💟正統の天皇が天の岩戸篭りし三浦藤太夫と名乗った!
🎀串呂哲学研究ノート 第3号
1、三浦芳聖による日本発の新発見

愛知県田原市に「蔵王山」という標高250メートルの山があります。その蔵王山展望台は、360度の大パノラマを満喫できる観光スポット(渥美半島の東の玄関口)になっています。

この蔵王山は、平安朝末期、三重県熊野地方の一族が移住して山岳信仰の中心地とされ、江戸時代には田原藩の「狩り場」として利用されました。
しかし、現在この蔵王山という地名が「神皇正統の天皇が民間に隠れた!」という意味を秘めていることを知っている人は皆無に近いと思います。
地名(地文)に秘められた天地神明の啓示を解明する学問が神風串呂(串呂哲学)であります。
三河吉野町の事蹟を研究した山口保吉著『芳花鶴水園の聖地』(1943年)は、この神風串呂と呼ばれる地文学の草分け的研究書でありますが、
三種の神器を継承した正統の天皇が、愛知県岡崎市牧平町大門に隠棲して三浦と名乗った史実を解明し、世界で初めて天下に公表したのは三浦芳聖師であり、これは三浦芳聖師による日本発の世界的な新発見であります。

2、大門三串 -🔴-🔴-🔴- の串呂を解明
串呂哲学とは(1)の「串呂哲学解明の経緯」で述べましたように、三浦芳聖師の父、三浦市次郎(宗心之命)が、今わの際に上半身を起こして布団の上に座して絶叫した「奥郡の 蔵王山より木曽の三浦山を見よ!」」が神風串呂解明の糸口となりました。

三浦芳聖師は、この串呂を解明する為に、蔵王山に10年間に6回も登り三浦山の方角を眺めて見たそうです。そして、学生時代のある時には蔵王山から三浦山まで野宿しながら行脚したこともあったそうです。
大正7年(1918)3月、三浦芳聖師は、数え年15歳で上洛、中学および専門学校で学びましたが、その学生時代のある日、ふと思いついて
父親が断末魔に絶叫した言葉「奥郡の蔵王山より木曽の三浦山を見よ!」の意味を解明するため、20万分の1の地勢図を繫ぎ合わせ、地図上の愛知県田原市の「蔵王山の山巓」と長野県木曽郡王滝村の「三浦山の山巓」とを糸で結んで見ました。
すると不思議なことにその線上に、芳聖師の出生地の「牧平大門」(岡崎市牧平町大門)が通っていたのです。
⛰️蔵王山(田原市)-牧平町大門(岡崎市)-⛰️三浦山(長野県)
芳聖師は、神秘的な思いに包まれ、この線上に位置する他の集落の「地名」を調べてみた所、
出生地の
🟡愛知県岡崎市牧平町「大門」のほかに、
🟡岐阜県中津川市付知町の「大門」、
🟡愛知県蒲郡市大塚町の「大門」と、
同じ「大門」という地名が三箇所も通っていることを発見したのです。

芳聖師は、⛰️蔵王山-大塚町大門-牧平町大門- 付知町大門-⛰️三浦山 の線上に何か重大な啓示が秘められているのではないかと直感し、さらに研究を続けましたが、すぐには解明に到りませんでした。

この「⛰️蔵王山」-「大門三串」-「⛰️三浦山」の串呂の意味が解明されたのは、父親の遺言に従って、数えの21才になって徴兵検査を済ませた後、
大正13年(1924年)6月30日、芳聖師が三浦家に一子相伝・極秘で伝承された古記録(系図その他の文書)を地下から掘り出して読んだ時のことでした。
その古記録には、後醍醐天皇から皇位を継承した代々の天皇の事蹟が細々と記され、三浦家はその直系の皇孫であると書かれてありました。
その古記録の主な内容は、
🟣『三浦芳聖- Wikipedia』(三浦皇統譜)をご覧下さい。
芳聖師は、この古記録を読んだ時、⛰️蔵王山-大塚町大門-牧平町大門- 付知町大門-⛰️三浦山 の意味が「王(天皇)が天の岩戸篭りをして三浦と名乗った」と解釈できたので、
三浦家に伝承された古記録の内容に確信を得ると同時に、串呂に秘められている地文の重大性を感得したのでありました。
芳聖師は、三浦家に伝承された古記録の知識を元に、さらに串呂の研究を進め、改めて、⛰️蔵王山-大塚町大門-牧平町大門- 付知町大門-⛰️三浦山 の意味を考察した時、
神皇正統の天皇が天の岩戸篭りした事を、天地神明が地文に秘めておかれたのだと理解され、一気に串呂哲学の要諦が解明されたのでした。
芳聖師は、『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』の序文で、この一本の神風串呂の意味を解明するまでに満13年間かかったと述べています。
それでは、「⛰️蔵王山」-「大門三串」-「⛰️三浦山」の串呂を、さらに詳しく、個々の地文についても、その意味を分かりやすく解説して参りましょう!
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