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「お金があるから寄付できる」は本当か?

「お金があるから寄付できる」は本当か?
を考えてみます。

「寄付をするなんて、お金があっていいね」

NPOの支援活動をしていると、時折そんな言葉をかけられます。半分は事実かもしれません。しかし、もし今の私がお金がなくなったとしても、きっと何らかの形で「寄付」や「支援」を続けると思います。

今回は、かつて「寄付なんて非合理的だ」と切り捨てていた私が、なぜ10年以上に渡り継続的に支援活動を行っているのか。そして、日本とフィリピン・セブ島での体験を通じて見つけた「本当の豊かさ」について、かいてみますね。




かつては「コスパ至上主義者」だった

世の中の多くの日本人は、「寄付=お金持ちがすること」と考えています。ニュースで見る慈善活動家はみな資産家ですし、そう刷り込まれるのも無理はありません。

実は、かつての私もそうでした。いや、それ以上に、寄付に対して否定的ですらありました。 当時の私は、何事においても費用対効果を最大化することが好きだったからです。

投資家気質でROI(Return on Investment=投資利益率)を、ビジネスにおいても、私生活においても、常に意識していました。自分の投じたリソースに対してどれだけのリターンがあるか。その計算ばかりして、その行為自体が好きだったんです。

そんな私にとって、寄付は見返りのない出費であり、非合理の極みです。Give & Takeが世界の理であるはずなのに、Giveだけで完結するなんて気持ちが悪い。見返りを要求しない行為は、どこか偽善的で、一方的な自己満足にさえ見えていました。

当時、私はアメリカ資本の企業で働いていました。そこには、ボランティアやチャリティが当たり前のように根付いていました。それは広報用の「作られた社風」ではなく、社員一人ひとりの土台にある価値観でした。

しかし、私を含め多くの日本人社員にとって、それはどこか「馴染めない異国の風習」であり、遠巻きに眺めるだけのものだったのです。

3.11が変えた意識と「言い訳」つきの支援

そんな頑なな私の心が少し動き出したのは、2011年の東日本大震災がきっかけでした。 未曾有の災害を前に、日本中でボランティアという言葉が飛び交いました。同僚たちも次々と被災地支援に動き出す中、私も「周りがやっているから」という、いかにも日本人らしい同調圧力に背中を押されて参加するようになりました。

正直に言えば、当時の私の根底にあったのは、空気を読むという処世術であり、心からの奉仕精神ではありませんでした。

私が勤務していたオフィスビルには、大きな吹き抜けのエントランスがありました。震災以降、その開放的な空間では、頻繁にチャリティイベントが開催されるようになりました。福島や東北の名産品、あるいは障害者支援団体が作ったお菓子やお弁当が並びます。

そこで売られているお菓子は、コンビニで買えば100円程度のものが、500円や1,000円という価格設定になっています。 かつてのコスパ至上主義の私なら見向きもしなかったでしょう。

しかし、この時は違いました。 「これは単なる出費ではない。商品という対価を得つつ、差額は寄付になるのだ」 そんなふうに自分を納得させるロジックを見つけたことで、積極的に購入するようになりました。子ども服や靴など、不用品を回収ボックスに入れる支援も、合理的であるがゆえに参加しやすかったのです。

高いお金を払ってお菓子を買う。それは寄付をする自分を正当化するための、私なりの小さなステップでした。

今思えば、大きな会社という環境が、ボランティアへのハードルを下げてくれていたのだと感謝しています。とはいうものの、結局当時の私は「高いお金を払って良いことをした自分」だけだったのかもしれません。

セブ島での衝撃とパラダイムシフト

私の人生における決定的な転機は、2014年に訪れました。フィリピン・セブ島の英会話学校への短期留学です。 そこで初めて、海外ボランティアに参加しました。

この時の体験が、私の価値観を根底から覆すことになります。詳しい経緯については、ぜひ以下の記事をご覧ください。

note記事リンク先↓
「幸せとは何か?」を考えるキッカケ

また、この人生を大きく転換させるきっかけについては、書籍としても出版しました。併せてお読みいただければ幸いです。

書籍リンク先↓
会社員を辞める怖さ、乗り越えたあとの幸せ


セブ島でのボランティア活動そのものも刺激的でしたが、それ以上に私に衝撃を与えたのは、現地の街に根付いている空気感でした。

私の頭の中にあった寄付の構図は、常に「お金がある人が、ない人に支援する」という上下関係でした。しかし、セブ島で目の当たりにしたのは全く違う光景でした。 貧困層のエリアで、今日食べるものにも困っていそうな人々が、さらに困っている隣人に対して、自然と手を差し伸べているのです。

わずかな食料を分け合い、困ったときはお互い様と笑い合う。 そこには「お金があるから支援する」という論理は存在しませんでした。それは彼らの文化であり、日常の風景でした。

「お金がないと人助けはできない」と思い込んでいた私にとって、それはパラダイムシフトでした。彼らは経済的には決して豊かではありません。しかし、彼らの社会には、日本にはない温かな支援の輪という循環があったのです。


心の余裕とは

あれから12年。私は現在、NPO法人DAREDEMO HEROの支援者として活動を続けています。 冒頭の話に戻ると、「寄付をするなんて、お金があっていいね」という問いについてです。

私がボランティアを始めた当初は、確かに会社員としての給与、つまりお金の余裕があったから参加できました。しかし、今、私が資産を減らしたとしても、支援を続けると思います。 なぜなら、支援をするために必要なのは「お金の余裕」ではなく、「心の余裕」だからです。

お金に余裕があるから、支援をするのか?
心に余裕があるから、支援をするのか?

どちらなのでしょうか?

日本社会を見渡してみると、「心に余裕がある人=お金持ち」という図式が一般的かもしれません。だから「お金持ちが寄付をする」というのは、ある意味で正しい現象です。逆に言えば、いくらお金を持っていても支援をしない人は、「心に余裕がない人」ってことになります。

セブ島の人々を見ていると答えが見えてくる気がします。彼らは資産などほとんど持っていません。日本人と比較すれば、その経済格差は歴然です。それでも彼らは支援し合い、心に余裕を持っています。 一方、多くの日本人は、彼らの何十倍、何百倍もの資産を持ちながら、将来への不安に駆られ、他者に分け与えることを拒みます。

そう考えると、心の余裕と保有資産額には、必ずしも正の相関関係はないんだと思っています。

批判する人たちへ、そして未来の自分へ

ネット上には、芸能人の寄付に対して「売名行為だ」「金があるからできるんだ」と批判する声、いわゆるアンチが存在します。

しかし、冷静に考えてみて、そんな書き込みをしている人たちでさえ、セブ島の貧困層に比べれば、圧倒的に恵まれた経済環境にいます。「お金があるから支援できる」という論理が正しいなら、彼らも支援ができるはずですよね。

それでも彼らが寄付をせず、他人の行動を批判ばかりするのはなぜか。 それはやはり、彼らに「心の余裕」がないからでしょう。

かつて寄付に対して否定的だった私には、ネガティブな感情を持つ人たちの気持ちも理解できます。偽善に見えるその行動が、自分の何もしない後ろめたさを正当化しようとしているのかもしれませんね。

でもね、寄付やボランティアは、誰かに強制されるものではなく、自分が好きで行う行動であり、ある種の趣味です。他人の趣味に対して、外野が賛成だの否定だのと口を出すのは野暮というものです。

私は、セブ島の人々から持たざる者の豊かさを学びました。 「心の余裕」は、貯蓄額の数字ではなく、自分の在り方で決まります。 これからも私は、自分の心の余裕を確かめるバロメーターとして、そして何より、それが自分にとって心地よい趣味であるとして、支援を続けていきたいと思います。


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