子どもに「いのちは大切だよ」と100回言うより、効いた瞬間の話
子どもに、いのちの重さをどう伝えたらいいのだろう。
ときどき考えます。
「いのちは大切だよ」
「生き物には優しくしようね」
「ごはんを残したらあかんよ」
親として、伝えたいことはたくさんあります。
でも、言葉にしても、娘の中にどれくらい残っているのかは分かりません。
こちらが真剣な顔をして話していても、娘は別のことを見ていたりします。
何度も言い聞かせるより、もっと別の伝わり方があるのかもしれない。
そう思った出来事がありました。
石の下にいた、ダンゴムシ
公園で娘が、ダンゴムシを見つけました。
植え込みのそばにある石を持ち上げると、何匹かが慌てたように動き出しました。
「見て、丸くなった」
娘はしゃがみ込んで、一匹をそっと手のひらに乗せました。
ダンゴムシは丸くなったまま、しばらく動きません。
娘は顔を近づけて、じっと見ていました。
「これ、おうちに連れて帰っていい?」
私はすぐには答えられませんでした。
命は大切だよ、と言うのは簡単です。
でも娘は、乱暴にしたいわけではありませんでした。
ただ、もっと見ていたい。
もっと知りたい。
かわいいと思った。
その気持ちが、手のひらに出ていました。
ダンゴムシにも、おうちがあるのかな
しばらくして娘が言いました。
「これ、ごはん食べるんかな」
「お母さんいるんかな」
私は少し驚きました。
娘はダンゴムシを、ただの虫として見ていなかったのだと思います。
自分と同じようにごはんを食べるかもしれない。
帰る場所があるかもしれない。
待っている誰かがいるかもしれない。
私は、
「石の下に、おうちがあるんかな」
と聞きました。
娘は少し考えてから、
「あるかも」
と言いました。
命の重さを伝えるというのは、難しい言葉を教えることではないのかもしれません。
自分以外のものにも、帰る場所や都合があるかもしれない。
そんなふうに想像する時間を、一緒に持つことなのかもしれません。
「かわいそう」の先を、一緒に考える
子どもは、ときどき道に落ちている虫や、動かない鳥を見つけます。
「かわいそう」
そう言うことがあります。
親はつい、
「そうやね」
と返して終わらせてしまいます。
でも、「かわいそう」のあとに、子どもはどうすればいいのか分かりません。
触っていいのか。
土に戻してあげるのか。
そっとしておくのか。
正しい答えがいつもあるわけではありません。
だから私は最近、
「どうしようか」
と一緒に考えるようにしています。
命を大切にすることは、毎回正解を出すことではない。
小さな命を目の前にして、少し立ち止まること。
自分より小さな存在にも、気持ちや居場所があるかもしれないと想像すること。
その時間そのものが、大切なのだと思います。
「いただきます」の中にあるもの
夕食のとき、娘が聞いてきたことがあります。
「これ、何のお肉?」
「鶏肉やで」
「鶏さん?」
そう聞かれたとき、少し言葉に詰まりました。
普段は何気なく言っている「いただきます」。
でも、その中には、命をいただくという意味があります。
「鶏さんの命をもらって、ごはんにしてるんやで」
そう伝えると、娘はしばらくお皿を見ていました。
「かわいそうやな」
と言いました。
私は、
「そう思うよな」
と答えました。
「だから、いただきますって言うんやと思う」
娘はその日、いつもよりゆっくり食べていました。
残さず食べることだけが、命を大切にすることではないと思います。
でも、目の前のごはんが、最初から当たり前にそこにあったわけではないと知ること。
それも、小さな入り口になるのかもしれません。
熱を出した夜に思ったこと
娘が高い熱を出した夜があります。
いつもはよくしゃべる娘が、ほとんど話さずに横になっていました。
何度も体温を測って、冷たいタオルを替えて、寝息を確かめました。
明け方になって、少し熱が下がり始めたころ。
娘の胸が小さく上下しているのを見て、急に涙が出そうになりました。
ちゃんと息をしている。
それだけのことが、あの夜はとても大きなことのように思えました。
普段は、
「早く着替えて」
「こぼさないで」
「もう寝る時間やで」
と、急かしてばかりいるのに。
娘が元気に笑って、走って、うるさく話していることが、どれほど当たり前ではないのか。
あの夜、私は少しだけ思い出した気がします。
命の重さを子どもに伝える前に、親の自分が忘れてはいけないことなのだと思いました。
「いのちは大切」と言わなかった日
公園で、娘は最後までダンゴムシを見ていました。
そして、自分で石を少し持ち上げました。
「ここに帰す」
そう言って、手のひらに乗せていたダンゴムシを土の上に置きました。
しばらく動かなかったダンゴムシは、ゆっくり石の下へ入っていきました。
娘はそれを見て、
「帰った」
と言いました。
私はそのとき、「いのちは大切だよ」とは言いませんでした。
娘も、「逃がしてあげた」とは言いませんでした。
ただ、小さな虫が元いた場所へ戻っていくのを、一緒に見ていました。
命の重さは、説明だけでは伝わらないのかもしれません。
子どもが何かを見つけたとき。
悲しそうな顔をしたとき。
「これ、どうしたらいい?」と聞いてきたとき。
その隣にしゃがんで、一緒に迷う。
一緒に見る。
その時間の中に、言葉より先に伝わるものがあるのかもしれません。
今日も娘は、何かを見つけては「見て」と呼びます。
忙しいときは、つい適当に返してしまいます。
でも、あの「見て」の中には、娘が初めて出会ったものがあるのかもしれません。
そのときくらいは、少し手を止めて、一緒に見たいと思います。
