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熊問題を機に「対話」してみませんか

最近連日のように熊による被害がテレビで報道されているそうですね。
 
うちはテレビがありませんが、この問題にはひとかたならぬ関心があり、人ヅテにそんな状況だと聞き、(やっぱりナ・・・)と、思ったしだいです。
 
この確信は「こりゃどうもオカシイぞ」というものです。尋常じゃない。ちょっと異様なのでは・・・
 
「国民の不安恐怖を煽っているのではないか?」
 
しかし、なんのために?
 
そこで、わたしの中で結びつくのが、4月に参議院本会議で可決・成立した「改正鳥獣保護管理法」です。
 
明治の世から行われている同法は、鉄砲を扱う人間は免許を取得した猟師にかぎるのは当然ですが、その使用範囲も原則住宅や商店の建つ市街地を除くとの定めであり、このルールは長きにわたって変えられたことはなかったのでした。
 
ところが、以下の「法改正の背景」に規定された特別な場合においては、その限りではない、と今年2月に閣議決定で変えられ、すでにこの9月1日より施行されています。

「近年、クマやイノシシが人の日常生活圏に出没し、人身被害が発生するなど、生活環境の保全上の支障が生じる事例が増加しており、とりわけ令和5年度には、クマによる人身被害の件数が過去最多となりました。現行の鳥獣保護管理法は、住居集合地域等における銃猟、人や建物等に向かってする銃猟等を禁止していますが、出没したクマ等が建物に立てこもるなど膠着状態にある場合において、予防的で迅速な対応が求められています。
 本法律案は、このような背景を踏まえ、クマ等の銃猟に関する制度を見直し、人の日常生活圏にクマ等が出没した場合に、地域住民の安全の確保の下で銃猟を可能とするものです。」(環境省ホームページ 報道発表資料より)
 
今までも猟銃を扱える人たち、たとえば猟友会の会員に農作物の食害への対策として、イノシシや鹿を仕留めてほしいという依頼は来たでしょう。
 
でも今回の場合、相手は熊です。しかも出没範囲が市街地のケースとなれば、弾が人にあたる危険性も想定する必要があり、依頼される方が迷惑に感じるのは当然、との見方をする人の話も耳に入ってきました。
 
これから先、どうなってゆくのか、物騒な世の中にならなければよいのですが・・・。
 
前述の法改正と最近のマスコミ報道から、脳裡をかすめたのが、アメリカの銃社会の危うさを描いたドキュメンタリー映画『ボウリング・フォー・コロンバイン』(2002年公開のマイケル・ムーア監督作品)でした。
 
1999年に高校で起きた生徒による銃の乱射で13名(教師1名を含む)が命を落とすという痛ましい事件にアポなしで取材し、それでも銃規制に反対の全米ライフル協会会長であるチャールトン・ヘストン(のかの有名なハリウッド俳優ですよね)への突撃取材も敢行して話題を呼びました。
 
今、学校でタブレット学習の導入が各地で盛んになりつつあるようですが、熊の問題などは、格好の材料にはならないんでしょうかね。
 
子どもたちの見方や意見も知りたい、と思いますが、皆さんはどうでしょうか。
 
ここで思うのが、同じニュースを知り、情報にアクセスしても、どう受け取るのかは、人さまざま、各人各様だということです。
 
違いを考えたとき、まず物事の原因(どうしてそうなるの?)に意識が向くタイプ、
 
あるいは結果だけ見て、好不都合、好き嫌い、安全安心か危険恐怖かの観点から、それらの対象を排除するタイプとに大別できるのではないかと思ったのです。
 
私たちの体とつきあう場合でも、同じことが言えないでしょうか。体調不良や病気の原因に行く人、結果である症状を取り除こうと医者や薬に頼る対症療法的な方向へ向かう人。
 
さて、いつものように「対話」による問題解決に明るい希望を見出そうとしたとき、上の二つのタイプのうちどちらにより多くの可能性が期待できそうかと問うことができるかと思います。
 
私たちが心静かに原因も含めて起きている事の全体性やプロセスをまず「観察する」態度を取れば、柔軟で深い「思考」が可能になってきます。
 
そうすると、「対話」が力を発揮する機会は増えてくるのではないかと、考えるのがふつうではないでしょうか。
 
これにたいして、切迫感に駆られて一つの方向に性急に事を「推し進めようとする」ならば、選択の余地は減り、「思考」の自由度も制限されてくるでしょう。
 
その場合は、「対話」が力を発揮する機会も減ってくると、考えられます。
 
でも、その「対話」とは、具体的には何との対話になるんでしょうか。
 
熊にとっては食料となるブナやミズナラの実を提供してくれる山の「自然」や「環境・気候条件」との対話。
餌を求めて人里に熊が降りてくる「状況」との対話。
冬眠や食べ物探しから出産・子育てまで1年~多年にわたるサイクルをとおして暮らしている「熊」との対話。そして、熊の被害に遭った人や常に不安にさらされ熊と共存してゆかざるをえない「地域の住民」との対話。
これから山道を歩こうとする「登山者」との対話。
「猟師」との対話。「動物愛護団体の人たち」との対話。
 
そして、最終的に大切なのは、この問題を自分もその中に生かされている国土や自然環境や多様な生物の一部として考える、「自己内対話」の視点ではないでしょうか。
 
これがあるとないとでは、形成される世論に大きな隔たりが出てくると思われます。
 
今の時代は、情報にアクセスするのは容易いため、とかく独りで情報を知り、即座にイメージを結んだり、よく考えもしないで「これはこういうことでしょ」とか、「そうするしかないでしょ」と、判断を下したりということになりがちです。
 
今までの自分の「反応パターン」や「持論」に気づいて、これを見直したり、検討したりする余地が出てくるとしたら、誰かほかの人と話してみる、他者間対話の機会をもつことに負う部分は大きいのでは、と思います。
 
先日、長年音沙汰のなかった昔の畑と田んぼの活動をともにした知人から連絡があり、の食事会(ジビエの猪肉が入る)に誘われて行ってきました。そこの一帯は、猪、鹿、熊、狐、狸、アライグマ、ハクビシン、穴熊、リス、野ウサギのほか、驚いたことには天然記念物のカモシカまで、およそ日本の山々に棲息する動物でいない種類はないというくらい、多様な野生動物がいる山でした。

罠猟師をしているという若い方に熊の問題にたいする意見を聞かせてもらうことにしました。すると、山に近づく今の人たちは「知識がない」のがまず問題だ、という意見でした。登山に先立ち、熊の出没の危険がどの程度あるか。有効な対策と装備。アメリカでは山中におけるゴミ捨ての際に熊の餌にならない分別の対策が取られているのに日本はこの点、制度に問題があること。
そして、独自の見解として、住み分けの徹底化のためにそもそも熊の生活圏である山に柵をめぐらし、餌を求めに人間の生活圏に越境してこないように果樹などを植えてあげるなどして、ときどき人間のほうが山に訪問する、といった感覚をもつ、といった意見も話してくれました。
 
熊の食料不足や人間による餌付けから本来は人を避け、必ずしも肉食ではない熊が肉食化してしまうと考えられる原因以外に、むしろ熊を過度なストレスをあたえて「不穏」にする人為的な操作がなされている疑いがある、という見方をしているのは、わたしだけでしょうか。
 
キーワードは「電磁波」です。この問題に関して、太陽光パネルの設置や北海道新幹線、高圧線のことを口にする人は少なからずいらっしゃるようですが、話はもっと意図的、計画的にこれを利用するということにおよびます。(電磁武器システムは、米ソの冷戦時代のMKウルトラ計画と並び、洗脳や脅迫などの手段として実際に使用されてきました)
 
色んな見方があり、多様な意見が出たりするのは、同じ一つの事実でも、見る人により、捉え方、考え方が違うからですね。それもしかし、それぞれの人の中で終生変わらないとはかぎりません。
 
何を邪悪とし、何をまっとうとするかは、一人ひとりの良識にゆだねられる、リテラシーの問題です。
 
一つの見方や考えに鋳型のように嵌まりこみ、いつも決まった硬直した姿勢で現実に処する人生よりは、問題ごとに自由に思考を羽ばたかせて、よりよい現実を創造してゆくことこそは、私たち人間のすばらしい可能性ではないでしょうか。
 
そのためにも「対話」は、大いに活用すべきものではないかと、個人的には考えております。
 
「対話」の「妙味」とは、頭の中にぎっしりと詰まり固定化した観念や信じこみを最小単位である量子(クォンタム)状に細かくバラして、隙間のスペースを広くあけたところに、清新なアイデアが流れ入ってくるという、(まあ、対話の場そのものが生産的なスペースですけどね)そんなイメージでしょうか!
                     (文責 言海 調)

🚢 QDSディレクター/エディター・伊波達也のコメントを以下に載せています

今回も重要な問題に対しての物言いでしたね。
言海氏が指摘しているとおり、「熊による被害」にはさまざまな側面が見え隠れしていると思います。
まずは、猟銃規制の緩和、『改正鳥獣保護管理法』の成立ですね。
熊による(猿など他の動物の場合もありますね)人身被害を抑止するということはわかるにしても、それで猟銃規制が緩くなってしまうのはどうかなぁ〜です。
もちろん、確実に増えている被害に対する策を講じなくてはいけないと思いますが、
マスコミによる加熱報道が、猟銃規制を緩めるためのマッチポンプだったらいやですよね。

そして、ここで思うのは、「熊による被害」問題に限らず、あるニュースに対して、どう受け取るかという点について、「子どもたちの見方や意見を知りたい」というのはありますね。
”子どもの心”での反応はどのようなものなのかには興味があります。ただ、ある一定の年齢に達すると、周囲の人々や情報の影響が出てくると思いますので、子どもたちにある情報を提供して、その情報から何を感じるのか、そこにどういう意味を見出すのかというトレーニングを繰り返すことは重要なことだと思うのです。そのような授業があってしかるべきだと思うのですが・・・。

ある事象に対して、「好不都合、好き嫌い、安心安全か危険恐怖かの観点から、それらの対象を排除する」タイプと「物事の原因に意識が向く」タイプという話がありましたが、この違いを考えることも重要ですね。

身体の症状に対して、対症療法で排除しようとする人と、症状の意味を考えて、その根本原因を除くにはどういう策を講じればいいのかを考える人がいるというのもそのとおりでしょう。僕は後者の方に断然シンパシーを感じます。

さて、「熊問題」に話を戻すと、マスコミ報道、特にニュースは、「熊問題」の事実を報道するとともに早急な対症療法を講じるべきだという文脈になりがちで、根本原因に迫ることはしません。もちろん、原因究明にフォーカスするようなルポルタージュがあるとは思いますが、多くの人々は、原因究明よりも、まず、いかに対処するかという方に関心が向くのではないでしょうか。

しかし、未来の世代へという長いスパンで考えると、決して解決はしないし、発展性もないと思います。だからこそ、根本原因を考える「対話」をする機会を持つべきです。自分との対話でも、人との対話でも、書物との対話でも、自然との対話でもいいですが、レンジの広い対話が必要でしょう。

個人的には、対症療法と原因究明が3対7くらいでハイブリッドし、柔軟性を持って考えることが理想的な気がしていますが、原因究明に重きを置いて考えたほうがいいことは確かです。

言海氏の知人との食事会でのエピソードは興味深いですね。インタビュー記事として読んでみたい気がします。

「電磁波」問題という側面も興味深い話で、これも未来の日本の危急存亡に関わることなのでは、と感じてしまいます。

「一つの見方や考えに鋳型のように嵌まりこみ、いつも決まった硬直した姿勢で現実に処する人生よりは、問題ごとに自由に思考を羽ばたかせて、よりよい現実を創造してゆくことこそは、私たち人間のすばらしい可能性ではないでしょうか」 実にそのとおりです。

フレキシビリティを持って、フラットに、マルチパラダイム=いいかげん=良い加減に考えることはとっても大切なことであると、僕も常々考えています。

引き続き、さまざまな事象で「対話」ということについて考えてまいりましょう。
クォンタム・ダイアローグ・スペース(QDS)を引き続きどうぞごひいきに!
ではまた。

                    (伊波 達也)


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