子どもの将来を心配するほど、今日の娘を見失いそうになる
娘がまだ小さいのに、私はときどき、ずいぶん先のことまで考えています。
小学校に入ったらどうなるだろう。
友だちはできるだろうか。
勉強はついていけるだろうか。
習い事は何が向いているだろう。
将来、自分でちゃんと生きていけるだろうか。
まだ目の前では、靴下を左右逆に履いている。
ひらがなを一文字ずつ書いて、消して、また書いている。
寝る前になると、「明日も保育園?」と聞いてくる。
そんな娘を見ながら、私は何年も先の娘のことを考えている。
親になるまで、子どもの将来を心配するというのは、もっと大きな出来事が起きたときにするものだと思っていました。
進路を選ぶとき。
受験が近づいたとき。
何かに悩んでいるとき。
でも実際は、もっと早くから始まっていました。
毎日の中に、将来への心配は入り込んでいます。
「今のうちに、ちゃんとできるようにしておいた方がいいかな」
「このままで大丈夫かな」
「甘やかしすぎていないかな」
「もっと経験させた方がいいのかな」
子どものために考えているつもりです。
でも、ときどき分からなくなります。
これは本当に娘のために考えているのか。
それとも、親である自分が安心したいだけなのか。
「この子の将来のために」と言いながら
朝、娘がなかなか着替えません。
服を出しても、別の遊びを始める。
靴下を履こうとして、途中で何かを思い出したように話し始める。
時間がない私は、つい言います。
「早くして」
「もう小学生になるんやから」
「自分でできるようにならなあかんで」
その言葉の裏には、将来への不安があります。
今できないことが、そのまま先でもできなかったらどうしよう。
今の甘えが、いつか困ることにつながったらどうしよう。
でも、娘はまだ今日を生きています。
朝の支度が遅いことも。
靴下を履く途中で話が始まることも。
服を着るより、昨日の続きを思い出すことも。
娘にとっては、ただ今日の朝があるだけです。
将来のためにと思っていたのに、私は今日の娘に「早く大きくなって」と言っていたのかもしれません。
親は、まだ起きていないことで焦る
子どもは、今できることを増やしていきます。
でも親は、その先を見ています。
友だちとうまく話せなければ、学校で困るかもしれない。
ひらがなが苦手なら、勉強が嫌いになるかもしれない。
人前で恥ずかしがるなら、将来苦労するかもしれない。
まだ起きていないことを、親は先に心配します。
もちろん、考えること自体が悪いわけではありません。
子どもが困らないようにしたい。
できるだけ選択肢を残してあげたい。
安心して大きくなってほしい。
その気持ちは、親として自然なものだと思います。
ただ、将来を心配するあまり、今の娘を「まだ足りない存在」として見てしまうことがあります。
今できていることより、これから必要になりそうなことばかりが目につく。
今の娘を見ているはずなのに、頭の中では、未来の娘と比べている。
それは、少し苦しい見方だと思いました。
子どもの未来は、親の予定表どおりには進まない
親は、子どもの未来をなるべく良いものにしたいと思います。
できれば困らずに。
できれば傷つかずに。
できれば遠回りせずに。
でも、自分の人生を思い返すと、予定どおりだったことばかりではありません。
子どもの頃に思っていた大人には、なっていません。
遠回りしたこと。
失敗したこと。
向いていないと思ったこと。
やめたこと。
それでも、その途中でしか得られなかったものもあります。
子どもの将来を心配するとき、私は自分の人生の不安定さを忘れてしまいます。
まっすぐ進めなかったからこそ見えたことが、自分にもあったはずなのに。
娘には、できるだけ失敗してほしくないと思ってしまう。
でも、失敗のない人生を望むことは、娘の人生を狭くしてしまうことにもつながるのかもしれません。
今の娘は、将来の準備だけをしているわけじゃない
娘が積み木を並べている。
同じ色だけ集めて、何度も並べ直している。
大人から見れば、ただ遊んでいるだけに見えます。
でも娘にとっては、その時間が今日の全部なのかもしれません。
何かを覚えるためでもない。
将来役に立つためでもない。
上手になるためでもない。
ただ、今やりたいからやっている。
子どもの時間は、未来のための準備だけではありません。
今日笑ったこと。
今日失敗したこと。
今日誰かと遊んだこと。
今日できなかったこと。
その全部が、今の娘の人生です。
親はつい、「この経験が将来どう役に立つか」を考えてしまう。
でも、役に立たなくてもいい時間がある。
何にもならないように見える時間が、子どもにとっては大事な時間かもしれません。
将来のことを考える親でいたい。でも、今を急かす親にはなりたくない
子どもの将来を考えない親ではいられません。
たぶんこれからも、私は心配します。
小学校のこと。
友だちのこと。
習い事のこと。
進路のこと。
娘が大きくなるほど、不安は形を変えて増えていくのだと思います。
でも、そのたびに思い出したいです。
娘の将来を考えることと、今日の娘を急かすことは、同じではない。
未来のために必要なのは、今の娘を不安にさせることではない。
「まだできないね」と言うことではなく、
「今はこうなんだね」と見ていることなのかもしれません。
将来のために何かを教える日もあると思います。
背中を押す日も。
止める日も。
一緒に考える日も。
でもその前に、今日の娘をちゃんと見ていたいなと思います。
まだできないこと。
まだ知らないこと。
まだ上手に言えないこと。
それらを、将来への不安で急いで埋めないようにしたい。
今日の娘を見失わないために
娘は、今日も明日のことをあまり考えていません。
明日の持ち物より、今日見つけた石の方が大事です。
将来の進路より、明日の給食の方が楽しみです。
その姿を見ると、少し羨ましくなります。
大人は先のことを考えすぎて、今にいることが難しくなります。
親になると、さらに子どもの先まで考えてしまう。
でも、子どもはまだ今日を生きています。
だから私は、将来のことを考えてしまったときほど、娘の今を見たいと思います。
今どんな顔をしているか。
今何に夢中か。
今どんなことで笑っているか。
今、何を話したがっているか。
子どもの未来を守りたいと思うほど、私は今日の娘を見失いそうになります。
だからこそ、ときどき立ち止まりたいです。
まだ見えていない未来より、目の前で靴下を左右逆に履いている娘を。
まだ起きていない心配より、今日あったことを一生懸命話している娘を。
将来のために急かすのではなく、今日をちゃんと見ている親でいたいなと思います。
