野蛮なる人間不信文明
ちゃんと考えていますか?
為政者というのは、時に勝手ですよね。
いや、為政者は「やらされているだけ」のただの傀儡なのかもしれず、一体、誰が政策決定の黒幕なのか、知れたもんじゃないですが。
2月28日、アメリカのトランプ大統領がイスラエルとともに、イランにたいし「大規模な戦闘作戦」を開始したと、メディアが報じました。
しかし、どうなんでしょうか。この情報がフェイクではなくて真実なのだとして…
「ドナルド・トランプ平和研究所」なる平和評議会の会合で、イランを「現在世界で最も注目される紛争地域(hotspot)」と規定したうえで、攻撃の2日前には、アメリカとイランは、イランの核開発計画をめぐる間接的な協議をするも合意にいたらず、協議終了となってしまっていたとのことです。
「対話」が決裂したら、軍事行動に訴える。
それではなんのための会合だったのか、わからなくなります。
あるいは最初から「計画」があり、なにもかも口実作りの手続きだったのかと勘繰りたくもなります。
なんでそんなことするの?
気になるのは、今回の戦闘行動でどれくらいの犠牲が出ているのか、です。
ChatGTP君に質問してみると、まずイラン側は軍・政府幹部の死傷者や施設破壊が多数発生。ついで米側は三人の米軍兵士の死亡と五人の負傷者が出たと伝えられる一方、イラン南部のミナーブという所にある女子小学校へのミサイル攻撃で多数の死傷者が出たと、イラン国営メディアや国際報道により伝えられたそうです。
(小学校攻撃の犠牲者のほとんどが児童であるとのこと。イラン側報道によれば、その数100~180人にものぼるということです)
普通の常識からすれば、攻撃すれば死者が出る、というのは必然で、意思決定機関の最高権力者は、それを承知で決めたことでしょうから、「命を大切にする」という価値観や「命を守る立場にある」という責任の自覚からすれば、「このひと、ちゃんと考えているのかな?」と、素朴な疑問や不信感をいだくのは、ごく健全な感性、まっとうな知性ではないかと思うんですが。
でも、子どもでもわかるはずのことが、わからなくなっている。そういう大人が今の地球社会、世界各国でもこの日本でも大半を占めているのが現状じゃないでしょうか?
特徴的な思考・感情タイプが数世紀にわたって生き続けている?
では、なぜ軍事行動に出る必要があったのか。
1.核兵器や大量破壊兵器開発を阻止する目的:
米国とイスラエルは、イランが核兵器開発を進めていると長いあいだ主張してきて、今回の攻撃もイランの核関連活動、それによる安全保障上の脅威を理由にしています。
2.安全保障上の脅威の排除:
イスラエル側は、47年以上にわたりイランが「イスラエルや米国を攻撃する意図を持つ」体制だとして、これを弱体化させる目的があったと説明しています。
3.政権転覆(Regime Change)の姿勢:
米国とイスラエルは「イランの現政権が国際安全保障にとって致命的な脅威である」と位置づけ、それを排除する意図を明確にしています(報道ベース)。
4.外交交渉の破綻:
一部報道では、直前まで進められていた外交交渉が決裂し、軍事行動に移行したと伝えられています。これについて米側は「イランが条件を満たさなかった」と説明しています。
以上、これも先述のチャット・ジー・ティー・ピー君がまとめてくれました。(太字強調は筆者による)
鵜呑みにして、ああそうかと納得するでもなく、どうなんだろう、ホントの事はワカンナイよね、とうやむやにするのでもなく、これらを手掛かりに自分の頭で考えてみるに、「起こってもいないことを心配し、最悪の事態を未然に防ごうとしている」ことに気づかされます。
相手国が攻撃してくるんじゃないか。そのために核開発を進めているんじゃないか。
疑心暗鬼といいますか、不安や恐れがベースになっているのは、コロナやコロナワクチンに酷似しています。

ここで思い出したのが、山岡荘八の小説『明治天皇』です。そこに描かれた西洋の「野蛮なる文明」を本質とする「人間不信」の性質を如実に物語る場面があります。鎖国体制を敷いたわが国の国法を犯させて交易を開こうとする米大統領の命を受け国書を受け取らせようと大砲(おおづつ)をそびやかした旗艦サスクエハナ号以下軍艦四隻からなる艦隊でやってきたペルリ(ペリー提督)が、それ以上入らない約束を破り江戸湾の内海で何回も測量を行い、ようやく久里浜の仮設応接所にて国書の受け渡し式が行われる場面で信じられない挙に出ます。ちょっと引用してみます。
「香山と中島(*筆者註…浦賀奉行の与力)の案内で、ペルリ提督が応接所に入ると同時に、また一つ日本人をびっくりさせることが起こった。というのは、あらかじめ命じられてあったと見えて、ペルリの着席の場所が香山によって示されるや否や、バラバラと、六、七十人の陸戦隊員が、手に手に六連発のピストルを構えて上段の間に土足でなだれ込んで来たことだ。したがって、一段低い広間の床に平伏して迎えていた礼儀正しい日本人は、彼らの土足にふみつぶされたように小さく見えた。これを見て応接の武士たちが歯がみをしないわけがなかった」。
「もしこれが今日のことであったら、どうであろうか。大切な外交上の儀式の席へ、ピストルを構えた武装の兵をなだれ込ませ、これに取り囲ませて議事をすすめる……まさに無頼漢以上の暴挙であり、無礼である。
したがってこのような会見に友愛や信義の通じあうはずはなく、それ以後の一座の空気は、まことに珍妙きわまる喜劇になった」。
山岡荘八が描き出した「人間不信」文明を形成する生きものとしての想念(未浄化なエレメンタル)は、今も生き続けているように思われます。
(文責: 言海 調)

為政者は皆、ほぼ独善的で自分勝手な気がします。そして言海さんの指摘どおり、その勝手さが傀儡の場合もありますよね、きっと。
『ドナルド・トランプ平和研究所』の分析なんて信じられませんよね。とかく政府や為政者主宰の研究施設の分析というものは、自分たちの政治信念の都合、論理に合わせているにすぎない気がします。
アメリカとイランとの「対話」というのも結果ありきの協議だったのでは?
まさに「対話」をしたという口実作りだというのもそのとおりだと思います。
そんな人たちの決断による戦闘行動での犠牲はおそらく計り知れないでしょうから悲し過ぎます。
メディアの報道も自分たちに都合の良い状況を示すだけでしょうしね。
我々にとって大切なことは、報道で示せられていることに対して、自分事として想像できるかどうかです。
ただ、災害にせよ、戦禍にせよ、それをそのまま想像して受け入れることはとても難しいでしょう。人間は自分および身近な人に災いが降りかからないとなかなか自分事として想像することは難しいです。しかし、少しでも触れ合いのあった人のことであれば、想像しやすくなるでしょう。その点では昨年の大阪万博のような、国際交流ができるイベントでは新しいテクノロジーに触れることよりも、異国の人々との交流が大切です。今まで名前すら知らなかった国の人々と交流することで、その人々を身近に感じることができます。
たとえば、交流した人々の地域で紛争や災害が起きた場合には、我が事として関心を寄せることができるでしょう。
為政者だって一人の人間としてはそうであるはずです。自分の身近な人に災厄が見舞うということに思いを馳せればいかがでしょう。そうすれば大量殺戮なんてできないはずなのです。なのに暴挙に及ぶということは、その心の装置が破綻しているか、何らかの利益のために故意に封印しているのではないでしょうか。それをサイコパス的行動と単純に言っていいのかどうかはわかりませんが、命の重さという観点が喪失していることは確かです。
対岸の火事どころか全く関係のない星での出来事として片付けられるのかもしれません。
地球内での紛争が消えるためには、いっそ外の惑星からの攻撃にさらされ、地球が一つになって戦えばいいのでは、とすら思ってしまいます。円谷プロの創始者円谷英二氏は「地球は地球人で守れ」と言いましたが、身に沁みる言葉です。
我々は常にそんなことをあれこれと考えるべきですね。思考停止状態になるのはやめましょ。そのために、チャットGPTくんの力を借りるのは大切です。でも、その解答から自分なりの考えを生み出していきたいですよね。
為政者たちであろうが、一般民衆であろうが、さまざまなマイナス情報が出てくると、疑心暗鬼になって、それを裏付けるような情報をほじくり出したくなります。それは仕方のないことかもしれません。でも、それを立ち止まって考え直しましょうよ。
そうそう、言海さんが記してくれた、山岡荘八氏の『明治天皇』に記されたエピソードはショックでしたね。こんな無体な行為がまかり通っていたのですね。
人は「人間不信」、そしてわからないということに対する異常な不安感については、それを払拭するまで追究しないと気が済まないようですが、それは思い上がった考え方だと思います。そして、今のさまざまな戦争における行為は人間同士だとしたら犯罪になるのに国の行為だと犯罪にならず、いとも簡単に違法行動が行えるのですよね。
チャールズ・チャップリンが『チャップリンの殺人狂時代』のなかで述べた、「1人を殺せば殺人者だが、100万人殺すと英雄になる」という言葉を思い出します。
だからこそ、常に為政者、国家の行動に対しては常にチェック機能を持ち続けることが大切だと思います。皆さん、そうしていきましょう! ではまた。
(伊波 達也)
