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ご家族ごっこ 第1章 1

 さっきから頭の中で、ショパンの幻想即興曲が流れている。フラッシュする映像は、自分がそれをリサイタルで演奏している姿。
 ふっと息をついて、会場に向かう足を速めた。その時の演奏会場が、今向かっているところだから、その記憶がよみがえるのだろう。
 頬に当たる風が、刺すように冷たい。
 12月に入り、街はすっかり冬の装いだ。クリスマスの装飾も施されているが、一時よりおとなしくなったと感じるのは、私だけだろうか。3、4年前は、クリスマスイルミネーションが、これでもかとライトアップされて、ごてごてとうるさかった。それは、私の心が荒んでいたから、そういう風に感じたのだろうか。
 私は、もう一度頭を振り払った。嫌なことや、その時の負の感情を追い出したい。
「もう、忘れよう」
誰にも聞こえないように、つぶやいてみる。今は音楽教室のピアノの先生として、穏やかに暮らしている。それで、いいじゃないか、と、自分に言い聞かせて。
 ロビー受付の女子に笑みをたたえ挨拶する。すると、倍返しで返すように言われているのか、女子は咳き込むほどの勢いで、
「こんにちは。椎名隆子さん」
と、返してきた。
 下の名前は『たかこ』とも読む。それを『りゅうこです』と訂正することが、返って印象に残っているのだろう。女子は間違えずにフルネームを言ってくれた。
 5年前に離婚して、吐き気がするような泥沼劇を乗り越えてきた。人間不信、燃え尽き症候群、うつ症状も出て、難聴になるは不眠になるは、しばらく外にも出られなかった。このままでは廃人同様だと気が付き、2年前から自己啓発のセミナーに行った。セラピーと謳うような、刺激の少ないものだが、期待以上に高揚感が得られ心地よかった。以来、月に一度くらいの割合で、そうしたセミナーを探しては通っている。今日も、密かに師と仰ぐ講師による講演会だ。5回目ほどになるだろうか。
 受付を済ませれば一安心だ。さっさと会場に入って、良い席を確保することも大切だが、私は、ロビーの隅の方の、空いている席にひっそりと座った。
 せっかくの講演を聞くのに、自分自身に考え事があれば、話はまっすぐに入ってこない。心を落ち着かせ、整えて、良い話は集中して聞こう。その為には、慌てて会場に入ってしまうより、ロビーで人心地つくのが得策だ。
 
 離婚の原因は夫の浮気だった。
 薄々感づいていたのだが、そのうち収まるだろうとタカをくくっていたら、とうとう相手の女が家に怒鳴り込んできた。
「奥さんとして、終わってんじゃないの」
振り返りざま、夫を見ると、
「おまえが俺に関心がないから、安らぎを求めただけだ。俺は悪くない」
と言う。
「安らぎを求めたですって? 派手な化粧をして、毒々しい真っ赤な爪で、どう見ても安らげる相手じゃないわよね」
頭に血が上り、顔を真っ赤にして、感情任せに私も怒鳴っていた。
 それから、暗黒の日々が続いていく。
 あの時のリサイタルも、離婚の遠因になっていると思う。
 独身時代は、数年に一度、友人たちと共演の演奏会を開いていた。会の準備はピアノ技術を向上させるし、ピアニストとして演奏できる喜びは、生きる糧になった。時を経て、共演していた友人たちは結婚や出産を機に、演奏会のことは口にしなくなっていった。子どもが成長し、手が離れたというのに、自分の演奏会など二度と出来るもんじゃないと、はっきり言う友人もいた。
 でも、私はなぜか演奏会を開くことに固執していたのだ。結婚し出産し、子どもが小学生になった時、自分のリサイタルを開くために一人画策して、それは実現できた。
 そう、この会場だった。
 関係者出入り口、いわゆる裏口から、警備員に使用証明書を提示して入り、控室やリハーサル室を利用している時は、なんだか童心に返ったようにワクワクした。久しぶりの演奏会に有頂天になっていた自分を思い出す。
 それが、散々な演奏会だった。
 聞きに来て下さるお客様は、会場の3分の1にも満たなかったし、多くが義理で足を運んでき出さったようだった。費用の多くは持ち出しで、後に繋がるようなご縁もなかった。演奏自体に大きな失敗はなかったが、満足いくような演奏でもなかった。お客様にしてみれば、何の印象にも残らない演奏会だったのだろう。その時になって、初めて自覚したのだ。自分くらいのピアノ技術で、知名度やうりがなければ、演奏会を開いたところで、こんなもんだ、と。
「だから、言っただろう。やめとけ、って」
夫の勝ち誇ったような冷笑に、全身が凍てついた。事あるごとにそれを持ち出して言うほど、夫は意地悪ではなかったが、私自身が夫の視線に居心地の悪さを感じていった。夫との関係は、それをきっかけに断ち切れてしまう。だから夫は、浮気に走ったのだろう。私が夫に関心がなかったのは事実だった。
 
 とりとめもなく離婚のことを思い出してしまったら、それは自分の頭の中の記憶だというのに、身体から水分が抜けて、喉が渇いてしまった。今さら自販機で飲み物を買うのは憚られたが、胸に残っているざわざわしたものを、飲み下したいと思い、微炭酸の飲料水を買った。
 ガラガラと音を立てて、ペットボトルが取り出し口に落ちる音を聞く。
ボトルを開けると、勢いよく炭酸が剥ける音がする。口に含み、一気に3分の1くらい飲み進めると、ぐずぐずと考えている自分自身が、炭酸と一緒にはじけていく。
《ひとまず、離婚のことは胸に仕舞い込もう》
そう思うと、頭に描いた大きく広がった紙が、四つ折り、八つ折りと、小さく畳まれていって、胸ポケットへ仕舞われた。
たかだか150円ほどの飲み物で、こうして切り替えが出来るようになるとは、自分も少し大人になったな、と思う。
 もう一度、ボトルを一口飲み下すと、キャップを固く締め、カバンの中にそれを仕舞った。
 誰にも見られていないことを確かめて、自分の顔を作る。口元の口角をあげて、目に力をこめ、顎を引く。つま先で立ち、背筋を伸ばし、ストンと肩の力を抜く。
「よし」
 自分に、小さく息を吐くようにつぶやき、袖から舞台中央へ出ていくつもりになって、講演会場の扉を開いた。
 

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