見出し画像

子どもの才能を、親が先に決めないために

「この子、何か向いていることあるかな?」

子どもが大きくなるにつれて、そんなことをいろいろ考えるようになりました。

運動が得意なのか。
絵が好きなのか。
人前に出るのが好きなのか。
音楽に向いているのか。
勉強が得意になるのか。

親としては、できれば早く見つけてあげたい。

夢中になれるものを。
自信を持てるものを。
いつか困ったときに、自分を支えてくれるものを。

でも最近、その気持ちが少し怖くなりました。

子どもの才能を見つけたいと思うほど、私は娘の「今好きなこと」を、将来につながるかどうかで見てしまっていたからです。

娘は、絵を描いていたわけではなかった

ある休日、娘が画用紙に何かを描いていました。

最初は虹のような線。
その下に、丸。
次に、四角。
そして急に、全部を黄色で塗りつぶしました。

私は横から見て、

「何描いてるん?」

と聞きました。

娘は少し考えてから、

「お店」

と言いました。

「何のお店?」

「なんでもあるお店」

それから、紙の端に小さな丸をいくつも描き始めました。

「これは?」

「ボタン」

「何のボタン?」

「押したら、納豆巻き出てくる」
※娘は納豆巻きが大好きなのです。

よく見ると、その横には「お薬のボタン」もありました。

「これ押したら、元気になるねん」

絵として上手かどうかは、正直よく分かりません。

色の使い方がすごいとか、形を正確に描けているとか、そういうものでもありませんでした。

でも娘は、ずっと話していました。

何が売っているのか。
誰が来るのか。
困っている人には何を出すのか。

私は途中から、絵を描いているのではないのだと思いました。

娘は、自分の中にある世界を、紙の上に置いていただけでした。

「上手だね」と言う前に

子どもが何かをすると、親はすぐに褒めたくなります。

「上手だね」
「すごいね」
「才能あるかもね」

悪いことではありません。

子どもが嬉しそうにする顔を見ると、こちらも嬉しくなります。

でも、褒める言葉はときどき、子どもの中にあったものを急に評価へ変えてしまうような気がします。

娘はただ、納豆巻きが出てくるボタンを描きたかっただけかもしれません。

困っている人にお薬を出せるお店を作りたかっただけかもしれません。

そこに「絵が上手」という評価を急いで置くと、娘は次から上手に描こうとするかもしれない。

正解っぽいものを描こうとするかもしれない。

私は最近、「上手だね」と言う前に、

「なんで納豆巻きが出てくるん?」

などと聞くようにしています。

すると、娘はまた話し始めます。

「お腹すいてる人がおるかもしれんから」

その答えを聞くと、才能という言葉では追いつかないものがある気がします。

才能は、結果より前にある

才能というと、どうしても目に見えるものを思い浮かべます。

足が速い。
ピアノが弾ける。
計算が早い。
絵が上手い。
人前で話せる。

もちろん、そういう力も才能だと思います。

でも、子どもを見ていると、それより前にあるものがある気がします。

何度も同じことをやりたがること。

誰にも頼まれていないのに、ずっと考えていること。

人が困っている場面で、急に真剣になること。

気になるものを見つけたら、帰る時間になってもずっと見続けること。

大人から見ると、ただのこだわりや、寄り道や、面倒なやり直しに見えることもあります。

でも、それは子どもが自分の中にある何かを、まだ言葉にできないまま追いかけている時間のような気がします。

才能は、すごい結果として現れる前に、

「これをやめたくない」

という形で始まっているのかもしれません。

親は、将来役に立つものを探してしまう

私は娘が何かに夢中になっていると、つい考えます。

これ、習い事につながるかな。
もっと伸ばしてあげた方がいいかな。
得意になったら、自信になるかな。

その考えが悪いわけでは全くありません。

子どもの可能性を広げてあげたい。

好きなことを見つけたとき、応援できる親でいたい。

そう思っています。

でも「将来役に立つか」を考え始めると、今の子どもの姿が見えにくくなります。

娘が好きなのは、絵を上手に描くことではなく、空想したお店を誰かに説明することかもしれない。

走ることではなく、走っている子を応援することかもしれない。

歌うことではなく、誰かと一緒に歌うことかもしれない。

親は一つの分かりやすい名前をつけたくなります。

絵の才能。
運動の才能。
音楽の才能。

でも子どもの好きは、そんなにわかりやすく、きれいに分かれないのかもしれません。

「才能があるか」より、見ていたいこと

娘が何かをしているとき、私はこれからも気になると思います。

得意なことは何だろう。
向いていることは何だろう。
どんな道を選ぶんだろう。

親だから、考えてしまいます。

でも、その前に見ていたいことがあります。

娘が何に笑うのか。
何に腹を立てるのか。
何を何度も繰り返すのか。
どんなときに時間を忘れるのか。

才能は、親が見つけて名前をつけるものではなくて。

子ども自身が、何度も触れて、失敗して、飽きて、また戻ってきた先で、自分のものにしていくものなのかもしれません。

親にできることは、急いで答えを出すことではないと思います。

「それ、何がおもしろいの?」

と聞いてみること。

「もう少しやりたい?」

と待ってみること。

そして、子どもが夢中になっている時間を、将来の準備としてだけ見ないこと。


娘が描いた「なんでもあるお店」は、今はもうどこにもありません。

画用紙は、押し入れのどこかに紛れてしまいました。

でも私は覚えています。

納豆巻きが出てくるボタン。
元気になるお薬のボタン。
困っている人が来るかもしれないから、と言った娘の声。

あの日、娘に才能があるかどうかは分かりませんでした。

ただ、自分の中にあるものを、誰かのために形にしようとしていた。

その時間を見られたことが、私は嬉しかったのです。

子どもの才能を探すより先に。

子どもが何に心を動かしているのかを、ちゃんと見ていられる親でいたいと思います。



いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集