【短編小説】『空に近い、あの場所で』 #ソウルメイトと私
視界のすべてが空だった。
流れる雲が太陽を隠してくれていたので、白と青を見続けることができた。
背中に伝わるコンクリートの地面は冷たい。
風よけがないから、肩まで伸ばした髪が揺れて乱れていた。
制服も、枕代わりのカバンも汚れているだろう。
でも、いい。今日で最後だから。
しばらく空を見ていると、体育館からマイク越しの声が届いた。
卒業式が始まったのだろう。
本当ならあそこにいるはずだった私は、ここにたどり着いてしまった。
誰かにバレたら、式に出よう。
屋上の扉が閉まっていたら、式に出よう。
ただの思いつきの、勝つ気のない賭けは、なぜかあっさり通ってしまった。
そして私は、欠席のメールを送った。
『体調不良のため』
最後の日に、初めてのズル休み。
これまでずっと‘’真面目な生徒‘’と見られてきた私は、心のどこかにあった違和感に気づいていた。
自分の意思が見えないこと。
見えないまま正しいとされる道を進んできたこと。
ついに今日、それを破った。
破ってしまった。
なのに。
「つまんない……」
呟いた声は、風に消えた。
ルール違反をして、嘘をついたのに、気持ちは静かなままだった。
少し寒くなってきた。
心地良い風も、じっとしているとただ冷たい。
普通に式に出るべきだったかな……。
体育館から、卒業の歌が流れてくる。
──せっかく練習したのにな。
流れる曲に乗せて、ひとりで歌い始めた。
空を見上げたまま。
ささやくような声は、だんだん大きくなり、
練習では出さなかった声量になっていく。
変な気合いが入っていた。
ワンコーラス歌って、間奏に入る。
ははっと、誰かが笑う声がした。
遠くからじゃない。
屋上の、どこか。
「……誰?」
私は身体を起こし、声のした方へ顔を向けた。
少ししてから現れたのは、制服姿の男子だった。
ポケットに手を入れたまま、気だるそうに歩いてくる。
目元にかかる、くしゃっとした明るい髪。着崩した制服。しなやかな細身の体つきなのに、遠目でも男の骨格とわかる。
見覚えがあった。
隣のクラスの笹原君。
会話らしい会話をしたことのない同級生だ。
私は警戒心から立ち上がる。
彼は歩きながら言った。
「上手いね、歌」
「……どこにいたの?」
「向こう側のフェンスのところ」
間髪入れず返ってきた。
「今日は卒業式だけど、出ないの?」
思わず当たり前のことを口にしてしまった。
「それはお互い様でしょ」
また笑っていた。
……たしかに。
次に知りたいのは理由だ。
「──なんで」
二人の声が重なった。
一瞬の間。
私は手で先を譲る。
そっちからどうぞ。
「ギター弾きたくなってここに来た。そしたらアンタの歌で邪魔された」
ぶっきらぼうな言い方だった。
でも、怒っている感じではなく、むしろ面白がっているように見える。
アンタ……? それに邪魔って……。
「あんたじゃなくて同級生の倉木ですけど? あなたは笹原君でしょ? あんまり学校に来てなかったみたいだけど」
「あれ? オレってそんなに有名?」
わざとらしく肩をすくめる。
警戒心は少し薄れていた。
敵ではなさそう。感じ悪いけど。
「私はただ……開いてたから来ただけ。それだけ」
ふーん、と疑うような顔つきで、
「それだけじゃないでしょ。3組の委員長さんがそんな理由で大事な卒業式をサボらないと思うけど?」
……こいつ、私のことを知ってた。
「聞いてどうすんのよ。誰かに告げ口でもする気?」
「さあ?」
おちょくるように首を傾げた。
ちょっとムカついた。
──もういいや、最後だし。
「ずっと真面目にやってきたから、最後くらい違うことしても私の勝手でしょ? 邪魔されたのはこっちなんだけど!」
私の勢いを受け止めたのか、表情が変わった。
ちゃんと聞く顔になる。
「うん。わかる。ごめんな」
急に引かれて、拍子抜けした。
「じゃあお詫びに、オレのギターでも聴いてみるか?」
やっぱりふざけているのか。
「どこがお詫びになってんのよ」
「それでお互い、おあいこってことでさ」
私は一息ついて、うん、と答えた。
……まあいい。
正直、ヒマだったし。
返事をするとすぐ、
「もってくるわ」
そう言って走っていった。まるでスイッチが入ったみたいに。
私はその場に座って待つ。
戻ってきたとき、抱えていたのは焦げ茶色のギターだった。確かこれは、クラシックギター。弦が猫のひげみたいにぴょんと跳ねている。
「よし、やるか」
迷いがない様子。
私は座ったまま、軽く手で促した。
「はい、どうぞ」
「じゃあ、何にする? さっき歌ってた『3月9日』か?」
「なんでもいいよ、私の知らない曲でも」
「……ん?」
「ん……、て、なに?」
お互いに眉をひそめた。
「いや、知らない曲だと歌えないだろ?」
「は?」
「歌ってよ」
「なんでよ」
「オレのギターの時間、邪魔しただろ?」
こいつは……。
「やだよ! 私だって誰かいるって知ってたら歌ってないし!」
「いいじゃん、最後なんだし。はい、さん、にー、いち」
急なカウントダウンに乗る気はない。
やだ! を通した。
「なんだよ、せっかくヴォーカル入りでできると思ったのにさ」
拗ねたように言いながら、手持ち無沙汰に曲を弾き始める。
そのメロディが、ふっと耳に引っかかった。
どこか懐かしい。
「……知ってる、その曲」
音が少しだけ強くなる。
「ピロウズ?」
弾きながら、軽く頷いた。
「よく知ってるね。今のはエルレのカバーだけど」
ぴたりと手が止まる。
音も、止まる。
「歌えるよね?」
その目に、さっきまでの軽さはなかった。
──無茶な誘いは、これが最後だから。
そんな気がした。
「……わかったよ」
私は仕方なく立ち上がる。
すぐに、ギターのボディを、たん、たん、たん、と指で叩く音。
イントロが流れた瞬間、歌い出しを思い出す。
昔、父の車の中で何度も聴いた曲。
ピロウズの、『Funny Bunny』。
心拍数が上がっているのがわかった。
♪王様の 声に 逆らって──
歌い出しの声は細かった。
隣の声が、そっとリードしてくれた。
引っ張られるみたいに声が前に出る。
気づけば、ひとりで歌えていた。
♪キミの夢が 叶うのは──
サビを歌いきっても、演奏は止まらない。
ワンコーラスで終わりじゃないの?
目で訴えると、首を振られた。
悪ふざけじゃない。
最後までやろうぜ、って顔をしていた。
──応えようか。
♪好きな場所へ行こう キミならそれができる──
歌いきった。
いつのまにか、二人で歌っていた。
ギターの音色が止まる。
目を合わせて、同時に笑った。
こらえていたものが、一気にほどけるみたいに。
笑い止んでから、声をかけた。
「ねえ」
横に並んで座っていた。
「笹原君、高校は行くの?」
少しの間のあと。
「うん、行くよ」
「へえ。意外。海外とか行く人かと思ってた」
「……え?」
驚いた顔で私を見る。
「なんで知ってるの? オレ、言ったっけ?」
「知ってる? 何?」
「オレが進学しないで海外に行こうとしてたこと」
「うわ、本気だったんだ。そんな感じがしたから言っただけなんだけど……」
笹原は苦い顔をした。
観念したみたいに続ける。
「授業なんて意味ないと思ってたからさ。中学もサボってばっかだったし。高校って金かかるだろ? 親に借りを作りたくなくてさ」
私は黙って頷く。
「中卒で海外行ってるやつもいるしさ。英語なんて、やる気あればどうにでもなるし。せっかくなら、色んな奴らと音楽やりたいと思って」
「……いいと思う、それ」
「だよね」
少しだけ間を置いて、続けた。
「でも、じいちゃんに止められてさ。何でも好きにやれって言ってたくせに、高校だけは行けって。ひでーよな」
手に持ったギターを軽く持ち上げる。
よく見たらキズがあり、色も褪せていた。
「これくれたのも、じいちゃんなのにさ」
少し声色を変えて続ける。
「高校は勉強だけの場所じゃねえぞ。友達も、彼女もできる。ムカつく奴もいる。戦って笑え。社会に出るのはそのあとでも間に合う」
思わず、ふふっと笑った。
なんとなく、おじいさんの顔が浮かぶ。
「それで、どうするの?」
「それでも行く気はなかったけどさ」
ふう、と一つ息を吐いた。
「じいちゃん、半年前に死んじゃって」
「……」
「最後まで高校行けって言うから、わかったって。約束した」
「……そっか。それで笹原君は高校進学を選んだと」
「約束だけは守る。それがオレだから」
笹原は立ち上がって、頭をくしゃくしゃとかいた。
「あーあ、こんなこと誰にも話してなかったのに。さすが委員長。聞き上手だな」
私を見ずに、少しだけ皮肉っぽく言う。
「勝手に喋っておいて、呆れる」
でもさ、と続けた。
「理由とか約束があるだけマシじゃん。私なんて何もないよ。夢とか、なりたい自分とか。委員長だって断るの面倒なだけだったし、高校も入れればどこでもよかった。だから家から近いってだけで西校を選んだ」
言い終わって、少しだけ息が詰まる。
笹原が口を開いた。
「……それってさ」
空を見上げたまま。
「それって、生きてる実感とかあんの?」
「は?」
「いや、文句言うつもりじゃねえけど。ただ、そう思って」
胸の奥が、少しだけ痛んだ。
「……生きてる実感がないと、生きてたらいけないの?」
返事はなかった。
風の音だけが聴こえる。
それを終わらせたのは、体育館の方から聞こえてきたざわめきだった。
終わった。
卒業式が。
私と笹原は顔を見合わせて、体育館側のフェンスに向かった。
生徒たちが出てきている。
どうしよう。考えてなかった。
「……オレが先に出るわ。様子見る」
私は? 笹原の顔を見る。
「ちょっとしたら倉木も降りてきて」
勝手な指示だったが、頷いた。
ギターを担いで、足早に歩き出す。
屋上の扉を開けて、振り返った。
「あのさ」
一瞬、間があって。
「生きてる顔してたぞ。歌ってるときの倉木は」
心臓がどくんと鳴った。
「あとオレさー、北高に行くから」
──え?
「そのときはまた──」
言いかけたまま、下の声が近づいてくる。
「あー、もう!」
吐き捨てて、駆け降りていった。
「北高……また?」
──ちょっとしてから降りてきて。
笹原はそう言っていたけど。
その“ちょっと”がどれくらいか、わからないまま、来たときと同じように、いつものペースで階段へ向かった。
階段を下りていく。
四階、三階と下りるにつれて、生徒の声が近くなっていく。
一階は在校生と卒業生が別れを惜しみ、親たちも集まっていて騒がしかった。
私はペースを乱さないまま、昇降口へと進んだ。
下駄箱の前に来たとき、声が飛んできた。
「あー! 理乃!」
友達の一言で、何人かが集まってくる。
「体調悪いのに、大丈夫?」
「会えて良かった」
「今からお見舞いに行こうとしてたんだよ」
重なる心配の声に、私は「ごめんね」と「ありがとう」を繰り返すばかりだった。
そんな中、担任の先生が卒業証書を持って現れた。
「倉木、休んでなくていいのか? ったく、最後までマジメなやつだな」
ほら、と私に手渡す。
「卒業おめでとう。委員長お疲れ様でした」
そのとき、私は泣いている自分に気づいた。どこから泣いていたのかはわからない。
──病欠は嘘なんです。
──サボって屋上にいました。
そんなの、言っても言わなくてもいいくらいに、皆は優しかった。
校舎を出て、校門まで何人かの友達と歩く。
視界の端に、数人の人だかりがあった。
「最後の最後までお前は!」
卒業証書の筒で頭を小突かれている男子がいた。
笹原だった。
「何でカギを壊してまで屋上に行ったんだよ!」
教師のお説教と周りの笑い声の中、そんな言葉が耳に入った。
カギ?
壊した?
──だから、開いていたんだ。
立ち止まった私に、友達の声。
「理乃?」
私は、ううん、と首を振って、再び歩き出した。
ただの思いつきだった、最初で最後のルール違反。
それは思いもよらない出会いに繋がった。
一時間にも満たない時間だったのに、なにもない私の日々より、はるかに濃くて、胸が騒いだ。
「あれ? 理乃、なんか背中汚れてない?」
「ええ? ……なんでだろ?」
今日で終わりだから、汚したんです。
とは言えない。
今頃になって、実感が湧いてきた。
もう遅いよね。
でも──。
校門のところで振り返った。
笹原はまだ囲まれている。
後ろに腕を組んで、小さく頭を下げている。反省のポーズをしていた。
組んだ手のひらが動いていた。
広げた指を、ゆっくりとたたんでいく。
さん、
にー、
いち。
『生きてる顔してたぞ、歌ってるときの倉木は』
また、涙が込み上げていた。
屋上に昇る階段は、常に施錠されている。
それを知っていて、私は昇った。
開いているはずのない扉は、開いていた。
まるで、私の選択を受け入れるように。
またいつか始まるのかな。
空に近い、あの場所で。
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