銅鐸文化の始まりから終焉まで(紀元前4世紀頃〜3世紀初頭)
はじめに
銅鐸は歴史的にみると、朝鮮半島から原型となる「鐸(鐘)」が伝わり、日本の中で独自発展したものである。しかし、古墳の副葬品としては一切発見されていないし、記紀には記されていない「謎」の祭具だ。
日本の権力者にとって、外来の「銅鐸」の文化は異質なものに感じたのであろう。よって、一旦、受け入れられたこの銅鐸の文化は約600年後に破壊、遺棄されるのである。
もう一つ、銅鐸の原型が朝鮮半島より伝わった「鐸」であったとしても、銅鐸を使用したのが、朝鮮半島出身の弥生人のみであると限定するには相当の無理がある。
第1章 音の呪術文化から光の祭祀文化へ
古代人D-CTS6609(D1a2a1c)にとって「銅鐸」による「音の共振」は呪術的に、神秘的に思えたのであろう。しかし、その音による呪術の文化は、D-CTS8093(D1a2a1a2b1a1a)を持つヤマト王権によって「鏡」による「光の反射」の神秘的にとって代わられたことになる。
銅鐸文化の担い手は、饒速日(ニギハヤヒ)の子孫・物部氏か
銅鐸は、日本列島にある時期突如として現れ、そして唐突に消える。記紀の日本神話にも登場せず、神社の御神宝として祀られることもなく、古墳の副葬品としても登場することは無い。銅鐸文化(銅鐸文明圏)こそ、神武東征以前の近畿地方の支配者の文化ではないか。
消去法で考えていくと、神武東征以前に大和の支配者であった饒速日命の子孫である物部氏が、元々のこの銅鐸文化の担い手。そもそも「饒速日(ニギハヤヒ)」と言う神名の自体も、豊穣を司る太陽神の性質があったのではないだろうか。
1. 銅鐸文化の始まり(紀元前4世紀頃〜)
銅鐸の歴史は、弥生時代前期の後半から始まる。
起源(紀元前400年〜前300年頃): 朝鮮半島南部から伝わった小さな「小銅鐸(家畜の鈴のようなもの)」が原型である。
日本独自の進化(紀元前200年頃〜): 弥生時代中期に入ると、近畿地方を中心に急速に大型化し、私たちが知る「釣手(つりて)」のある独特の形状が確立される。
物部氏の祖(饒速日集団)の定着: この時期、D-CTS6609(D1a2a1c)」の版図と見事に重なる。
高度な文明: 彼らは天から降臨したとされる「天羽羽矢(あめのははや)」などの神宝を持っていました。これは、D-CTS8093(D1a2a1a2b1a1a)系統(神武勢力)が来る前に、すでに近畿で高度な製鉄・精錬技術を持つ文化が花開いていたことを示唆します。
1. 「帰順」という名の文化抹消
記紀では、ニギハヤヒは神武天皇に「同じ天孫である」として自ら従いますが、これは実態としては「政治的・宗教的な降伏と併呑」である。
神器(レガリア)の交代: 神武天皇(D-CTS8093系統)側が持ち込んだのは「鏡・剣・玉」であった。一方で、ニギハヤヒ(銅鐸勢力)が持っていた独自の祭具や信仰は、ヤマト王権の正統性を確立する過程で「不要なもの」として排除された。後世の我々の目から見れば、突然の終焉に見えるかもしれない。しかし、これは神武即位とともに突然行われたのではなく、徐々に段階的に行われた。最終的に、銅鐸文化が消滅するのは崇神天皇の時代までかかっているとみるべきだろう。
銅鐸の埋設: この政治的交代の際、旧勢力のアイデンティティである銅鐸は、新体制(ヤマト)への忠誠を示す儀式として、あるいは新勢力による「古い神の封印」として、組織的に地中へと埋められた(埋納された)と考えるのが自然である。あるいは鋳つぶして、剣や槍にする方法もあったかもしれないが、あえてそうせずそのまま遺棄したのは、その中に霊性が宿っており、再利用することへの心理的抵抗があったからに他ならない。
3. なぜ記紀に書かれなかったのか
大和王権の記紀において、旧支配者のレガリアをことさら取り上げる必要はない。
D-CTS8093系統による再定義: 神武東征を「正統な王による列島平定」として描くためには、それ以前に存在した「銅鐸という黄金色に輝く文明」が600年も続いたことは、あえて語りたくはない不都合な真実でした。
徹底的な無視: 記録から消すことで、銅鐸文化は忘却され「なかったこと」にされた。これが、神社の御神宝にもならず、歴史書からも消えた最大の理由であろう。
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