内的自由と学問
ー宗教二世問題に世間が揺れる中で、大学でも信仰の自由を脅かされるのではと不安に感じる若い方々に向けてー
信仰を含めた自由と、科学などの大学における学問について、私見を述べたいと思います。
まず私の1つの意見はこうです。宗教を持つ方が、「科学(ビッグバンや量子力学)は我々の聖典に既に書かれていたことであり、科学者はそれを追認したまでである」と発言したりとか、また逆に無神論の科学者が、「あらゆる宗教は迷信である」と発言する等の不毛なやりとりは、今世紀にはもう要らないと、私は思っています。科学とは、宗教者と無神論者も含めたあらゆるコミュニティを繋ぐ公共空間なのですから。その意味で、宗教が上だとか科学が上だとか言う事は、そもそもナンセンスなのです。
科学は音楽や芸術と同様に、あらゆる宗教や思想のコミュニティの間を埋める廊下であり、その廊下を渡って多くの人が交流できます。世界の大切な公共スペースだからこそ、科学を自分達だけのものだと思うことは、全ての人々が避けるのが良いと思います。
「科学は世界で共有している公共スペースである」と認識することは、ますます激動化する時代において非常に大事です。ですから我田引水的に科学を解釈して、科学的な実証に基づかない自分の都合の良いことを「科学」だと称して人々に語ることは、止めて欲しいのです。それは貴重な公共スペースを穢すことになるからです。
たとえば精神的に参っている人に向けて、類推(アナロジー)として量子力学を用いて自己啓蒙の仕方を語るのは、全然問題はありません。またイワシの頭のようにその「量子力学」が役立つのならば、その意味もあります。しかし量子力学的自己啓蒙を「科学的に証明されている」と言ってしまうと、それは科学を穢し、科学の中立性や公共性を毀損してしまうのです。
これからも、科学は貴重な共通語であり続け、どんな思想や宗教の人でも一緒に語り合え、共に使っていけるツールなのです。苦しんでいる人向けの自己啓蒙と言えども、科学を歪め、その言葉を占有するような言動は、その科学が持つ大きなポテンシャル自体を弱めてしまいます。
量子力学は、いろいろな思想を持つ世界中の人々にとっても、貴重な現代科学の礎です。それを「量子力学的○○」という自己啓蒙用語で歪めて、変な色を付けないで欲しいと願っています。宗教を持っている人も、無神論者の方々も、皆が抵抗なく使える量子力学であって欲しいと願っております。
また私はこう思うのです。これからの激動の時代で最も気を付けなくてはいけないのは、陰謀論や超人待望論だと。誰か神のような能力をもつ優れた少数の政治家や科学者が、突き付けられた数多の難問を解いてくれるだろうという受け身的な態度には、誰もが気を付けなくてはなりません。この国や世界の未来を拓くのは、飽くまでひとりひとりの人間の意志であって、またその総体です。私はそう思っています。
人間の本質の部分において、世の中は少数の天才や超人では変わりません。「天は自ら助くる者を助く」とも世間では言います。たとえ真っ暗闇の中にいても、若い人達は権勢を求める扇動者や偽救世主のネオンサインには騙されずに、個の自立をし、自分の心の灯を強く大きくして、往くべき道をしっかりと照らして堅実に、それぞれ進んで行ってください。
どんな思想団体でも、どれだけ教義が立派な宗教組織でも、もしそれが権勢を求め、あなたを束縛するならば、潜在意識までコントロールされてしまう前に、あなたはそこから逃げ出すべきだと思うのです。縛るインフルエンサーは捨てる。自分であり続け、自由でいられる「場所」まで逃げて下さい。自分の内的自由をしっかりと確保するのです。個の自立とはそういうことです。そしてその個の自立を助けてくれるのが、大学の学問なのです。
たとえば神仏を信じない人々にさえ、その心臓を今日も動かし、そして朝が来て夜が来て、また朝が、彼らにも訪れる。世界の人々は様々な宗教をお持ちですが、それぞれの方々が信仰する神様仏様は、今日もそういう人々を皆許容し、育んで下さっています。そういう寛容の精神を神仏から習い学ぶことも、とても大事なのではないかと私は感じます。
過去には熱心に様々な宗教を勧めて下さる若い方々もいました。その中には「自分は殉教者になるつもり。あの世で神様に頭を撫でてもらいたい」と、素直におっしゃる方もいました。
でもその方の言葉に感じたのは、神への純粋なる忠誠というよりも、その方のナルシシズム的な英雄主義や欲でした。「真理を知らない一般人とは異なり、神の隣に立つ、偉大なものになりたい」という欲です。また教団の人々やその神様から誉められたいという自分のご利益への想いが潜在意識の中にあることが、若い方には多いように見受けます。以前喫茶店の隣のテーブルに座った大学生らしきお二人も宗教勧誘活動中の休憩だったらしく、大声だったため、そのお話が聞こえてしまったのですが、やはりご自分達を認めてもらうための、そして誉めてもらうためのご活動のようでした。
まだお若い方々だったので、彼らがその教団の典型的信者とは思いたくはありません。ただそのような若さによる自己承認欲求に基づいた伝道活動では、「病気や不幸は信心が足らないからだ」と人を責めることは多くても、本当の意味で人の心に寄り添うことは少ないように思えます。大学内で人に声をかけて布教をされる場合でも、それは同じだと感じます。人の心を救うとはなんだろうと、深く深く考えさせられます。
学生の方に、自分達が信じる特定の団体に入らなければ世界が滅びると言われても、私自身はその時には自分も世界も滅びて良いと思っています。例え私が入って世界が滅びなかったとしても、他の方々に寛容さを示さない皆さんが強大な力を持つようになったその世界には、私の居場所はあり得ないし、そして私は居たくもないのです。親の二滴から生じ、やがて必ず骨となり、土に還る身に宿る間のこの世界での短い滞在の中で、心まで汲々として生きていくのは馬鹿らしいというのが、私の変わらない信条です。
もし神を語るなら、「宇宙のことが分かるにつれて、そこには意味がないように思えてくる」と言う物理学者がいるように、局所では消える重力のごとく、気配を消して人間の自由意志を最大限尊重し続けて下さっている存在だろうと、私には思われます。信心が足らないことを理由に天罰を与え、その恐怖で人類を奴隷のように従属させる神仏はいそうにありません。そう感じます。
従属ではなく、信頼。
神に祈り、音楽を楽しむことが収容所の過酷な生活を生き抜く大きな力になった。隣人に手を差し伸べる人もいた。どんな環境でもどんな態度を取るかの自由は奪えない。
たとえばナチスの収容所でヴィクトール・フランクルが見たこの光景の中にこそ、真の信仰の姿もあるのかもしれません。
従属ではなく、無限なる信頼。キリスト教ならば、これがたとえば聖書にある「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神を愛せ」の本当の意味ではないかと、私は考えています。迷信でも、妄信でもない、真の理性に導かれた全託、信頼こそが、本当の信仰の神髄なのではないか。私には、そう思えるのです。そしてこれは仏教や神道でも同じだと感じています。
神仏によってこの世界のどんな境遇や環境へ置かれても、自分の心からは不満が出てこない。「我欲ではなく、ただただ御心のままに自然に成さしめ給え」という心境を目指す道ならば、どの宗教でも本当に素晴らしいのだと、私は思うのです。また自分の肉体生を奪う人間を目の前にしても揺らがない信仰というものは、本当に有難いものと思います。でもその道を進んでいくには、内的自由と絶対なる理性(ロゴス、logos)こそが不可欠だろうと、私は考えています。
愛という理念も、自他一体感の「合い」という言行に近づくのが素晴らしいのですし、どんな宗教や思想でもそれを目指すのならば、人類進化を大きく促す力があるのだと、私は思います。どの宗教でも、上に立って命令するがごとくに相手に対するのではなく、自分が相手の想いに重なってその苦悩を共有し、共に救いの光を求めることこそが、神仏に通ずる真の愛の祈りなのではないか。私にはそう思えるのです。
どんな宗教や思想であろうとも、それを信ずる若い方全員が一気に精神的に成熟をして聖人に成れるわけもないでしょう。偽善もなく、無理なく、自然に、愛の理念が少しずつ言行として身に付いていくことが素晴らしいのです。ですから虚栄を張らずに嘘偽りなく、自分が持つどうしようもない業をまずは正直に認めて受け入れて、それを反省しつつ、それぞれの方々が信ずる神仏にその赦しと救済を乞い、そしてその後は神仏と共に自分はあると深く信じながらも、異なる考えを持つ人々の尊厳を決して冒しはしない。そして明るく、堂々と、延び延びとした心で、若者は大きく成長していって欲しいなぁと、私は願っております。大学ではそういう若者に会いたいと願っています。
信仰の自由は、大学内でもしっかりと正しく守られるべきです。信仰を持たない大学教員や学生でも、人の信仰と尊厳を決して侵してはいけません。私はそう思っています。そして同時に、物理学などの大学での学問を通じて、多様でかつ大きな視野を獲得することは、様々な宗教において信仰を極めんとする、全ての若い方々の助けにきっとなるだろうと、私自身は強く信じています。
それぞれの方が信ずる神仏のご加護が、皆さんに大学内でもありますように。また大学において皆さんの学問が深まり、そしてその学問が皆さんを助けてくれますように。そう祈っております。
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