量子力学の「二重スリット」や「量子消しゴム」の実験は、身の回りのものだけで可能か?
一般向け科学雑誌に、量子力学の「二重スリット実験」や「量子消しゴム実験」を、身の回りの道具だけを使って行いましょうという記事がありました。その実験は、量子力学というよりも、本当は単なる古典電磁気学の実験なのですが、読者には「量子の不思議」を身近に感じさせると、その記事は好意的に受け止められ、その間違った理解が広まってしまいました。
記事で「二重スリット実験」とされるものでは、レーザーポインターと針金と、スクリーンとなる厚紙を用意します。そして図1のようにそれを配置して、レーザーポインターのスイッチを入れると、厚紙の上には干渉縞ができます。

その記事の主張では、これは量子力学の二重スリット実験であって、「1つの光子が、針金の左右どちらかを通過した後、スクリーン上に干渉縞ができた」としてあります。
ところが実際には、これを1光子の量子力学の実験とみなすことはできません。光子がまばらに飛ぶ量子ビームに比べて、その市販のレーザーポインターから出るのは強度が強い古典領域のレーザー光であり、それは量子力学を使わずに、古典電磁気学だけで理解可能なものだからです。ですから、ですから、図1の実験を「量子力学の二重スリット実験」と呼ぶことは、正しくないのです。
この記事では「量子消しゴム実験」も、身近なものだけを使って簡単にできると紹介をしています。たとえば、偏光板を図2のように配置すると電場が水平面に振動する電磁波の成分は通過できますし、図3のように配置すると垂直面に振動する電磁場の成分は通過できます。


そして、図4のように、その方向が直交するように2枚の偏光板を重ねると、光は2枚目の偏光板で遮られてしまいます。

このような偏光板の性質を踏まえて、「量子消しゴム実験」では、まずレーザーポインターと偏光方向が直交をした2枚の偏光板と針金を図5のように配置します。すると、スクリーンに出るべきレーザー光の干渉縞は消えます。

記事の内容では、この理由を、「レーザー光の進行方向に向かって右側の偏光板を通過した光子では、水平面振動であることがその光子に観測をされ、左側の偏光板を通過した光子には、垂直面振動であることがその光子に観測をされて、各々の場合にその波動関数が収縮をしてしまい、スクリーン上での干渉が妨げられるから」とします。つまり光子のスピン自由度である偏光が、針金の左右どちらに居るかという「光子の位置」を観測してしまったから、干渉縞が無くなったというのです。
しかし、市販のレーザーポインターを使ったこの実験は、量子領域の実験ではありません。飽くまで古典電磁気学で説明が付いてしまう現象です。そして古典光も、その偏光状態が異なれば、干渉はしなくなるからです。特に不思議がる結果ではないのです。
「量子消しゴム」とは、二重スリットを通った光子の位置情報の記録を消すものだとされています。この実験ではもう1枚偏光板を用意して、それに「量子消しゴム」の役目をさせることができます。図6のように、その3枚目の偏光板を斜めの角度でビームライン上に挿入すると、スクリーン上には干渉縞が現れるのです。

この現象を、記事では「最初のスリットで記憶された偏光に関する情報が、挿入された偏光板により消去されたことで、その光子は干渉する能力を取り戻した」と解釈しています。しかし、この場合の「量子消しゴム実験」も、純粋な量子力学の実験とは見れないのです。レーザーの強度は高く、そのレーザー光は古典的な電磁波として振る舞うためです。そして古典電磁気学でも、図6の現象は起きるからです。
つまり、紹介されている「二重スリット実験」と「量子消しゴム」は、基本的には古典電磁気学の範囲内の実験なのです。そのため、市販のレーザーポインターを使った量子消しゴム実験は、「量子現象を疑似体験できる古典シミュレーター」と考えるほうが適切だと指摘する実験家もいます。
本物の二重スリット実験や量子消しゴム実験をしたいのならば、レーザー強度を極めて弱くして、単独の光子がまばらに飛んでいく設定が要求されるのです。そのことで初めて針金の二重スリットや偏光板を通過しているのは単一光子であるとみなせるようになります。そして、このような実験を市販のレーザーポインターで行うことは難しいのです。
更にこの量子消しゴムの原理を誤解し、光子のスピン角運動量である偏光ではなく、光子の空間的な軌道角運動量を使っても、干渉を消せると主張した人も居ました。光子のスピン角運動量自由度に光子の位置情報を記録したために、その干渉縞が消えるのならば、光子の軌道角運動量自由度に光子の位置情報を記録させれば、同様に干渉縞は消えるとその人は考えたのです。
しかし、これは大きな誤りです。偏光に位置情報を記憶させて干渉縞が消えたのは、位置自由度と偏向自由度の間に量子もつれが生じて、位置自由度にデコヒーレンスが起きたからに過ぎません。量子もつれやデコヒーレンスが起きるためには、異なる2つの自由度が要求されますが、軌道角運動量自由度の場合は、空間的な波動関数部分に一緒に記録されている光子の位置自由度と全く同じものです。したがって量子もつれも、干渉縞を消すデコヒーレンスも、発生しようがそもそもありません。
実際、軌道角運動量の固有状態である球面調和関数の重ね合わせで書ける空間的な波動関数には、通常の干渉縞が現れることがよく知られています。たとえば、図7のように、針金の左右で軌道角運動量の固有状態の重ね合わせを変える実験をしても、スクリーン上の干渉縞は消えることはありません。

なので、軌道角運動量を用いた「量子消しゴム実験」は、発想のスタート地点からナンセンスなのです。
まとめると、市販のレーザーポインターを用いた「二重スリット実験」と「量子消しゴム実験」は、一見すると量子的な現象のように見えますが、実は古典電磁気学だけで十分に説明できます。ですので、純粋な量子力学の実験にはなっていません。一般向け科学雑誌といえども、量子力学の間違った解釈は避けることが重要だと思います。
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