生命維持治療終いのお作法
4学会合同ガイドライン——「救急・集中治療における生命維持治療の終了/差し控えに関する」という長いタイトルのパブリックコメント版を読んだ。
2014年の旧ガイドラインから10年以上経って、4学会が合意形成した文書だ。修正デルファイ法で3ラウンドかけて、全項目に委員の70%以上の賛成を得た。丁寧に作られた、誠実な文書だと思う。
でも読んでいて、ずっと何かが引っかかっていた。
「終末期を定義しない」という決断
旧ガイドラインは「救命の見込みがない時期」という静的な定義を持っていた。新しいガイドラインはあえてその定義を手放した。「終末期」という枠組みではなく、プロセスそのものを問う姿勢への転換。
これは小さいようで大きい変化だと思う。
カテゴリに人を当てはめるのではなく、その人の状況の流れの中で考える。Jonsenの4分割法——医学的側面、患者の意向、QOL、周囲の状況——を使って患者を「全体として見る」枠組みも、その方向を向いている。
プロセス重視の「使い方」
ガイドラインはプロセスを重視している。それ自体はわたしも違和感がない。
問題はプロセスの使い方だ。
プロセスを、「正しい決定に至るための道具」として設計してしまうと——目的地が生まれた瞬間に、旅は通過点になる。
わたしが大切にしたいのは、プロセスそのものに価値がある、という姿勢だ。決定に至ったかどうかではなく、どう向き合い続けたか。「決定しないことを共に抱える」という選択肢が、そこには生まれる。
患者さんの主体性は、決定が下りた瞬間に失われやすい。医療チームの合意の客体になってしまう。もやもやを保持することは、患者さんがまだ自分の物語の主人公であり続けている状態を守ることでもあるんじゃないか、とわたしは思っている。
「曖昧さに耐える能力」のこと
ネガティブ・ケイパビリティ。
もともとはイギリスの詩人キーツが詩人の資質として語った概念で、後に精神科医ビオンが治療関係に応用した。
「事実や理由を苛立たしいほど求めることなく、不確かさ・謎・疑念の中に留まれる能力」
答えを出さずに、わからないままでいられる力、とでも言い換えられるかもしれない。
これをガイドラインに書こうとした瞬間、消えてしまう。書けた瞬間にそれはもう、ネガティブ・ケイパビリティではない何かになっている。
哲学者ヴィトゲンシュタインは「語りえぬものについては沈黙しなければならない」と言った。臨床の核心にあるものの多くは、おそらくその「語りえぬもの」の領域にある。
ガイドラインへのわたしの違和感の正体は、もしかするとそこかもしれない——沈黙すべき場所に、言葉を押し込もうとすることへの、静かな抵抗感。
信頼が壊れた場所に「心理的安全性」を置く矛盾
ガイドラインの中に「心理的安全性が確保される必要がある」という一文がある。
これが一番引っかかった表現だった。
かつて医療現場には、関係性の中で自然に育まれる信頼があった。それが医療訴訟・情報公開・患者権利運動の流れの中で、信頼ではなく合意という形式に代替されていった。ガイドラインはその症状として必然的に生まれたものだ。
その壊れた信頼を修復しようとする文書の中に「心理的安全性を確保せよ」と書く。
構造的矛盾がある。
信頼が壊れた→手続きが必要になった→手続きの中に「心理的安全性を確保せよ」と書いた。壊れたものを、壊れた器で修復しようとしている。
心理的安全性はEdmondsonの組織論から来た概念で、もともとは長期的な関係性の中で自然に育つものだ。それを「確保する」という動詞と組み合わせた瞬間に——信頼を失った理由と同じ論理で、信頼を取り戻そうとするという逆説が生まれる。管理によって管理への不信を癒そうとする、みたいな。
心理的安全性は「確保」するものではなく、時間と関係性の中で醸造されるものだ。醸造には時間とその条件が必要で、誰かが意図的に「確保」できるものではない。ガイドラインが「心理的安全性を確保する」と書けるということは、それがすでに心理的安全性ではない何かになっているということかもしれない。名前だけ借りた別物、とでも言うか。
ただ、ここで一つ留保を置きたい。
壊れた信頼の現実の中で働いている現場の医療者の苦しさも、確かにここにある。
「もやもやを患者さんと共に抱えたい」と思っている医師が、訴訟リスクの重さの中で自分を守るためにマニュアルに頼らざるを得ない。ガイドラインへの不満と、それに頼らざるを得ない現実と——壊れていることを知りながら、壊れた道具で仕事をしている苦しさが、このガイドラインのあちこちに滲んでいる気がする。
批判ではなく、共感として言いたい。
患者団体の批判が指し示すもの
このガイドラインに対して患者団体から批判の声があがっているらしい。
注釈1に「生命維持治療」の定義がある。「状況によって生命維持治療となり得る」という書き方だ。医療者側の視点から書かれた定義で——でもALS患者にとって人工呼吸器は「終了の対象」ではなく、生活の条件そのものだ。
急性期・集中治療という視点から書かれた文書が、慢性疾患・障害の文脈に適用されるときの構造的なズレ。これはガイドラインの悪意ではなく、視点の限界だと思う。
暗黙知はマニュアルにできない
わたし自身のやり方を言葉にするとしたら——
あまりやり方を決めないで、いろんなバリエーションを許容しながら、延命処置を含めた治療の選択を違和感のない形で自然に進めていく。進んでいくプロセス重視の姿勢そのもの、とでも言うしかない。
教科書のSDMには構造がある。選択肢を提示して、価値観を確認して、合意を形成する。
わたしがやろうとしているのは、もう少し手触りの違うことで——気づいたら患者さんと一緒に、どこかに向かって歩いていた、という感覚に近い。
これは言語化しにくい。だから教えにくいし、マニュアルにもできない。
暗黙の了解をマニュアル化しないといけない社会の中で、ガイドラインは必然的に生まれる。それを使いながら、自分のやり方でやってみたい——それがわたしのわがままだ。
ガイドラインが書けない最後の一行
このガイドラインは誠実に格闘している文書だと思う。
「最期まで寄り添う」
プロセスを制度として設計した瞬間に、そこに宿っていたものが抜け落ちる。書いた瞬間に消えてしまうものが、臨床の核心にある。
ガイドラインでは解決できない問い。
書かれていない余白に、全てがある。
ことばにするとこわれてしまう、そこにあるはずの大事な何かが。
