💟明治天皇 南朝王孫説2-松尾 南松尾山を貫線-⛩️内宮と⛩️明治天皇陵との神風串呂1
🎀串呂哲学研究ノート第497号
「宇治田原町天皇と皇居との串呂」の研究中、期せずして下記の「大室二串 -🔴-🔴- の神風串呂」が解明されましたので、この機会に「首都東京(皇居)の串呂の研究」をしばらく中断して明治天皇の新串呂を研究したいと思います。
皇踏山城 南曲輪跡-⭕宇治田原町天皇-🟢大室洞穴-⭕皇居-🟢大室

⭐明治天皇の神風串呂について(1)
🌺三浦芳聖師による明治天皇の串呂の研究は、まず「明治(岡山県井原市美星町)と⛩️明治天皇陵との串呂」や「天王(岡山県新見市哲西町矢田)と⛩️明治天皇陵との串呂」などが解明されていました。
しかし、元宮内大臣 田中光顕氏の証言「明治天皇は満良親王の王孫」という誤った情報が災いして、三浦芳聖師による明治天皇の串呂の研究は、あまり進展することが有りませんでした。

❇️満良親王について
後醍醐天皇の第十一皇子 満良親王については、「遠江方広寺」を開山したとされる臨済宗の「無文元選」説が有力です。
【参照】
『方広寺 (浜松市)- Wikipedia』
『満良親王 - Wikipedia』
南朝史学会の藤原彦人(石山/丸山)氏によると、満良は「みちなが」と読み、「道長し」から「遠良親王」、「遠露大和尚」と呼ばれていたとあります。
【参照】満良の読み方について
藤原石山著『南朝正統皇位継承論』(119頁、南朝史学会、1988年)に、『熊谷家伝記』に後醍醐天皇の第11皇子の事を「遠良親王」、「遠露大和尚」と記されていることについて、後醍醐天皇の第十一皇子「満良親王」の「満良」を、「みちなが」と読み、「みちなが」は「道長」で「道長し」すなわち「遠路」で、遠良(えんろ)、遠露(えんろ)と 称したという解説が出ていて、こうしたことを「諺文学」「韻文学」といって、当時(南北朝時代)こうした学問が通用していたと書かれています。ここから満良の当時の読み方は「みちなが」であり、みつながではなかったことが分かります。
❇️みつなが親王は光良親王だった!
明治天皇(大室寅之祐)の出自とされる大室家では、光良親王の系図が伝承されていたようですが、前々号でご紹介した「元宮内大臣 田中光顕 氏」は、明治維新の志士としては身分が低かったため、系図を見せてもらえず、
上位の幹部から「みつなが親王の王孫」と聞いていたのを、歴史記録に残っている「満良親王」と誤認していたのではないかと思われます。
(あくまで推測です。)

🌺その後、昭和42年(1967年)に、三浦芳聖師の道場で開催された「三浦皇統家月次祭」に、明治天皇の分身分霊といわれた藤原彦人(石山、丸山)氏が参列したことにより、祭祀中に御祖大神から祭主 三浦芳聖師へ御神示があり、
『明治天皇は松良天皇の第四皇子「光良親王」の王孫である』事が判明し、明治天皇の串呂の研究は、一気に進展したのでした。
💞つづく

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🟣情報拡散のお願い
神風串呂は、神界から日本民族への目に見えるメッセージ(啓示)です。
🌷この記事に到着された貴方様とのご縁に感謝しています。これは皇祖神・天照大御神から地上に派遣された神皇正統嫡皇孫・三浦芳聖が解明した神風串呂の紹介記事です。
三浦芳聖師が解明した神風串呂には、日本民族の進むべき道が、明確に示されています。日本民族の危急存亡の時に当たり、一人でも多くの方に読んで頂けるよう、この情報を拡散下さいますよう、宜しくお願い致します。
🌷串呂主宰神 天照大御神は、なぜ、長期間かけて神風串呂を構築し、このように神皇正統の皇統を顕彰されるのか!この一点を徹底的に講究しますと、神風串呂の要諦が理解でき、今我々は、何を第一とすべきかが分かります。
ここに日本民族の存亡が掛かっているのです。真実に目覚めましょう!
2千年以上の長年月を掛け神風串呂を構築された、串呂主宰神・天照大御神様のご苦心と、生涯を掛けて神風串呂を解明された三浦芳聖師のご努力が、日本国と日本国民の皆様の幸せの為に生かされますよう願ってやみません。
🌷神風串呂と神風串呂に昭示されている「神皇正統家」は日本民族の宝です!さらに研究を進めましょう!
神風串呂の主宰神は、天照大御神様ですので、串呂の存在を一人でも多くの方々にお知らせすると、天照大御神様がとてもお喜びになられます。
一人でも多くの方に、神風串呂の存在をシェアして頂きますよう宜しくお願いします。

⛩️内宮と⛩️明治天皇陵との神風串呂
三浦芳聖師が公開した「明治天皇の神風串呂」を参考にして、明治天皇の新串呂の研究を進めて参ります。
❇️串呂起点
⛩️皇大神宮内宮(三重県伊勢市宇治館町)
主祭神は、天照大御神(串呂主宰神)
今号は、神風串呂の最高にして最重要なる一大拠点である伊勢の⛩️皇大神宮内宮を起点とした串呂です。
天照大御神は、崇神天皇の御代に笠縫の里を出奔し、京都府福知山市大江町の⛩️元伊勢内宮皇大神社を皮切りに各地を転々と移動され、最後は神風串呂の一大拠点を構築するために伊勢の内宮にお鎮まりになられました。
(これは串呂哲学の創始者 三浦芳聖師が解明されました。)
⛩️皇大神宮内宮については下記を参照下さい。
🔴『皇大神宮- Wikipedia』
💟皇大神宮内宮の神風串呂

❇️串呂至点
⛩️明治天皇伏見桃山陵(京都市伏見区桃山町古城山)
京都市伏見区の桃山丘陵にある明治天皇の陵。
桃山御陵

古来、棺を覆いてこと定まると言われます。
人物についての調査鑑定は、まず墳墓の串呂を鑑定することから始まります。これは串呂哲学の鉄則であり定石です。
【参照】
⭐『明治天皇伏見桃山陵- Wikipedia』
⭐明治天皇の神風串呂

❇️串呂概観
三重県伊勢市の⛩️皇大神宮内宮を起点にして⛩️明治天皇伏見桃山陵を至点とした串呂を概観したところ、京都市西京区の松尾南松尾山を貫線していました。
松尾 南松尾山-⛩️明治天皇伏見桃山陵-⛩️皇大神宮内宮



🥰松尾とは、神皇正統 第九九代 松良天皇の子孫を意味する串呂地文で、南松尾山の南は南朝と解読できます。㊗️🌈🍀🎯💯
⭕神皇正統とは、往昔、崇神天皇の御代に創始された皇室制度で定められた「三種の神器(形代)」を継承した天津日嗣の天皇という意味です。
☀️神皇正統家の略系図

松尾南松尾山は、⛩️松尾大社(京都市西京区嵐山宮町)の西方に位置する山岳名のことですが、松尾二串 -🔴-🔴-に相当する串呂地文で、南朝の松良天皇の子孫をあらわすと解読できるのです。
🎯さすがに、⛩️皇大神宮内宮を起点とした神風串呂です!💞㊗️🍀🌈🌄
(1)偶然の現象ではない!
この「松尾 南松尾山」が、⛩️内宮と⛩️明治天皇陵との串呂上に位置しているのは偶然ではありません。串呂主宰神 天照大御神の串呂計画に基づいて構築されたと考えられます。
(2)いつ命名されたのか!
「松尾 南松尾山」と命名されたのは、この地に秦氏がやってきて、松尾山の神を一族の総氏神として仰いだとされる5世紀以前の大古のことと思われます。
(3)なぜ構築されたのか!
この世に神々の栄光を顕わさんがためであります。
神皇正統 第百代 大宝天皇(1394年-1481年)が、皇威の回復を祈念して大般若六百巻を念書した至誠が通神して王政復古 明治維新が計画されたのです。
大宝天皇(美良親王、号宗心、後称 三浦藤太夫)は、三浦芳聖師の著書『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』によれば、遠江国京丸で誕生し、父は松良天皇、母は綾子姫(長慶院法皇王女)である。1410年(応永17年)に松良天皇より譲りを受けて践祚し、1438年(永享10年)に三州切越に隠棲した。皇威の回復を祈念して大般若六百巻を念書し、至誠通神、享徳3年(1455年)に天照大御神から御神諭を賜って牧平大門に移住し、三種の神器を地下深く埋蔵して天之岩戸籠りとし、皇后三浦佐久姫の姓を名乗って三浦藤太夫と称した。
💞三浦芳聖師が公開した「明治天皇 南朝 松良天皇 王孫説」を証明する地文「松尾 南松尾山」を貫線していましたので、これは重大な神風串呂の解明が始まる予兆と直感した次第です。
💞「松尾 南松尾山」の存在は、「Google.map」を始めとするWEB地図のお蔭で明らかとなりました。三浦芳聖師の時代に使用していた国土地理院発行の地図では、印字されておらず、発見することは不可能だったのです。
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明治大室王朝の神風串呂
明治大室王朝説をあらわす神風串呂を21本以上まとめたマガジンです。明治大室王朝説とは、明治天皇が南朝の王孫「大室寅之祐」であるという仮説で…
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