距離を超えて、同じ空の下、同じ景色を分かち合ったのです」
「そう! あの頃、妻に書いた手紙があります」
君はいつも、限られた時間の中で
「あれも、これも」と、
たくさん僕にしてくれたね。
(略……楽しい想い出の数行)
その全部が嬉しくて、
ちょっとだけくすぐったくて……
そして、
帰りはいつも終電ギリギリだった。
あの夜、駅のホームで、
涙ぐみながら言ったね。
「私、時間泥棒だったわね……」
僕は否定したけど、
確かにそうかもしれない。
君に会えない日、
君のことで頭がいっぱいで、
気づけば、
時間の大半を君に盗まれている。
君との時間は心地よく、
ひとりの時間は……
(略……インクが滲んだ数行)
……やっぱり、
君は素敵な時間泥棒だよ。
そして僕はその泥棒に、
何度でも……
「あの頃の僕たちには、確かにありました」
「でも、いつからでしょう?」
「ぜんぶ失くしてしまったのは」
「もう……戻らない、でも——」
「偽りでもいいから、もう一度、もう一度だけ!」
「……」
大神様は何も言わなかったが、閉じていた眼を見開いて、懐から一枚の名刺を取り出した。
受け取った僕は目を見張った。
そこには——
『レンタル彼女 カノン』と書かれていた。
目が覚めてからも、僕はじっと名刺を見つめていた。
「こんなもの!」
そう叫んで、名刺を真っ二つに破り捨てた。
だが、慌てて拾い、震える手でつなぎ止めた。
やがて、受話器を手に取った。
強張る指で番号を押す。
コールの音が胸を打つ。
「お電話ありがとうございます。
『レンタル彼女 カノン』でございます」
少し掠れた特徴のある声を、聞き間違えるわけはなかった。
その日、後ろめたさと期待を胸に、僕はカノンに会いに行った。
待ち合わせのカフェは落ち着いた雰囲気で、珈琲の香ばしい香りが漂っていた。
勝手に動き出す僕の膝。
鎮まりそうもない。
しばらく待つと、
「お久しぶりね」
カノンが目の前に現れた。
カジュアルなふわりとしたベージュのニット。
その柔らかさが、聞き慣れた声とともに、張り詰めた僕の心を一瞬で溶かした。
「少し痩せたかい?」
「ええ、誰のせいかしら?」
と、からかうように笑う。
カノンは席につくと、いきなり、
「急にいなくならないで!」
「お酒はもうダメ!」
と手厳しかったが、声の輪郭は優しさで象られていた。
再会後、僕らの時間は、空白を埋めるように重なり合った。
昼下がりのカフェや夕暮れの海辺で、時には夜景のきれいな夜のホテルで。
僕らは心も体も、互いの温度を分け合った。
少なくとも、そのひと時だけは。
カノンはいつも優しかった。
だが、その優しさは、僕を甘やかすためのものではなかった。
そんな時はいつも、
「またお別れしたいなら、お好きなようにどうぞ。ホントは優しくしたいんだよ!」
「でも、大切な人が苦しむのは嫌。いつまでも一緒にいたいから……」
お決まりの小言を言われるたびに、僕は少し苛立って、
「もう分かったよ!」
その声には、隠しきれない棘があった。
「ごめんね。でも、人生を投げ出してほしくないよ!」とカノンは謝った。
僕は返事もせず、カノンに背を向け俯いた。
すると、カノンがぽつりと呟く。
「あなたって、ずるいよ」
「傷ついた顔をすれば、許されると思ってる……」
そう言われると、恥ずかしくなって涙が零れた。
カノンも泣いた。
公園のベンチでふたりして泣いていると、いつしか仲直りのキスをしていた。
こうして甘い時間は過ぎていく。
でも、陶酔の時間は、突然終わりを告げる。
カノンは時計に目をやり、おもむろに伝票を取り出しサインする。
その姿を見ると、胸の奥に小さな針が刺さって痛むのだった。
帰宅後も、袖にカノンの匂いが残っていた。
上着を着たまま、部屋のソファーに倒れ込む。
ただ、彼女の残り香だけが、僕を夢の中につなぎ止めている。
たとえ、この先に破滅しかないとしても。
いつしか微睡んでいると、久しぶりに大神様が現れた。
「おぬし、どう思った?」
険しい顔で、いきなり問いただす大神様に、
「えっ、何がですか?」
と、呆気に取られた声で答えると、
「は?」
大神様はいらだちを隠さなかった。
「気づかんかったのか? あの指に!」
「指? あっ!」
左手の薬指に光るリング。
彼女の誕生日に贈ったものだ。
普段は右手にしていたのに。
なぜか、今日は……左手に輝いていた。
「今更か?」
「おぬしは遊びじゃろうが、あの娘には違ったようじゃの?」
その言葉が、鋭い鏃のように僕の心を射抜いた。
僕は息苦しくなって、堪らず目を覚ました。
鏡を見ると、血の気の引いた顔がこちらを覗いていた。
水を飲もうと居間に行くと、部屋の明かりが漏れている。
妻がぽつりと椅子に座り、
スマホの青白い光が
顔を照らしている。
ちょっとだけ見えた画面に映る、
過ぎし日の家族写真。
母と娘と息子に囲まれて、
満面の笑みを浮かべる妻。
そして、
まだ、目に光が宿っている僕。
気配に気づくと、
妻はスマホを伏せた。
パタン、という乾いた音が
静かな部屋に響いて、
僕と妻の間に境界を作った。
「……起こしちゃった?」
「いや」
それだけ言って、水を飲んだ。
背中越しに、
「ちょっと心細くなっちゃって……」
と、妻が小さく言った。
喉を通る水がひりひりする。
どれほど長い間、
独りにしてきたんだろう?
そう思うと、
僕は、振り返ることが
できなかった。
三年が過ぎた。
気がつくと、街の空気は冷えきっていた。
バスも電車も運休が増え、馴染みの店には休業中の札がかかっていた。
ある日、ホテルで抱き合ったあと、カノンが肩にキスしながら言った。
「ねえ……もう少し長くいられないの?」
「うん、いいよ」
「じゃあ、六十分ね」
微かに冷めた気配が、狭い部屋に漂った。
僕は彼女の髪を撫でながら、でも、胸のどこかが冷えていた。
金額に換算できるこの温もりを、僕はいつまでつなぎ止めていられるだろう?
甘い余韻の奥にある、隠れた苦味がこみ上げてくる。
事を終え、領収書を切るカノン。
思わず目を逸らす。
「あなたにあげるのは時間だけ。本物はこんなところにはないよ」
そんな声が聞こえてきそうだった。
家に帰ると、居間に畳みかけの洗濯物が残っていた。妻の顔が浮かんでくる。その視線は冷ややかだ。
逃げるようにして洗面所で顔を洗うと、足元に落ちた妻のヘアゴムが目についた。
思わず目を背ける。
見てはいけないものを……見てしまったように。
世の中は重苦しい空気に包まれていた。
巷で倒産が取り沙汰される中、僕の会社でも人員整理が囁かれていた。
窓際の僕など、真っ先に解雇されるだろう。
だが、僕を脅かしたのは、失業やローンの返済ではなく、カノンに会えなくなることだけだった。
会えば会うほど、会えなくなる日が近づいてくる――
行き着く先は見えているのに、それでも僕はカノンの元に通い続けた。
やがて、不安は現実になった。
会社が倒産した。
カノンの笑顔と引き換えに、減り続けた貯金は底をつき、カノンをつなぎ止める力は、もう残っていなかった。
最後の逢瀬でカノンは言った。
「もう終わりにしよ」
「人生が壊れちゃう」
「そんなの嫌だ!」
「まだ方法は……」
言いかけた僕に、カノンは首を振る。
「絶対にダメ」
「お金だけの話じゃないの!」
そう言うカノンは、今まで一度も見せたことのない、哀しい瞳をしていた。
「あなたって、いつも自分のことばかり」
「私って、一体、何だったの?」
カノンは視線を落とす。
声が微かに、だが、確かに震えている。
その瞬間、僕は思い知った。
自分が温もりを求めながら、同時に誰かの熱を削っていたことを……
「ホント、バカね」
「歳の差を越えて、本気になっちゃった」
彼女は微笑もうとした。
だが、笑顔は半ばで崩れ落ち、唇が歪んだ。
「本気で愛してくれると信じてた」
「でも、違った……」
「あなたは結局、奥さんを愛してる」
「自分では気づいていないだけ……」
「そのためだけに、私を必要とした」
「……」
心を抉られた。
「私にも……人生があるの」
「たとえ、似合わなくたって……」
「私も幸せになりたい!」
「もう、飼われるだけなんて……イヤ!」
「うっ」
喉から出かかった言葉を飲み込んだ。
「さよなら」
「いままで、ありがと……」
消え入るような声が、最後まで語らずに途切れた。無理に繕った笑顔に涙が溢れた。
カノンは、僕をひとり残して夕暮れの街に消えていく。
振り返りはしなかった。
テーブルには、指輪がひとつ、ぽつんと残されていた。
僕は指輪を握りしめる。
まだ少しだけ、温かかった。
『第五楽章 終末の前で』
カノンと別れて二週間が経った。
その間、僕は部屋に籠って外に出られなかった。
布団に潜り込み、指輪を見つめながらカノンの残像を追い続けていた。
しんと静まり返った部屋で、僕はひとり、天井の梁だけを見つめていた。
あそこに、すべてを終わらせる方法がある。
静かに揺れている光景が頭をよぎった。
世界は遠からず滅びる。
その日まで、ここにいなくても許されるのでは?
そんな気がした。
すると、台所から味噌汁の匂いが漂ってきた。
妻は何も訊かない。
ただ、毎晩、食卓を整えてじっと待っている。
その忍耐だけが、僕をこの世につないでいた。
そんなある夜、大神様が現れた。
「調子がよさそうじゃのう」
魂の抜けた僕を見て、大神様は皮肉を言った。
「……」
「返事もできぬほど重症か?」
「まるでセミの抜け殻じゃ」
「……」
「大方わかってはいたが、まあ、なるようになったわい」
「ただな……おぬしも、あの娘も、必死だったのじゃろう」
「おぬしは失われたものを求め、あの娘は、初めて手にしたものを逃すまいとしておった」
「人なんぞ、そういうものじゃ」
「……」
やがて、大神様は指を鳴らすと、ショパンのワルツが軽やかに流れ出した。
「よーし、よし! いい子じゃのう」
大神様が誰かに話しかけている。
「誰かさんが、ふてくされておるわ」
「失くしたのなら、取り戻せば良いのにのう」
僕はその様子をぼんやり見つめていたが、いつしか深い眠りに落ちていた。
翌朝、騒々しい鳴き声で目を覚ました。
外に出てみると、妻が一匹の子犬を抱きかかえている。
「どうしたの?」と聞くと、
うちの玄関先に捨てられていたそうだ。
生後二か月ほどだろうか?
茶色の柔らかな毛並みが、朝日を受けて金色に輝いている。
そのクリッとした大きな瞳。
僕は不思議な既視感を覚えた――
妻は子犬を抱きながら嬉しそうに、
「この子、カノンっていうのよ!」
――心臓が、大きく跳ねた。
「長い巻き毛が、音符みたいで可愛いの」
「だから、私の大好きな『カノン』!」
「あの、クラシックの?」
「そう!」
僕は息をひとつ――大きく吐いた。
妻からカノンを渡されると、僕は思わずキスしてしまった。
カノンははじめての僕にちょっと驚いたが、すぐに僕の指をぺろりと舐めた。
ふかふかして温かい。
何も疑わない無垢なものに、僕は少し戸惑っていた。
「この子、飼ってもいいでしょ?」
潤んだ瞳でおねだりする妻には抗えず、
「そうだね、そうだよね」
自分でも滑稽に思える返事をしながら、僕は溢れる喜びを隠すのに懸命だった。
こうして、わが家にカノンが仲間入りした。
カノンはよく食べ、よく走り、元気いっぱいだった。
耳を垂らし、大きな瞳で見つめられると、あのカノンを思い出さずにはいられなかった。
どんな日も、何も気にせず、僕の膝に前足を乗せてくる。
見返りを求めない、一途で、無償なもの——
その心地よさに、僕は少しだけ戸惑っていた。
カノンとの散歩は楽しかった。
玄関先でリードを準備していると、嬉しさを爆発させて「早く行こう」と催促する。
散歩道でのはしゃぎよう。
尻尾を追いかけクルクル回る。
気がつくと、屈託なく笑っていた。
あの日以来、久しく忘れていた笑み……
そよ風の中、ボールを夢中で追いかけるカノン。
息が切れ「もう帰ろう」とお願いする僕を、カノンはなかなか許してくれなかった。
へとへとになって家に帰ると、妻はカノンをもみくちゃにしながら、
「あら、カノン! パパとデートしてきたのね」
「私をひとりぼっちにしてこの浮気者!」
少しだけ拗ねた妻の横顔から目が離せなかった。
ある日、妻とカノンがリビングで遊んでいる時、カノンがじゃれついて妻が倒れそうになった。
危ういところで僕はその手を取った。
久しぶりに握る妻の手の感触——
なぜか力が入る。
妻は不思議そうな顔をした。
でも、何も言わない。
離したくない、そう、離したくなかった。
ある晴れた午後、僕と妻とカノンの三人で、少し遠くの公園まで出かけた。
楽しく遊んだあとの帰り道。
交差点で信号待ちをしていると、カノンは落ち着かない様子で、時折、耳をそばだてていた。
「大丈夫?」
妻がリードを握り直す。
カノンの鼻が小さく鳴った。
ふいに大きな爆音が轟く。
近くを、低空で軍用機が飛び去った。
カノンの体が硬直した次の瞬間、突然走り出した。
風が止まり、世界が一拍だけ沈黙した。
「カノンッ!」
反射的に僕は車道へ飛び出した。
「あなた!」
妻の叫び声が聞こえる。
ブレーキの軋む音が、鋭く耳をつんざいた。
ギリギリのところで、車が目の前を掠めた。
それでも、僕は手を伸ばした。
だが、届かない。
指先は、虚しく虚空を泳いだ。
僕も妻も凍りついて、身動きひとつできない。
幸い、カノンは車を避けて走っている。
交差点の向こうに走り去っていくカノンの尻尾だけが、僕の潤んだ瞳に映っていた。
「カノーンッ!」
行き交う車が不協和音となって、僕の声をかき消してしまう。
赤信号がもどかしい。
妻の呼吸が乱れる。
信号が変わり、急いでカノンを追いかけた。
だが、どこにもいない。
すれ違う人に尋ねても、一匹の犬の行方など誰も答えない。
どれだけ叫んでも、世界は何も返してくれなかった。
その日は、暗くなるまでカノンを探して彷徨ったが、その姿はどこにも見つからなかった。
カノンの声がしない我が家は、ひっそりと静まり返っていた。
ベッドに横たわる。
カノンがいないと、その手触りは恐ろしく冷たかった。
夜になると、僕は玄関前に座り込み、暗闇の向こうに耳を澄ませた。
カノンが戻ってくることを信じて。
次の日も、その次の日も、僕は一日中カノンを探しまわった。
でも、手応えはなかった。
手ぶらで家に帰り、妻とふたりで食べる無言の夕食は味気なかった。
三日目の雨の深夜。
雨音に交じって、玄関の扉を引っ掻く小さな物音がした。
思わず裸足で外に飛び出す。
そこには、泥だらけのカノンが立っていた。
尻尾が弱々しく揺れ、目だけが異様に光っている。
「カノン!」
涙で濡れた顔を、カノンの背中に押し付けた。
カノンの匂いがする。
冷え切った体に命を注ぎ込むように、カノンの体を必死に撫でた。
妻が起きてきて、泣きながらカノンを毛布で抱き包む。
カノンは小さく鼻を鳴らした。
「カノン……」
世界が終わりに向けて歩みを進めても、失いかけた優しさは、再び僕のもとに帰ってきてくれた。
こうしてカノンとの日々が過ぎていき、僕たちの時間は豊かに色づいた。
五度の季節が巡るころには、そのすべてが日常になっていた。
ただ、最近——
カノンがふと立ち止まり、僕をじっと見上げることが多くなった。
その瞳の奥に、何かの色が見え隠れする。
「……」
わずかに覚えた違和感を、僕は深く考えようとはしなかった。
我が家の幸せな暮らしとは裏腹に、世界は悪化の一途をたどっていた。
戦争は対岸の火事ではなくなり、数年前から招集令状ひとつで、若者が戦地に送られている。
僕は息子にいつ手紙が届くか、気が気ではなかった。
昼夜を問わず、Jアラートが鳴るようになり、驚くカノンをなだめることが多くなった。
外出規制をいいことに、僕は家に籠って一日中、カノンと過ごした。
何でもない時間。
それがずっと続けばいい、そう思った。
その間、大神様は忘れた頃に現れて、のんびり世間話をするだけだった。
軽やかなモーツァルトが流れている。
崩壊寸前の世界でも、まだ失くしていないものがあるように思えた。
ところが、ある夜、カノンを腕枕しながら眠っていると、久しぶりに大神様が現れた。
大神様の登場に伴い、『レクイエム』がさめざめと流れ出す。
悪いことが起こる――
そう思った。
「……」
大神様はしばらく沈黙していたが、やがて重々しく口を開いた。
「おぬしのカノンは癌に罹っておる」
「余命六か月じゃ」
「えっ……」
それ以上、何も言えなかった。
大神様は、しばらくすると静かに去っていった。
レクイエムの『ラクリモーサ』が、いつまでも耳から離れなかった。
『第六楽章 残されたもの』
翌朝、目を覚ました僕は、しばらく身動きできなかった。
腕の中のカノンは、いつものように尻尾を振って僕の顔を舐めてくる。
――こんなに元気なのに。
僕は、確かめるようにカノンの頭を何度も撫でた。
その朝、半信半疑のまま、カノンを散歩に連れ出した。
すると、途中でカノンが立ち止まった。
息が荒い。
「どうした?」
声をかけると、何事もなかったように、また歩き出した。
だが、そのペースは少しずつ遅くなっていき、遂に止まった。
僕は、カノンを抱き上げ、そのまま動物病院へ駆け込んだ。
検査のあいだ、外で待つ時間がやけに長かった。
やがて、呼ばれて中に入ると、獣医は一瞬、言葉を選ぶように視線を落とした。
――それだけで十分だった。
「……肝臓に腫瘍があり、転移も……」
他の説明は、ほとんど耳に入らなかった。
その夜、妻には何も言えなかった。
次の日から、各地の動物病院に電話をかけ続けた。
でも、受話器の向こうから聞こえる声に、希望は見出せなかった。
半月ほどして、僕は妻に告げた。
「どうして! どうして?……」
妻が僕の胸を叩く。
少しも痛くないのに、何よりも痛かった。
三か月もすると、カノンは食が細って痩せてゆき、動きも鈍くなった。
金色に輝く毛並みはその美しさを失った。
それでも、僕たちを見ると、いつものように健気に舌を出した。
だが、あれほど軽やかに揺れていた尻尾は、もう、垂れ下がったままだった。
そんなカノンを優しく抱き寄せ、頭を撫でてあげることしか、僕にはできなかった。
時は過ぎ、大神様に告げられたあの夜から、六か月が過ぎようとしていた。
カノンはもう、食べることも動くこともできず、一日中、窓辺の暖かいところで眠っていた。
微かな寝息だけが、命の揺らぎを知らせている。
妻との会話は減っていた。
僕たちの視線は、いつもカノンに注がれていた。
妻が唐突に言う。
「あなた、来年のカノンの予防注射には一緒に行きましょうね」
「カノンったら、もういい大人なのに、いまだに注射を怖がって手に負えないんだもの……」
妻は笑っていたが、その瞳は曇っていた。
「そうだね。一緒に行こう」
返事をする僕の声も、自分のものとは思えなかった。
それから数日後、カノンの容態が急変した。
僕と妻はカノンを病院に連れて行った。
獣医の話では、今晩を越せるかどうかという。
「もう……」
「嫌よ!」
「……いいえ、そうね……」
獣医は何も言わず、淡々と準備を始めた。
その間、僕は何も言わずにカノンの頭を撫でていた。
撫でるたび、カノンは力なく僕の指に鼻先を寄せてくる。
そのひやりとした冷たさにハッとする。
僕は指先に力を込める。
そこから伝わる体温が、まだ失われていないことを確かめるように……
カノンとの日々が脳裏をよぎる。
遅れて届く音が先に響いた音をなぞり、少しだけ違う表情で重なり合う。
カノンたちの記憶が追奏する。少しずつその姿を変えながら……
雪の朝の道で。
診察室で。
バーの薄明りの下で。
公園のそよ風に吹かれて。
そして、いま、最後のカノンが横たわっている。
すべてを失う悲しみが、いま細い針の先端に、鋭い輝きとなって集約されている。
カノンを違う世界に送るその先端に。
もう、名前を呼ぼうとしても声が出ない。
ただ、ひたすらその頭を撫でる。
やがて、注射を打たれると、夢うつつの中、カノンはほんのり笑顔を浮かべた。
呼吸はもう、
その音を失っていた。
そっと体を抱き寄せる。
軽い、
恐ろしく、軽かった。
「カノン……」
声にならない声で、
何度も呼んだ。
すると、
カノンがゆっくり目を開け、
虚ろな瞳で僕を見る。
僅かな笑みの色が滲む。
そして、光が消えた。
それが最後。
もう戻らない。
でも、温かさはまだ、
少しだけそこにあった。
僕と妻はカノンの最期を看取り、抱き合った。
失ったことの痛みを分け合うようにして。
家に帰っても、カノンの匂いがそこここに残っていた。
ふとした拍子に名前を呼びそうになり、そのたびに口をつぐむ。
部屋の静けさが、ただ怖かった。
僕はカノンの赤い首輪を見つめていた。
すると妻が来て手に取った。
「この子、この子のおかげで……」
僕は妻の手にそっと触れる。
妻と僕の指先で、カノンが静かに溶けていった。
こうして、僕はまたカノンを失った。
永遠の別れは、今まで以上の苦しさを僕のもとに置いていった。
泣きはらした目が少しだけ治まった、ある日。
僕は裏庭のベンチにひとり座っていた。
夕暮れ空が、
昼とも夜ともつかない色に
染まっていた。
打ち砕かれた僕がいた。
呼吸は早く、浅く、
考える気力はもうない。
景色は艶を失い、
風が弱々しく吹いている。
ふと、足元で
一枚の落ち葉が転がる。
風に吹かれ、
くるりと回り、
裏返り、
止まる。
ただ、それだけ。
僕はじっと見ていた。
意味はない。
理由も、何も、いらなかった。
その瞬間、
呼吸がひとつ、深く入った。
風が頬に触れる。
冷たさも、温かさも、
考えなくてよかった。
ああ。
悲しみはもう、
いらなかった。
僕が少しだけ気力を取り戻したあとも、妻の悲しみは続き、部屋に籠ったままだった。
そんな妻を見かねて、久しぶりに娘が帰ってきてくれた。
はじめは、娘にさえ姿を見せなかった妻だが、ある日、部屋から顔を出した。
娘の驚きと嬉しさの入り混じった顔を見て、僕は目元を拭った。
久しく食欲がなかったせいで、頬はこけ、体の線も細くなっていた妻。
その姿には、儚いガラス細工のような繊細さが宿っていた。
妻を元気づけようと、娘が買い物に誘った日、妻はほんのり化粧をした。
「あっ」
僕は、声を漏らした。
妻から目が離せなかった。
妻が元気になると、僕らは近所の公園までふたりで散歩するようになった。
カノンと過ごした思い出の場所。
夕暮れの公園に子どもの姿はなく、ひっそりと静まり返っている。
僕と妻は並んでベンチに座り、無言のまま公園の中央を見つめていた。
視線の先に、元気に駆け回るカノンの姿が鮮やかに蘇る。
すると、どちらからともなく、そっと手を握り合った。
微かに震えながら、離れない手と手。
もう決して、失くさない。
その頃には、世界は終末へと傾いていた。
大国同士の戦争は激しさを増し、毎日大勢の犠牲が出た。
誰もが核の影に怯えながら、破滅に向けて不可逆な道を進んでいた。
そんな中、僕はひとり暮らしをしていた母を自宅に呼び寄せた。
息子にも声をかけると、遠くの勤務先から戻ってきてくれた。
十年ぶりに家族全員がそろった。
小さな家の中で、母の駄洒落が飛び交い、息子がケラケラ笑う。
妻と娘はニヤニヤしながら、僕の方をチラチラ見ている。何かいたずらを企んでいるようだ。
何もかもが壊れた世界。
でも、家族の笑い声がこだまする「ここ」だけは、まだ壊れていなかった――
そして、世界の軋みが限界を迎えた夜、大神様が久しぶりに現れた。
ベートーヴェンの第九交響曲が厳かに流れている。
低く重い響きが足元から伝わってくる。
やがて、すべての音が解放され、圧倒的な力で爆発した。
「久しぶりじゃのう」
「ええ」
「でも、ずっと見ていてくれたんでしょう?」
「うむ……」
大神様は一瞬、沈黙してから続けた。
「約束の十年になるのう」
「長くもあり短くもありました」
「僕は、目の前に現れた『温もり』にすがりました」
「でも、同時に傷つけました」
「決して傷つけてはいけないものを……」
「大人になったようじゃ」
「……」
「カノンたちとお別れしたあと、僕は、その、妻のもとに……」
「ずいぶん彷徨いましたが、最後は妻の歩幅と揃いました」
「ただ見失っていただけで……」
「昔からいつも『ここ』にあったんですね」
「うむ」
「……あの、大神様」
「最後にひとつだけ」
「もしかして、あなたは……」
そう言いかけた僕を制して、
「皆まで言わんで良い」
そう言うと、大神様は微笑みながら僕の方に歩み寄る。
そして、僕の中にゆっくり溶けていった。
胸の奥から突き上げてくるものが、溢れんばかりにほとばしった。
そして、第九交響曲は最終楽章を迎え、「歓喜」がいつまでも僕の心に清々しく響いていた。
翌朝、世界のどこかで、僕たちの知らない『何か』が押された時、僕らは家族全員で朝食を囲んでいた。
妻がCDをかける。
ああ、
昔、妻が娘とよく演奏していた
あの曲だ。
パッヘルベルの。
追いかけるように、
重なるように。
僕も少し遅れて口ずさむ。
忘れていた旋律が、
胸の奥で重なった。
食卓には、母と妻が作った味噌汁の湯気が立ち込め、息子が入れた渋くてぬるいお茶を、娘が笑いながら茶化していた。
食事をする妻の顔を、僕はじっと見つめていた。
妻は視線に気づくと、ちょっとはにかんで、にっこり微笑み返した。
その眼差しがやけに眩しい。
間もなくして、不気味な閃光が部屋の奥まで差し込んだ。
そして、光が消えると同時に、抗いようのない冷たさが襲ってきた。
僕たちは体を寄せ合った。
いま、世界が終わる。
思っていたよりも静かだ。
妻の手を握りしめた。
「もう最期なのに……」
「どうしてこんなに温かいの?」
指先に力が籠る。
「いつまでも!」
妻も固く握り返す。
「ええ、いつまでも……」
終わりゆく世界の中で、
僕はようやく
取り戻した――
その直後、理解を超えた奔流によって、僕たちは周囲の景色もろとも、白い闇に溶けていった。
「ク~ン、クン、クン!」
「……」
――白い光のなか、
聞こえてくる懐かしい声。
「カノン?」
頬に感じるくすぐったさに、
僕は目を覚ます。
隣で眠る妻の息遣い。
枕が濡れている。
ここはどこなのか。
あの世?
夢?
それとも……
カノンが鳴きながら、
僕の頬を舐めている。
妻もカノンに起こされて、
あくびをしながら目を覚ます。
カノンは、
妻の耳元に鼻先をつけ、
僕の方をチラチラと見る。
その視線に促され、
僕を見ながら妻が微笑む。
「おかしな人ね。悪い夢?」
僕はそっと目元を隠しながら、
無言で妻の手を握る。
握り返す妻の温度が心地いい。
その横で、
カノンが僕らを交互に覗いている。
朝のまばゆい光に照らされて、
金色に輝く毛並みが波打つ。
見つめ合う僕らの間に、
カノンが無理やり割り込んでくる。
もみくちゃになるが、
つないだその手は離れない。
「おかえり……」
「……ただいま」
カノンの尻尾が、
いつまでも静かに揺れている……
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