怪談百物語#30 くし
母から櫛をもらった。
「これね、私が若い頃にいただいたの。九州旅行のお土産なんですって。しばらくお手入れしてないけどよかったら使ってみて。」
渡された飴色のつげ櫛。
最近髪を伸ばし始めた私へのプレゼントだそうだ。
「あなたもそろそろ身嗜みを覚えた方が良いわよね。」なんて。
大きなお世話だけど、艶やかな色のつげ櫛に魅入られて素直に「ありがとう。」と感謝を述べた。
それから毎朝毎晩、時間を作って髪を梳いている。
流行りの歌を口ずさみながら、時間が許す限りずっと。
高校生にあがるころ、私はよく体調を崩すようになった。
少し動くだけで息切れする。
ぶつけた覚えのない場所が内出血を起こす。
急性白血病。
入院が決まった。
闘病というが、私には延命にしか思えなかった。
どんどんと膨らむ顔。
抜けていく髪。
どれだけ家族が慰めようと届くことはなかった。
涙を出すのも辛く、何も考えなくなった。
どうして私が。
なぜこんなことになったの。
心に余裕ができたのは、脊髄移植が終わって退院の見込みが出てきた頃だった。
我儘を言い放題だった私を見捨てなかった家族には本当に感謝している。
髪は短いが少しずつ生えそろってきている。
良かった。
ある日、母が家に会ったつげ櫛を持ってきてくれた。
「見せると気にするかと思って持ってこれなかったけど、もう大丈夫そうね。あなたこれ大好きだったから。またすぐ梳けるようになるからね。」
本当に良かった、と母は涙を流してくれた。
つげ櫛を手にすると、髪を梳いていたころを思い出す。
「ありがとう。」
つげ櫛をもらったあの日のように、素直にお礼が言えた。
元気だったあの頃にいつかもどれますように。
つげ櫛を握ったまま、私は眠ってしまったらしい。
目を覚ますと母はおらず病室はシンとしていた。
相部屋の子達の声も聞こえない。
様子がおかしい。
ナースコールを握りしめて辺りをうかがう。
音一つない病棟、辺りは真夜中のように暗い、
時計は19時を指している。
夕食に起こされないわけがない。
ナースコールを押す。
何度も左右を振り向きながら看護師さんを待つ。
声も音もない暗い部屋、廊下を見ても真っ暗で電灯がついているのは私のいる病室だけのように思えた。
不安が胸に広がっていく。
居ても立ってもいられずにナースセンターへ向かう。
ベッドから降りてスリッパに足を通そうとすると
――カラン
と何かが落ちる音がした。
足裏に何か違和感があった。
足を退けると、そこには母からもらったつげ櫛が落ちていた。
気が動転して気付かなかったが、ずっと握っていたみたいだ。
しゃがんで手に取ると、櫛からはほのかに温かさが感じられた。
……手が暖かい。
目が覚めると母が私の手を握って泣いていた。
母にあの日移植した骨髄に体が合わなくてアレルギーを起こしたらしい。
意識の戻らない私の喉に穴を開けて管を通して、それから二週間ほど経つらしい。
朦朧とした意識の中で私が反応を見せたのは、手を握った時だけだったと母から聞いた。
なんだか恥ずかしいな。
私の記憶にあるのはあの短い夢だけ。
病室に一人取り残された私と、母からもらったつげ櫛。
あの時、感じた温度は母の手だったのだろうか。
声が出せるようになったらあの夢の話をしてみよう。
ありがとう。
声が出なくても伝わったみたいで、母は涙の残る笑顔で頷いてくれた。
