Dr.阿部のニコニコ診療日記 第48回
東京の下町で開業する阿部聡医師。日々、さまざまな患者さんとの出会いがあり、その出会いから多くのことを学んだといいます。阿部医師と患者さんとの交流を通して、心と体の健康を考えていきます。
「2009年3月某日」
「いまの人は?」
若いということの特権は、些細なことで
自分の人生の方向を決定できるということだ。
四半世紀前の春、僕は期待と不安とを半分ずつ胸に持ち、脳外科の医局の門をたたいた。
*
そもそも我々の時代はいまと違って、内科や外科といったそれぞれの医局に属して研修医を2年間やり、そのままその医局に入局するというのが常であった。いまや、研修期間は5年となり、その間、さまざまな科を回って研修する制度になっている。人が作った制度に完璧というものがないのは御多分に洩れず、それぞれにいい点と悪い点がある。
当時の制度は、かつての「白い巨塔」の時代とは異なってはいたが、医局という制度が色濃く残ったものだった。一度入れば、なかなか方向転換というわけにはいかなかった。だから、研修をどこの医局でするかは、一大事であった。人生の方向がそこで決まってしまうからだ。同級生の中での情報交換は、ガセネタを含め、最終決定の2月をピークに飛び交うこととなる。
一方、医局にとっても、卒業後は人の流動があまりない以上、研修医を確保することは、重要な仕事の一つであった。そのため大学のクラブにも似た勧誘合戦が行われた。学生の臨床実習での時間を一部割いて甘い言葉を並べたり、クラブや高校の同窓といったツテを使ったり、はたまたクラブ(部活)の後輩を別のクラブ活動(銀座の)に連れていったりと、実に熾烈を極めた。
さて、僕の場合はといえば、実に簡単至極であった。いよいよ医局を決めなくてはならないというとき、僕は4畳半の安アパートで医師国家試験の勉強をしていた。真夜中、勉強にも飽きて、ふとテレビのスイッチをひねった。すると、懐かしいあのフレーズが、僕の眼と耳に飛び込んできたのだ。
「男(♂)女(♀)誕生(*)死亡(+)そして無限(∞)」
そう、あの懐かしいドラマ――日本にケーシースタイルの白衣(短いセパレート型の白衣)を定着させた『ベン・ケーシー』だったのだ。アメリカのヒューマニズムあふれる若き脳外科医の物語は、日本にかつて一大ブームをもたらした。もちろん、オリジナルが放送されたとき、僕はまだ幼稚園児だった。
「よし、これだ」
若いということの特権は、些細なことで自分の人生の方向を決定できるということだ。当時の僕は、十分に若かった。そして、その若さが後に大きな悲劇(喜劇?)をもたらすとは、露とも思わなかった。
そのときの、K医局長の顔を僕はいまだに忘れない。
「お前、自分の医局の教授の顔ぐらいわかっとけよなあ」
翌日、僕は入局申込書を携えて、意気揚々と脳外科の医局の扉をたたいた。
「すみません。入局申込書を持ってきました」
「おおっ」といって、部屋の奥からK医局長がやぶにらみの眼で、じろりと僕をにらんだ。
「こんなところに来るなんて、いい根性してるなあ。お前、成績はどうなんだ」
そういうと、K医局長は卒業試験の閻魔帳を開いた。
やばっ、脳外科は試験のヤマが外れたっけなあ。
「ふんっ、こんな点数でよく来る気になったなあ。お前の同級生のOは、確か脳外科の点は一番だったぞ。もちろん、奴なら大歓迎だけどな」
「おいおい、そんなこというなよ。まあ、やる気がありそうだからいいじゃないか」
奥の部屋から、「見知らぬ」人が割って入ってきた。
「まあ、Kくん。よく面倒見てやって」
K医局長は、しぶしぶ頷いた。「見知らぬ」人が部屋から出ていくのを待って、僕は恐る恐るK医局長に尋ねた。
「いまの人は?」
そのときの、K医局長の顔を僕はいまだに忘れない。
「お前、自分の医局の教授の顔ぐらいわかっとけよなあ」
*
教授が若いころ、『ベン・ケーシー』の翻訳に手を貸したことを知ったのは、それから10年もかかった。
(『健康365』2009年5月号掲載)

阿部 聡(あべ さとし)
略歴
1957年、徳島県生まれ。東京慈恵会医科大学卒業。現在、脳神経外科専門医、臨床心理士として活躍。患者にとってのわかりやすい医療と、医療の街づくりを目指して活動を続けている。
【ホームページ】
http://www.yabuisha.com
