親が下す評価が、子どもをしばりつけることがある
子どもに対して、親はいろいろな言葉を投げかけます。
「かわいいね」
「頭いいね」
「絵が上手だね」
「運動神経いいね」
どれも、悪い言葉ではありません。
むしろ、親としては褒めているつもりです。
子どもを喜ばせたい。
自信を持ってほしい。
あなたのことをちゃんと見ているよ、と伝えたい。
そう思って言っている言葉です。
でも最近、少し考えるようになりました。
親が何気なく下す評価が、子どもをしばりつけることもあるのではないか、と。
それは、ネガティブな言葉だけではありません。
ポジティブ言葉であっても、です。
「かわいいね」は嬉しい。でも、それだけになると苦しい
子どもに「かわいいね」と言うことは、自然なことだと思います。
私も言います。
わが子は本当にかわいい。
服を選んでいる姿も、寝ぐせのままごはんを食べている姿も、一生懸命話している姿も、全部かわいい。
でも、もし親がずっと「かわいいね」ばかり言い続けたら、子どもは、かわいくいることを期待されているように感じるかもしれません。
かわいくない顔をしてはいけない。
怒ったらだめ。
泣きわめいたらだめ。
親にとって都合のいい、かわいい子でいなければいけない。
そんなふうに受け取ってしまうこともあるのかもしれません。
もちろん、親はそこまで考えて言っていません。
でも、子どもは親の言葉をよく聞いています。
親が何を喜ぶのか。
何を褒めるのか。
どういう自分でいると、親が嬉しそうにするのか。
子どもは、それを敏感に感じ取っている気がします。
「頭いいね」も、プレッシャーになる
「頭いいね」
これも、よくある褒め言葉です。
何かをすぐ覚えたとき。
難しいことができたとき。
大人が驚くようなことを言ったとき。
つい言いたくなります。
でも、「頭いいね」と言われ続けた子は、もしかすると間違えることが怖くなるかもしれません。
頭がいい自分でいなければいけない。
分からないと言ったら、がっかりされるかもしれない。
できないところを見せたくない。
そう思ってしまうこともある。
本当は、分からないことに出会うのは大事なことです。
失敗したり、考え直したり、間違えたりしながら、子どもは学んでいきます。
でも「頭いい子」という評価を背負うと、間違えることが自分の価値を下げるように感じてしまう。
褒め言葉だったはずなのに、いつの間にか子どもを窮屈にする。
それは少し怖いことだと思います。
逆の評価は、もっと残る
反対に、マイナスの評価はもっと残ります。
「勉強できないね」
「運動苦手だね」
「人見知りだね」
「要領悪いね」
「すぐ泣くね」
親としては、軽く言っただけかもしれません。
その場の様子を見て、事実を言ったつもりかもしれません。
でも子どもにとっては、それが自分の説明書になってしまうことがあります。
私は勉強ができない子なんだ。
僕は運動が苦手なんだ。
私は人前で話せない子なんだ。
自分は泣き虫なんだ。
一度そう思い込むと、挑戦する前から諦めてしまうことがあります。
どうせできない。
自分はそういうタイプだから。
親にもそう言われているから。
子どもは、親の言葉で自分を知っていきます。
だからこそ、親の評価はとても強い。
その言葉が、子どもの可能性を狭めてしまうこともあるのだと思います。
子どもは、まだ途中
子どもは、まだ途中です。
勉強が苦手に見える時期があっても、ずっと苦手とは限らない。
運動が得意でなくても、体の使い方が分かってくる時期があるかもしれない。
人見知りに見えても、安心できる場所ではよく話すかもしれない。
すぐ泣く子は、感情を豊かに感じ取っている子なのかもしれない。
今見えている姿だけで、その子を決めてしまうのは早い。
でも親は、ついつい言葉にしてしまいます。
「この子はこういう子だから」
「うちの子はこれが苦手で」
「この子は昔からこうで」
何気なく言ってしまう。
でも子どもは、その言葉を案外聞いています。
親が人に説明する自分。
親が決めた自分。
それを少しずつ受け入れてしまう。
だから、「この子はこういう子」と言い切る前に、一度立ち止まりたいなと思います。
今はそう見えているだけかもしれない。
今日はそうだっただけかもしれない。
まだ変わる途中かもしれない。
そう思える余白を残しておきたいです。
評価より、見たことを伝えたい
では、どう言えばいいのか。
最近は、評価するより、見たことを伝える方がいいのかもしれないと思っています。
「頭いいね」ではなく、
「よく考えたね」
「最後まで聞いていたね」
「分からないところをもう一回やってみたね」
「かわいいね」だけではなく、
「その服、自分で選んだんだね」
「嬉しそうな顔してるね」
「今日はその髪型にしたかったんだね」
「運動苦手だね」ではなく、
「今日はここまで走れたね」
「前より少し長くできたね」
「怖かったけど一回やってみたね」
評価ではなく、過程を見る。
決めつけではなく、その日の姿を見る。
そうすると、子どもをひとつの言葉に閉じ込めずに済むのかもしれません。
子どもは「頭のいい子」でも「運動ができない子」でもなく、今日も何かを試している途中の人です。
そこを見られる親でいたいなと思います。
親も、評価されて生きてきた
こういうことを考えると、自分自身もたくさん評価されてきたのだと思います。
「まじめだね」
「おとなしいね」
「運動苦手だね」
「勉強はできるね」
「要領悪いね」
そういう言葉を、どこかで受け取ってきました。
そして知らないうちに、自分の中に残っているものがあります。
自分はこういう人間だ。
これは得意。
これは苦手。
これは向いていない。
今でも、その評価の中で生きている部分がある気がします。
だからこそ、子どもにはできるだけ軽く渡したい。
重たいラベルではなく、今の姿を見ている言葉を渡したい。
子どもがいつか、
「私はこういう子だから」
と自分を狭めすぎないように。
「今は苦手だけど、変わるかもしれない」
「できない日もあるけど、やってみてもいい」
そう思える余白を残してあげたいです。
子どもを決めつけずに見続けたい
親の言葉は、子どもに届きます。
思っている以上に、深く深く届いています。
だから怖い。
でも、だからこそ大切でもあります。
子どもを褒めることをやめたいわけではありません。
「かわいいね」も言いたい。
「すごいね」も言いたい。
「よくできたね」も言いたい。
ただ、それだけで子どもを決めないようにしたい。
かわいい日もある。
怒っている日もある。
うまくできる日もある。
できない日もある。
得意に見えることも、苦手に見えることも、まだ途中かもしれない。
子どもは毎日少しずつ変わっています。
昨日の評価が、今日のその子をしばらないように。
親の言葉が、子どもの可能性を小さくしすぎないように。
私はできるだけ、評価を下す前に、目の前の姿をちゃんと見たいと思います。
「この子はこういう子」と決めるのではなく、
「今、この子はこうしている」
そう見られる親でいたい。
子どもが、自分で自分を決めつけてしまう前に、親である私が、子どもを決めつけすぎないようにしたいです。
