見出し画像

怪談百物語#72 浮き輪

昨夏、死ぬ思いをした。
私の祖父は海に近い町で生まれた。
そのせいか、海に行く度「沖には出るなよ。流されると戻ってこれんからな。」と注意を受けていた。
まさかこの歳になって実感する羽目になるとは。
聞いてくれるか。
普段なら誰にも話さない。
信じてもらえないような話なんだが。
あんた、信じるだろ。

別に行こうと思って沖に出たわけじゃない。
友人が飛ばしたビーチボールを取りに行ったんだ。
ようやく手が届いたのはいいんだが、時間がかかり過ぎたのか誰もこっちを見ていない。
影が薄いのは自覚しているよ。
さっさと戻ろうと泳ぎ始めた時だ。
どれだけ泳いでも砂浜が近付かない。
離岸流、ってわかるか?
陸地から沖の方へ流れる波みたいなもんだ。
それに飲まれてしまった。
こういう時に焦っても、体力を失うだけだと聞いたことがある。
幸いビーチボールに掴まっていれば沈むことはない。

遊泳エリアの境目まで流されてしまった。
近くにあったブイ、境界に浮かべてある大きな浮きだよ。
それに座って休むことにした。
時折手を振ったり声を上げたが、砂浜に届いた様子はなかった。
小さく見える友人達は楽しそうに泳いでいたよ。
日が沈んできた。
水温は下がってきて寒くなってきたうえに、飲み水がなくて喉が渇いて声が出ない。
砂浜から友人達の姿が消えていた。
探しに行ってくれたにしろ、ここにいるとは思わないだろう。
最後の体力を振り絞って泳ぐことにした。
半分死を覚悟したよ。
遊びに来て、それも忘れられて死ぬなんて思いもしなかった。

覚悟を決めて部位から飛び込んだときだ。
足元に何かが絡まった。
幸い泳ぐ邪魔になるようなものじゃなかった。
一旦ブイの上に戻って、絡まったものを剥がすことにした。
萎んだ浮き輪だった。
小さなサイズのそれには少し前に流行ったアニメキャラクターが描かれていた。
底に沈んでいたわけじゃない。
沖の海底はだいぶ深く、潜っても届く気がしない。
たまたま流れていたところに俺が足を突っ込んだらしい。

萎んだ浮き輪なんて役に立つはずがなかった。
結局泳ぐ元気もなくしてブイにしがみついていると、誰かが連絡してくれたのだろう。
漁師さんがブイまで船を寄せてくれたんだ。。
助けに来てくれたんですか、と聞くと言葉を濁した。
どうやら違うらしい。
俺は捨てても良かったんだがつい、ビーチボールと浮き輪を持って船に上がらせてもらった。
すると、浮き輪を見た漁師さんが泣きだした。
声をかけようにも号泣していて何も言えない。
渡された水筒のお茶を飲みながら、俺は漁師さんが落ち着くのを待った。

船を運転しながら話してくれた。
漁師さんはずっと、自分の子どもを探してたそうだ。
何年も前に海で行方不明になった子どもを。
海が近いから遠泳も得意だったそうで、いつも学校の友達と泳いで遊ぶ日々。
夏休みになって親戚の子達が遊びに来た。
親戚の小さい子に昔使っていた浮き輪を貸したら、それが流されてしまった。
漁師さんの子は一人で取りに泳いだけど、戻ることはなかった。
この辺りの海は怖い。
慣れてる奴でも流される。
ブイにたどり着けたのは運がよかった。
漁師さんはそう言うと、風呂でも入っていけと俺を家にあげてくれた。

風呂から上がると服を貸してくれた。
改めて礼を言うと「いいから食え。」と食卓には漁師さんとその奥さんだけで食べるには多すぎるくらいの料理が並んでいた。
食べながら話を聞いた。
俺が風呂に入っている間に警察へ連絡をしてくれたらしい。
友人達から創作届が出ていたそうで、彼らには警察から連絡を入れてくれるそうだ。
漁師さんは泊っていけ、と言うので厚意に甘えることにした。
借りた布団に入っていると声が聞こえる。
居間の方へ向かうと、漁師さんとその奥さんが浮き輪を抱いて泣いていた。
二人の姿を見ると俺まで泣けてきた。
あの子が助けてくれたのかもしれない。
二人に近づき浮き輪を抱いて三人で朝まで泣き続けた。

翌朝になると友人が車で迎えに来てくれたので、寝不足のままお暇することに。
漁師さんと奥さんに別れの挨拶に伺う。
おお、気をつけてな。と赤みが残った目でくしゃっと笑う漁師さん。
畳の部屋で二人の間に置かれた小さな浮き輪。
おかえり、と迎え入れられていることが伝わってきた。

いいなと思ったら応援しよう!