〜傍観するということの罪〜
最近、ニュースを見ていて、
ふと立ち止まることがあります。
遠くで起きている出来事。
自分には関係のない話のように、
日常の中に静かに流れていくもの。
けれど、どこか引っかかる。
その違和感を、
言葉にしないまま、通り過ぎてしまう。
そこにあるのは、
見過ごしていいはずのない現実です。
被害を受けた人が、
職場を去るという選択を迫られていること。
本来、守られるべき人が、
なぜかその場を離れていく。
そんなことが、
どこか当たり前のように繰り返されている。
外から見れば、
明らかにおかしいとわかることが、
その場にいると、“日常”になっていく。
違和感は、
空気の中に溶けていく。
そして気づけば、
問題を提起した人のほうが悪いのではないかと、
感覚がすり替わっていく日常。
人は、問題が起きたとき、
こう考えてしまうことがあります。
なぜ、それを問題にしたのか。
波風を立てなければよかったのではないか、と。
本来問われるべきは、
起きた出来事のはずなのに。
いつの間にか、
声を上げた側が、問題として扱われてしまう。
スケープゴート。
声を上げた本人でさえ、
やがて思い始めます。
あの時、何も言わなければよかったのではないか。
自分が空気を壊したのではないか。
自分が悪かったのではないか、と。
傷ついた心に、
さらに傷が重なっていく。
性犯罪という問題は、あまりにも繊細で、
そして、あまりにも孤独です。
言葉にすること自体が難しい。
それでも勇気を出して伝えた先で、
待っているのが沈黙だったとしたら。
その沈黙は、
優しさではありません。
傍観されるということ。
それは、何もされないということではなく、
「その痛みは、ここでは扱われないもの」とされることに近い。
誰も何も言わない空間の中で、
自分の感じている痛みが、
まるでなかったことのように扱われていく。
声をかけられないこと。
見て見ぬふりをされること。
その一つひとつが、
静かに、でも確実に、心を削っていくのです。
たった一言でいい。
「つらかったね」という言葉に、どれだけ救われるか。
これは、遠くの話ではありません。
気づいていないだけで、
私たちのすぐそばで起きていることです。
そして今、
あなたは、傍観者になっていませんか?
大きな声でなくていい。
正しい言葉でなくていい。
ただ、そっとでいい。
誰かの痛みに気づいたとき、
その人に、声をかけてあげてください。
その一言が、
誰かの「ここにいていい」を守ることになるのです。
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