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久しぶりのお迎えで、娘の知らない姿を少し見せてもらった

久しぶりに、娘の保育園へ迎えに行きました。
いつもは妻が迎えに行くことがほとんどです。

だから、お迎えに行く日は少しだけ特別です。

仕事を少し早めに終えて、保育園へ向かう。

自転車を停める場所。
インターホンを押すタイミング。
玄関の空気。

久しぶりに行くと、少しだけよその場所のように感じます。
親なのに、少し緊張する。
そんな自分がいました。

娘の方が、ずっと分かっていた

玄関に入ると、娘がこちらに気づきました。

「あ、パパや」

そう言って走ってくるのかと思ったら、思ったより落ち着いていました。

「今日パパなん?」

そう聞いてから、すぐに自分の荷物の方へ向かいます。
私はその後ろをついていきました。

「これ持って帰るねん」
娘が棚からカバンを取り出します。

「これはここに入れる」
そう言って、汚れた服の袋をカバンに入れます。

「水筒もいる」
「帽子はここ」
「これは明日も使うから置いとく」

私はただ、言われたものを受け取っていました。

どれを持って帰るのか。
何を置いていくのか。
どこに何があるのか。

娘の方が、ずっと分かっていました。

私は迎えに行ったつもりだったのに、保育園の中では娘の方が先輩でした。

家では見ない顔をしていた

先生が近づいてきて、
「今日はお友だちとおままごとして遊んでいましたよ」
「小さい子の面倒もよくみてくれていました」
と教えてくれました。

娘は横で聞きながら、少し照れたような顔をしていました。

家では見ない顔でした。

先生に話しかけられたときの返事。
友だちに呼ばれたときの振り向き方。
自分の荷物を確認する手つき。
靴を履く順番。

どれも、家の娘とは少し違っていました。

家では、
「やって」
「できない」
「パパがして」
と言うことも多いのに、保育園では自分で動いています。

もちろん、毎日完璧にできているわけではないと思います。
でも少なくとも、その場所には、その場所で過ごす娘の姿がありました。

親の前だけの娘ではない。
先生の前の娘。
友だちの中の娘。
保育園で一日を過ごしている娘。

私が見ている娘は、娘の全部ではないのだと思いました。

今日の娘を、私は先生から教えてもらう

家にいると、親は子どものことを一番知っているような気になります。

好きな食べ物。
苦手な服。
眠いときの顔。
機嫌が悪くなるタイミング。

たしかに、家での娘のことはよく知っています。
でも、今日の娘のことは、私はほとんど知りませんでした。

誰と遊んだのか。
何を作ったのか。
給食をどれくらい食べたのか。
誰と笑ったのか。
少し困ったことはあったのか。

私は先生から教えてもらいます。
「今日はこんなことがありました」
そう聞いて、初めて今日の娘を知ります。

親なのに、今日の娘の一日を知らない。
少し寂しいような、でもそれが当たり前のような、不思議な感覚でした。

私が仕事をしていた時間にも、娘には娘の時間がありました。
私の知らない会話があり、私の知らない遊びがあり、私の知らない表情がありました。

娘の一日は、もう親が見ている時間だけでできているわけではありません。

お迎えは、回収ではなかった

忙しいと、お迎えは作業になります。

荷物を持つ。
靴を履かせる。
先生に挨拶する。
自転車に乗せる。
早く帰る。

帰ったら、ごはん。
お風呂。
洗濯。
明日の準備。

頭の中は、次の予定でいっぱいになります。

だからつい、保育園へ行くことも「子どもを連れて帰る時間」だと思ってしまいます。
でも久しぶりに迎えに行くと、それだけではないのだと感じました。

親の知らない一日を終えた子どもと、もう一度出会う時間でした。
娘は朝、家を出てから、保育園で一日を過ごしていました。

 そこで笑い、遊び、少し頑張り、たぶん少し疲れて、夕方に私の前へ戻ってきた。

私はその一日の最後に、ほんの少しだけ立ち会っただけでした。

親の顔を見た瞬間、少し戻る

玄関ではしっかりしていた娘が、靴を履くところで急に言いました。

「パパやって」

さっきまで自分で荷物をまとめていたのに、靴は履かせてほしいようです。

「自分で履けるやん」

そう言いかけて、やめました。

保育園では頑張っていたのかもしれません。

先生の前で。
友だちの前で。
自分の場所で。

親の顔を見た瞬間、やっと力が抜けたのかもしれません。

家では甘える娘。
保育園では少ししっかりしたお姉さん。

どちらが本当かではなく、どちらも娘なのだと思います。

子どもは、場所によって顔を変えています。

それは大人が外と家で少し違うように、子どもも子どもなりに社会を生きているということなのかもしれません。

帰り道、娘はよく話した

自転車に乗せると、娘は急に話し始めました。

「今日な、〇〇ちゃんがな」
「給食のときにな」
「先生がな」

話はあちこちに飛びます。
誰が何をしたのか、よく分からないところもあります。

途中で歌になったり、別の話になったりします。

それでも、さっきまで私の知らなかった娘の一日が、少しずつ流れ込んできました。
私はそれを全部理解できたわけではありません。

でも、理解することより、聞いていることの方が大事な気がしました。

娘の一日を全部取り戻すことはできません。
質問しても、答えてくれない日もあります。
でも、話してくれた断片を拾うことはできます。

「そうなんや」
「それ面白いな」
「それは嫌やったな」

そう返しながら、私は娘の一日の端っこを少しだけ受け取っていました。

私が知らない間に、娘の毎日は続いている

家では、まだまだ小さく見えます。

ごはんをこぼす。
靴下を脱ぎっぱなしにする。
眠くなると機嫌が悪くなる。
抱っこをせがむこともある。

でも保育園には、娘の場所がありました。

自分の棚。
自分のカバン。
仲のいい友だち。
先生とのやり取り。
帰る前の流れ。

私が知らない間にも、娘の毎日はちゃんと続いていました。
親が見ていない場所で、娘は少しずつ自分の世界を広げていきます。

そのことが、少し寂しくもあり、頼もしくもありました。
子どもの成長は、家の中だけでは分かりません。
親の目の前でできるようになったことだけが成長ではありません。

親の知らない場所で、その場所のルールを覚え、その場所の人と関わり、自分なりに一日を過ごしている。

それもまた、大きな成長なのだと思います。

迎えに行ったつもりだった

保育園から家に帰ると、娘はいつもの娘に戻りました。

靴を脱ぎっぱなしにして、リビングへ走っていきます。

カバンは玄関に置いたまま。

「手洗いや」

と言うと、

「分かってるって」

と言いながら、なかなか洗面所へ行きません。

さっきまで保育園でしっかりしていた姿は、少し遠くなりました。

でも、私は見ていました。

自分の棚から荷物を取る姿。
先生に返事をする声。
友だちに手を振る顔。
「これは明日も使う」と教えてくれた手つき。

家に帰るとすぐ、いつもの日常に戻ってしまうけれど、あの姿もたしかに娘でした。

親が知らない時間にも、子どもはちゃんと生活している。

久しぶりのお迎えは、そのことを見せてもらう時間でした。



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