「行ってきます」が、明日も聞けますように。小さな子どもの交通事故について、親として思うこと。
昨日、集団登校中の小学1年生の女の子が、車にはねられて亡くなったというニュースを読みました。
横断歩道を渡っている途中で転倒し、車にはねられたとみられているそうです。
6歳。
小学1年生。
集団登校中。
横断歩道。
この言葉が並んでいるだけで、非常に胸が痛みました。
朝、家を出るときは、いつも通りだったと思います。
「行ってきます」
「気をつけてね」
そんな会話があったのかもしれません。
ランドセルを背負って、学校へ向かっただけ。
ただ、いつもの朝だったはずです。
それなのに、その子は帰ってこなかった。
親の立場で考えると、言葉が出ません。
集団登校でも、絶対に安全ではない
集団登校と聞くと、安心感があります。
一人で歩くよりは安全。
上級生もいる。
みんなでまとまって歩く。
地域の人の目もある。
もちろん、集団登校には意味があると思います。
でも、それでも絶対ではありません。
列の最後尾。
信号のない交差点。
横断歩道。
一瞬の転倒。
一瞬の見落とし。
その小さな重なりで、取り返しのつかないことが起きてしまう。
親は、集団登校だから大丈夫だと思いたい。
でも、集団であっても、子ども一人ひとりの命が自動的に守られるわけではない。
歩くのが少し遅い子。
転びやすい子。
まだ入学したばかりの1年生。
そういう子が、列の中でどこにいるのか。
大人が考えることは、まだたくさんあるのだと思います。
「運転手が悪い」だけで終わらせたくない
もちろん、車を運転する側は最大限注意しなければいけません。
横断歩道を渡っている子どもがいるなら、止まる。
通学時間帯なら、子どもがいる前提で走る。
信号のない交差点なら、なおさら慎重に見る。
これは本当に大事です。
ただ、こういう事故が起きたときに、
「運転手が悪い」
だけで終わらせてしまうのも違う気がします。
もちろん責任の話はあります。
でも、親として知りたいのは、誰が悪かったかだけではありません。
どうしたら防げたのか。
次に同じことを起こさないために、何ができるのか。
そこまで考えたい。
横断歩道の場所。
信号の有無。
車の速度。
通学路の見通し。
見守りの人数。
列の並び方。
1年生の位置。
見直せることは、きっとあるはずです。
子どもに「気をつけて」と言うだけでは足りない。
運転する人の注意だけに頼るのも足りない。
道路のつくり、地域の見守り、学校のルール、親の意識。
全部で子どもを守る必要があるのだと思います。
自分の子にも起こり得ると思ってしまう
こういうニュースを見ると、どうしても自分の子どもと重ねてしまいます。
もし、自分の子だったら。
もし、朝送り出したあとだったら。
もし、学校から電話がかかってきたら。
考えたくないのに、考えてしまいます。
ランドセルを背負った後ろ姿。
小さな足。
まだ頼りない歩き方。
「行ってきます」と言う声。
それが突然、戻ってこなくなる。
そんなこと、想像するだけでつらいです。
でも親は毎日、子どもを社会に送り出しています。
ずっと手をつないでいることはできません。
完全に安全な場所だけを歩かせることもできません。
成長すればするほど、子どもは親の手の届かない場所へ行きます。
だからこそ、怖い。
子どもを信じたい。
でも、社会も信じられるものであってほしい。
そう思います。
「行ってきます」が、ちゃんと戻ってくるように
朝、子どもを送り出す。
「行ってきます」と言う。
「行ってらっしゃい」と返す。
夕方、帰ってくる。
「ただいま」と言う。
その当たり前が、どれほど大切なことか。
こういうニュースを見るたびに思い知らされます。
子どもが学校へ行く。
横断歩道を渡る。
集団登校する。
それだけのことが、命がけであってほしくない。
子どもには、これからも「気をつけてね」と言います。
でも本当は、子どもにだけ気をつけさせるのではなく、大人の社会の方がもっと気をつけなければいけない。
車を運転する大人。
見守る大人。
地域に暮らす大人。
子どもの通学路を、子ども任せにしてはいけない。
亡くなった女の子のことを思うと、本当に胸が痛みます。
ご家族の悲しみを思うと、簡単な言葉は出てきません。
危ない場所はないか。
子どもに何を伝えるべきか。
親として、大人として何ができるのか。
「気をつけてね」と言うだけで終わらせないようにしたい。
子どもたちの「行ってきます」が、当たり前に「ただいま」へ戻ってくるように。
それは、親だけではなく、大人全員で考えて守らなければいけないことなのだと思います。
