LOST COMMUNICATION







アートとしての絵なんて、これっぽっちもわからないんです、僕。
もちろん、ステキ!って感動するアートはあります。でも、大抵は「ふーん、なるほど」と説明文を読んで分かった気になったり、感動した気になっているだけ。
でも、うちの次男は言葉が話せないんです。何とか彼を外の世界と繋げてやりたいって思って。その手段が彼が描く絵や文字だったんです。だからアートをわかりたくて。
本当はダイナミックな、カラフルな、あるいは超個性的な、ハッとするようなものを描いて欲しいと思いました。みんなを感動させそうなキャッチーなやつ。
でも、彼の描(書)くものは、アンパンマンだったり、しりとりだったり、おかあさんといっしょのDVDの曲目だったり…。それも家の壁に。描くところがなくなったら壁紙を剥がしてまで描き出すし。書いた文字を自分では発音できないから僕たちに何度も何度もしつこく読ませてくるし(ホント気が滅入るくらいに!)。これじゃアートどころか、いわゆる問題行動の範疇に入っちゃうじゃんか…。


何とか、アート的に意味を持たせたい!と、色々考えてやってみたりもしたんです。
落書きが目立たないように、僕も大きな絵を壁に描いてみました。こうすれば彼に落書きを思う存分楽しんでもらえるし、その壁に生まれた絵は「彼の世界と僕の世界が交差する壁画」とならないだろうか…。

でも、そもそも彼の落書きを「目立たなくする」って意味なくね?と気づきました。落書き対策にはなりそうですが、彼の表現を伝える手段にはなりえませんでした。手間暇もかかったし…。
じゃ、彼の「作品」が主役となる方法はないかなと考えました。
僕がアートの説明文を読んだり、その展示の場の雰囲気で感動した気になったように、アートの提示の仕方で意味を持たせられるんじゃないか?と思ったんです。
そこで、Twitterに「日曜β術館」と題して、それっぽい文とともに彼の「作品」を投稿してみたりもしました。



でも、この説明文は彼の「作品」を面白おかしく(あるいは家庭内の大変さを自虐的に)見せてるだけで、彼の心の内を全く代弁してないなって気づいちゃいました。そう、気づいちゃったんです。
あれ?そもそも僕、彼の心の中を知らないやって。しょーちゃん、パパは君の世界のこと、何も知らなかったよ。どうしたらいいんだろう。何を思ってるの?って。
そんなある日、特別支援学校の連絡帳にこんなことが書いてありました。
『今日は習字をしました。何も課題を与えずに半紙を渡すと「さくら」と書きました。もっと紙を欲しがったので渡すと次は「すいか」と書きました。もしかしてと思い、更に紙を渡すと「もみじ」「ゆきだるま」と書いてくれました!』
これを読んで、彼の心の中を少しだけ覗けたような気がしたんです。そして、書いた文字を僕たちにしつこく発音させたときに安心したようにニコッと微笑んでいたことも思い出しました。

豊かな四季の風景。その中で自由に存在する有機、無機のものたち。それらは時折「しりとり」の順に並ぶ。BGMはもちろん、おかあさんといっしょの曲たち。
その一部を文字に書いて、僕らに発音させることで、自分の世界を共有する喜びを感じたりしていたんじゃないかな。
あくまで勝手な想像ですが…。
みんながアッと驚くようなアートを描いてほしいな。それが社会との接点になってくれたらな。そしたら、僕らがいなくなっても彼は幸せに生きていけるんじゃないだろうか。
なーんて思ってたこともありました。誰かの希望に沿った表現を求めるなんて、自由でも豊かでもないのに。障害児の子育てとか以前の問題ですよね。お恥ずかしい。
誰かの(あるいは自分自身の。以下同じ)世界に、自分の理想の説明文を添えてないだろうか?そうやって誰かの豊かな世界を荒らしていないだろうか。
誰かが世界と繋がろうとしている発信音をちゃんと感じられているだろうか。
僕は八方美人でいいパパ風な発信が多いですが、実際は、イライラしっぱなしです。感情的にもなります。でも次男の世界を知りたいと試行錯誤して少し大事なことに気づけた気がしています。
