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「見て見て」がうれしい日と、しんどい日がある

子どもは、一日に何度も「見て!」と言う

「パパ、見て!」

子どもは一日に何度も、そう言ってきます。

描いた絵を見てほしい。
積み上げたブロックを見てほしい。
変な顔を見てほしい。
ジャンプしたところを見てほしい。
くるっと回ったところを見てほしい。

かわいいです。
本当にかわいいです。

こんなふうに「見て」と言ってくれる時間なんて、きっと長くは続かないのだと思います。

あと何年かしたら、こちらが「見せて」と言っても、見せてくれなくなるのかもしれません。

そう思うと、ひとつひとつ大切にしたい気持ちはあります。

かわいい。でも、しんどい日もある

でも、正直に言うと。

しんどい日もあります。

仕事で疲れている日。
家事がたまっている日。
頭の中で明日の予定を考えている日。
夕方から夜にかけて、やることが一気に押し寄せてくる日。

そんなときに、

「パパ、見て!」

「ねえ、見て!」

「ちゃんと見て!」

と言われると、心の中で苦しくなることがあります。

見てあげたい。
でも、今は見られない。
見ているつもりなのに、子どもからすると足りない。

その瞬間、つい言ってしまいます。

「ちょっと待って」
「あとでね」
「今忙しい」
「さっきも見たよ」

言ったあとで、少し後悔します。

そんなに冷たく言わなくてもよかったのに。
たった数秒、見てあげればよかったのに。

でも、その数秒すら出せない日があるのです。

子育ての大変さは、大きなことだけじゃない

子育ての大変さは、発熱や夜泣きやイヤイヤのような、分かりやすいものだけではない気がします。

毎日の小さな「見て」に、何度も応えること。
同じ話を何度も聞くこと。
同じ遊びに何度も反応すること。
「すごいね」と言いながら、ちゃんと心を向けること。

これが、思っている以上に体力を使います。

子どもからすると、たぶん悪気はありません。

むしろ、パパのことが好きだから言ってくるのだと思います。

好きな人に見てほしい。
一番近くにいる人に気づいてほしい。
できたことを共有したい。
自分のうれしさを、一緒に喜んでほしい。

だからこそ、こちらも無視したいわけではありません。
見たいのです。

でも、見られない日がある。

ここが、親として苦しいところです。

「見て」は、作品の評価ではないのかもしれない

最近、子どもの「見て」は、ただの報告ではないのかもしれないと思うようになりました。

絵を見てほしいのではなく、絵を描いた自分を見てほしい。
ジャンプを見てほしいのではなく、ジャンプできた自分を見てほしい。
ブロックを見てほしいのではなく、頑張って作った自分を見てほしい。

そう考えると、子どもの「見て」は、作品の評価ではなく、存在確認なのかもしれません。

「上手だね」と言ってほしいだけではなく、
「ちゃんと見ているよ」と感じたい。

子どもは、親の視線を借りて、自分の存在を確かめているのかもしれません。

見てもらえた。
笑ってもらえた。
反応してもらえた。

その積み重ねで、少しずつ安心していくのだと思います。

でも、親にも限界がある

そう思うと、できるだけ見てあげたいです。

でも、親にも限界があります。

いつでも笑顔で、
いつでも手を止めて、
いつでも目を見て、
いつでも「すごいね」と言えるわけではありません。

子どもを大切にしたい気持ちと、今は一人にしてほしい気持ち。
ちゃんと向き合いたい気持ちと、もう何も考えたくない気持ち。
かわいいと思う気持ちと、しんどいと思う気持ち。

その両方が、同じ自分の中にあります。

「見て見て」がしんどいと思うからといって、子どもを愛していないわけではありません。

「あとでね」と言ってしまうからといって、親失格なわけでもありません。

ただ、疲れているだけの日もあります。
ただ、余裕がないだけの日もあります。

親だって、人間です。

一日中、誰かの気持ちを受け止め続けるのは、簡単なことではありません。

寝顔を見て、反省する夜がある

子どもが寝たあとで、ふと思い出します。

今日、あの絵をちゃんと見てあげたかな。
あのジャンプに、ちゃんと反応したかな。
「今忙しい」と言ったとき、どんな顔をしていたかな。

夕方は余裕がなかったのに、夜になると急に申し訳なくなる。

子育てには、こういう夜が何度もあります。

寝顔を見ながら、
「ごめんね」
と思う夜。

でも、朝になるとまたバタバタして、また同じように余裕をなくしてしまう。

その繰り返しです。

全部じゃなくて、一回ちゃんと見られたらいい

だから最近は、「全部ちゃんと見よう」と思いすぎないようにしています。全部に全力で応えようとすると、続かないからです。

その代わり、どこかで一回だけでも、ちゃんと目を向ける時間を作れたらいいのかなと思います。

たとえば、何かをしている途中に「見て」と言われたら、

「今これやってるから、あとで絶対見るね」

と伝える。

そして本当にあとで見る。

スマホを見ながらではなく、少し手を止めて見る。
一瞬でも、目を合わせて見る。
「これを見てほしかったんだね」と言葉にする。

長い時間でなくてもいいのだと思います。

子どもがほしいのは、完璧な反応ではなく、
「ちゃんと届いた」という感覚なのかもしれません。

親だって、本当は見てほしい

そして、こうも思います。

子どもが「見て」と言うように、親も心のどこかで思っているのかもしれません。

誰か、見て。
今日もちゃんと頑張っているよ。
うまくできない日もあるけど、投げ出さずにここにいるよ。

怒らずに済んだ場面があったこと。
疲れていても向き合おうとしたこと。
あとで反省して、また明日はちゃんとしようと思っていること。

そういう親の小さな頑張りも、本当は誰かに見てほしいのだと思います。

子どもの「見て見て」がしんどい日。

それは、子どもへの愛情が足りない日ではなく、
自分の心にも「見てほしい」がたまっている日なのかもしれません。

だから、そんな日は少しだけ自分にも優しくしたいです。

ちゃんと見られなかった日があってもいい。
笑顔で返せなかった日があってもいい。
あとで「さっきの見せて」と言えたら、それでいい。

全部は無理でも、今日ひとつだけ

「パパ、見て!」

その声に、いつも完璧には応えられません。

でも、できる日はちゃんと見たい。

その子が作ったものだけではなく、
その子のうれしそうな顔を。
得意げな表情を。

全部は無理でも、今日ひとつだけ。

そう思うくらいが、親にも子どもにも、ちょうどいいのかもしれません。



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