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「知ってるよ」をやめたら、子どもがたくさん教えてくれるようになった

最近、子育ての中でひとつ発見がありました。

子どもが何かを教えてくれたときに、
「それ知ってるよ」
と言わないこと。

これだけで、子どもの反応がけっこう変わりました。
もちろん、大人からすると知っていることはたくさんあります。

「雲って動くねんで」
「氷って溶けたら水になるねんで」
「月って、ずっとついてくるねんで」

どれも大人にとっては、当たり前に知っていることです。
でも子どもにとっては、今まさに発見したことだったりします。

その発見を、嬉しそうに持ってきてくれる。

そのときに、
「知ってるよ」
と言ってしまうと、そこで会話が終わってしまう気がするのです。

子どもは、正解を教えたいわけではない

ある日、娘が言いました。
「パパ知ってる?雲って動くねんで」
もちろん、知っています。

でもそこで、
「そうやな、風で動くんやで」
とすぐ説明するのをやめて、

「え、知らなかった。雲って動くん?」
と言ってみました。

すると娘は、少し得意そうな顔をしました。
「動くで。さっきこっちにあった雲が、あっち行ってたもん」

ちゃんと見ていたのです。

空を見て、雲の場所が変わっていることに気づいていた。
それを自分の発見として、私に話してくれていた。

たぶん娘は、雲の知識を正確に教えたかったわけではないのだと思います。
「自分が見つけたことを、パパに聞いてほしかった」

それに近いのかもしれません。

大人は、つい答えを足したくなる

子どもが何かを話すと、大人はついつい答えを足したくなります。

「それはね」
「本当はね」
「こういう仕組みでね」

親として、教えることは大切です。
間違っていることを、そのままにしない方がいい場面もあります。
でも、いつも正しい説明を返す必要はないのかもしれません。

子どもが話しているのは、授業ではないからです。

たとえば娘が、
「月って、ずっとついてくるねんで」
と言ったとします。

大人なら、月までの距離が遠いからそう見える、と説明したくなります。

でもその前に、
「え、月ついてきてるん?すごいな」
と言ってみる。

すると娘は、
「そうやで。車乗ってても、歩いてても、ずっとおるねん」
と続けてくれます。

科学的に正しいかどうかの前に、子どもには子どもの世界の見え方があります。

そこをすぐに直さず、少し一緒に見てみること。
それも大事なのかもしれません。

「知ってるよ」は、少し寂しい

大人同士でも、自分が嬉しくて話したことに、
「それ知ってる」
と返されると、少し寂しいことがあります。

別に知識で勝ちたかったわけではない。
ただ、面白いと思ったことを共有したかっただけ。

自分が見つけた驚きを、一緒に面白がってほしかっただけ。

子どもも、きっと同じなのだと思います。

「パパ知ってる?」
は、本当に知っているか確認しているわけではなく、

「これ、すごくない?」
「聞いて聞いて」
「私、気づいたよ」

に近いのかもしれません。

だからそこで、
「知ってるよ」
と返すのは、少しもったいない。

「え、知らなかった。すごいな」
と返すだけで、子どもの目が輝くことがあります。

教わる側になってみる

親は、子どもに教える側になることが多いです。

危ないこと。
生活のこと。
言葉のこと。
ルール。
友だちとの関わり方。

教えることは山ほどあります。

でも、たまには子どもから教わる側になってみるのもいいのかもしれません。

「え、そうなん?」
「すごいな」
「パパ知らんかったわ」
「それどうやって分かったん?」

そう言うと、娘は嬉しそうに話を続けます。

自分の発見を、ちゃんと聞いてもらえている。
自分が知っていることを、パパに教えている。

その感じが嬉しいのだと思います。

なので、できるだけ、「知ってるよ」で終わらせずに、
「え、知らなかった。教えて」
と返せる親でいたい。

子どもから世界の見え方を、少し分けてもらえる親でいたい。

子どもの世界には、大人がもう忘れてしまった驚きがたくさんあります。

その一つひとつを、すぐに正しい知識で上書きしないように。

これからも娘が何かを教えてくれたときには、
「え、知らなかった。すごいな」
と、まず驚いてみたいと思います。

その一言で、子どもがまた少し、自分の世界を話してくれるなら、それは親にとって、かなり嬉しいことだと思うのです。

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