食をどう知覚するか―聞き書きという行為の有用性?―



1.「語る」という営み、その記録


 以前、NHKで「今のうちに聞いておかないと一生後悔するよ」という番組が放送された。テレビ画面には、オイルショックを経験した70代の両親に、50代の長男が当時の生活の様子を聞いている様子が映し出された。

オイルショック。番組とは関係ありません。
コロナ禍だと、なんか密着具合のほうが気になるね。
https://jaa2100.org/entry/detail/057069.html  より転載



 一般の家庭において、両親が子供に対して過去の事象を語る様子を、テレビというメディアを通して私が見ているという状況に、良い意味での違和感を抱いた。それは語るという行為に対して向けられる視点が、単なる手段としてではなく、対象としての側面を持っていたからだと思う。

今のうちに聞いておかないと一生後悔するよ 「オイルショック」 - レギュラー番組への道 - NHK


 この番組は、ある家庭における「語る」事例を取り上げることで、番組を視聴した人々に対して、取り上げられた事例を手本とし、実際に聞き取りを行おうとさせる働きかけをしていた。テレビ局の意図として、番組の題名からも明らかではなかろうか。

 同時に、オイルショックを経験した世代に自らの記憶を思い返す機会を与え、またその記憶を他人に語ることを助長する効果があった。全く知らない他人の記憶に関する語りをテレビという媒体を通して見聞きし、自らの記憶をよみがえらせるという営みは、一時的とはいえ他人に対して自分との関係性を一方的に構築し、他人の記憶を介在することではじめて自分自身の記憶が呼び戻されるという、大変興味深い営みだといえるだろう。さらに呼び戻した自分の記憶を語るという行為を通じて、より形あるものとして自分の記憶が再出する。

 さて、民俗調査においては、多くの問題点が指摘されながらも、いまだ聞き取りという手段が大きな役割を担っている現状がある。聞き取りにおいては、調査者の意図にかかわらず、被調査者の個人的な記憶、すなわちライフヒストリーが登場する場面が多くある。

聞き取り調査の様子。こんな感じかな(多分違う)。
https://www.hashikami-machikyo.jp/2019/06/28/%E9%98%B2%E7%81%BD%E5%AD%A6%E7%BF%92-%E8%81%9E%E3%81%8D%E5%8F%96%E3%82%8A%E8%AA%BF%E6%9F%BB%E2%91%A0/  より転載


 戦前、民俗学者の宮本常一は、左近熊太という一人のお爺さんの話を聞き取って記録した。左近の膨大な語りは、宮本によって活字として記録された。今日、宮本常一著作集の中に収録された『河内国滝畑左近熊太翁旧事談』は、左近の聞き書きの一部がまとめられたものである。左近熊太という一人の人物を通じて、左近自身だけでなく、左近の住む周辺地域の社会情勢、そして彼が生きた時代までもが、見事に描き出された。

 私がこの本を読んで今でも感動するのは、語り手が経験した過去の記憶を、何らかの事物や感覚を通じて、自らの記憶と無意識のうちに結び付けているからだと思われる。

これを読むことでしか、得られない栄養が、あるんだな。


 生活の様々な事象の中でも、特に「食」に関しては、味覚や嗅覚などあらゆる感覚と結びつきやすい。その性格を持っているため、100年ほど前の生活とはいえ、今の私たちの生活と関連付けやすいのではないかと思う。

 ここでは、私が行った民俗調査のうち、あるお爺さんが実際に経験した子供のころの食の実践を聞き取ったものを紹介する。お爺さんは日本のある地域の山間部に住む方で子どもの頃に父親が戦死して、母子家庭で育ったという。長年農業を生業として生活してきて、現在80代半ばである。

 私が聞き取りを行ったのは、のべ20時間以上にわたる。このうち半分以上の時間が衣食住に関わる事象であり、食に関しても、子供のころから現在まで経験した様々な食の経験を詳細に語って下さった。この事例を一部紹介し、食文化に関する語り、それを聞き書きするという行為を通じて、他人が知覚する可能性を考えてみたい。

2.ある翁の食の記憶―2019年7月のフィールドノートから―


 朝食はチャノコ、昼食はヒルメシ、夕食はヨメシと呼んでいた。主食は、サツマイモ・サトイモ・ダイコンの葉を米や麦に入れて食べていた。コーリャンを入れることもあった。朝食は、お茶漬けを食べることが多かった。米は、昼と夜の温度差の大きい山つきの米がおいしいという。もち米も山つきの方で穫れる米が粘りが強い。今は下の方も土壌改良や品種改良でおいしくなった。

 調味料はその多くを自分の家で作っていた。砂糖はトウキビから作る。近くに砂糖絞め所があり、そこでトウキビを絞ってもらう。戦後はサッカリンやミツゲンといった錠剤の甘味料が広がったため、主流となった。戦後しばらく白砂糖は流通していなかった。醤油は大豆や麦から作る。醤油甕に入れていた。味噌は大豆や麹から作る。味噌甕に入れ、味噌部屋に置いておく。味噌部屋は土壁になっており、温度の変化が小さいため、味噌以外にも漬物・塩・醤油などを置いていた。酢は、供出されない質の悪い米と麹などの材料を甕に入れて作る。甕は少しだけ頭を出して土に埋ける。水が入らないよう油紙のようなもので甕に蓋をし、その上に銅でできた一文銭を載せておく。一文銭が青くなったら酢が完成したという。塩は店から買ってきて叺に入れておき、その叺をショウケに入れて使っていた。叺の一番下にはニガリができるため、豆腐を作るときに使われていた。

 茶の木はほとんどの家にあったため、新芽を摘んで使っていた。ただし、茶色であまりおいしいものではなかった。
 蒟蒻はコンニャクイモから作る。コンニャクイモはあちこちから生えてくるため、取ってくる。

 酒を造ることは禁止されていたが、多くの家で自家用のどぶろくを造っていた。そのため、頻繁に税務署が監視に来ていた。税務署が来ると、見つからないよう必死に隠したという。豚小屋に隠すなど、税務署が調べたくないような場所に隠すこともあった。

 漬物を漬ける時は一年分漬けていた。漬物は「良かおかず」であり、いくつもの大きな樽に漬けていた。漬物には大根・人参・蕪・牛蒡・葱が多く漬けられた。主に味噌漬け・大根の千本漬け・梅干し・ラッキョウが多く食べられた。味噌漬けは瓜をはじめ大根・たっちゃき豆(ナタマメ)・茄子など様々なものを漬ける。野菜は、必ず塩で水分を出してから漬ける。梅干しは梅の実を収穫した後、塩漬けにし、三日三晩干す。

 餅は保存食として一年中食べられていた。餅つきは12月28日に行う年が多い。29日の餅つきをクモチと呼び、苦を餅と一緒につき込むと言って避ける。大量につく家が多く、中には一俵(60㎏)分の米で餅をつく家もあった。一人で一俵もの餅はつけないため、数軒で集まってモヤイヅキをする。子供は、座敷の畳を上げ蓆を敷いた上についた餅を並べる。皆で親睦も兼ねてご飯を食べるのが楽しみだった。神仏などに供える餅やねずみ餅も一緒につく。ねずみ餅は「ネズミに食べさせると」と言い、丸めて小さな餅を作り、屋根裏に置く。ネズミは人が見習うべき手本とされており、休まずよく働く人を「あの人はこまねずみのごとよおはたらきなあ」と言う。また、ねずみ年生まれの人はよく働くと言われ、「ねずみ年生まれの人はちょろちょろさっしゃあね」とも言う。また、正月になったら乾いた餅を叺に入れて保存する。

ねずみの形の餅。
本文の「ねずみ餅」とは一切関係ありません。
載せる必要も、ないんだな。
https://oceans-nadia.com/user/44604/recipe/384359  より転載
 

 子供のおやつの中心は、お米をショウケに入れて乾燥させたものを粉にして、きな粉や砂糖と混ぜて食べる干し飯だった。また、果物をとって食べることも多かった。野苺・クワノミ・ムクノミなど持ち主のない果物のほか、グミ・梨・枇杷・梅・柿・ヤマモモ・夏みかんなど人の家や畑に植えてある木からもとって食べた。当時、渋柿・甘柿・ヤマモモはそれぞれの家に一本ずつくらい植えてあったという。夏みかんはすっぱいため炭酸や塩を付けて食べた。梨は梨畑を持つ家が三軒ほどあり、川に泳ぎに行く時こっそり採って、川に沈めて食べていた。かつては、若者が吊るし柿や庭になった果物をとるなどの多少の悪さをしても、「青年の仕業」として咎められることはなかった。子供のころ、近くに住むお爺さんから聞いた話では、昔(明治中頃の話であろうか)、ある若者は、隣村の家の囲炉裏に掛けてあっただご汁を鍋ごと持って帰ってきた。仲間と数人できれいに食べてしまった後、鍋はどうしようかということになり、また鍋だけ返しに行ったという笑い話があったという。

 山の上の方には植林を行っていない草山があり、牛のえさとして草を刈っていた。そこでは、ツワ(ツワブキ)やゼンマイ、ワラビなどの乾燥させて保存がきく山菜や笹栗(小さい栗)を採っていた。山中には自生しているヤマイモをとりに行った。子供でも一回に十本以上取れていた。掘りやすい土に生えたものよりも赤土の粘りの強い土に生えたものの方が粘りが強くおいしいという。

 川ではドジョウなどの魚を捕ったり、タニガネ(沢蟹)を取ったりした。獲物が入ったら出られないように作った網を仕掛けておいて獲った。沢蟹は川の上流の山つきでとれるものの方が色が濃く、茹でると真っ赤になり味が良いという。水路でも野菜かごを置いておくと、沢蟹が入ることがあった。川魚は串に刺して焼いて保存用にした。 田ではイナゴを捕った。昭和30年代の稲を消毒するようになる前までは、草を食べるイナゴが多かったため、瓶に入れたり、草につないだりして家に持って帰った。
 小鳥はお宮の近くで罠を掛けて獲った。スズメ・ヒヨ・カッチョウ・メジロなどを獲った。小鳥の骨はすごく柔らかく、焼いて食べた。鳩くらいの大きさの鳥はお雑煮にしたら良いだしが取れる。
 鶏は家で飼っていたが、滅多に食べることはなく、田植えや稲刈りが終わった後など特別な時にしか食べなかった。「家族の多かけん、にわとりごはんたきなったらね、明くる日はあさおきしとかなもうのおなっとう」という。

 タヌキは年寄りの人が食べていた。イノシシはいなかった。キツネは鶏を襲いに来たが、食べなかった。赤犬がおいしいという話を聞いたこともある。ウサギは家で飼っており、さばいて食べた。野生にいるのも罠で獲って食べた。

 夏は川、冬は山で食料を主に取っていた。冬、山に行くときは、飯盒のような弁当箱に米・漬物を入れて持って行った。水は谷川の水をすくって飲んでいた。

3.「語る」という行為と聞き書きの有用性


 上にあげた食の記憶は、お爺さんが語った通りに文字化したものではない。それでもこの語りを読み返すと、何度も読んでいる自分でさえ、毎度感動を覚えるのである。無意識のうちに、お爺さんが経験した食について、その味覚や嗅覚を自分の経験と結びつけたり、自分が見聞きしたことと関連付けたりしている。これは決して私だけではないようで、その後に実施した調査においても、このお爺さんの語りをまとめた文章を読んでもらうと、多くの方が自分も昔のことを思い出したと言う。

 これについて、川松あかりは、かつてドイツの経験的語り論を牽引したレーマンの事例を取り上げて解説している(川松2021)。ある語り手は、第二次世界大戦末期に、ロシア軍兵士にレイプされる前にプリンの粉を説いただけのプリンスープを食べたことをはっきりと記憶していた。レーマンは、経験された状況を覆う雰囲気が記憶に残り、語りに情緒的な質を与えるという。雰囲気は、空間やそこにある事物を介して、個人の主観を超えて知覚されうる。プリンスープは、コンビニのプリンと似ているのに何か違う。川松はそれが、語り手が実際に経験した過去の雰囲気と心情を聞き手に突き付け、実在への回路を開くとした(川松2021)。
 
 語りという行為は、経験を、そこに内在する雰囲気や心情を介して、他人に知覚される可能性を有している。食に関する語りにおいては、特にそれが顕著といえるのではなかろうか。語るという行為、またそれを記録する、聞き書きの有用性について、今後も検討していく必要がある。

参考文献

川松あかり 2021 「語り」『民俗学の思考法 〈いま・ここ〉の日常と文化を捉える』慶応義塾大学出版会

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