【行雲流水】全く知らない人たちの多様な視点を疑似体験できる装置──漫画という社会技術が可能にしていること
「名作」と「佳作」という言葉を並べると、価値のほとんどを名作が背負っているように見えてしまいます。けれど書店の棚を眺めていると、大きく話題になったわけではない作品のほうが、実はずっと多いことに気づきます。今回はこの「佳作」という存在そのものを手がかりに、漫画がなぜこれほど大量の小さな作品を成立させられるのか、その条件を考えました。
富良野とPhronaが辿り着いたのは、思いのほか身も蓋もない、けれど核心を突く答えでした。二人の視点は途中で少しずれます。片方は経済的な条件から、もう片方は感情の流れ方から、同じ問いに近づいていきます。読み終えたとき、いつも読んでいる漫画の見え方が、少し変わっているかもしれません。
佳作という不思議な厚み
富良野: 日本は漫画大国と言われるけど、それでも名作と呼ばれるような作品って実はそこまで多くないですよね。
Phrona: うん、でも書店に行けば漫画コーナーの棚はぎっしり埋まってる。
富良野: あれ全部が佳作、というか、無名に近い作品だとして、それがこれだけ残り続けてる。この量、他のメディアではなかなか無いです。
Phrona: 小説だとどうなんだろう。あそこまで棚が埋まる感じ、あんまりない気がする。
富良野: 出版点数だけ見ても漫画のほうが桁が違うはずです。それがまず引っかかった。
Phrona: 単に人気があるから、ってだけじゃ説明つかない厚みだよね。
富良野: 僕もそう思います。人気があるから点数が増えるんじゃなくて、点数が増えても成立してしまう理由が別にある気がして。
Phrona: 成立してしまう、って言い方、いいね。誰かが仕組んでるわけじゃないってことでしょう。
富良野: そうです。誰かが佳作を計画的に量産してるわけじゃない。なのにこれだけの数が並ぶ。
ポイント解説
名作と佳作という分け方は、しばしば「質の差」として語られる。だが量の観点から見ると、この分け方はもう少し別の相貌を見せる。名作と呼ばれる作品はごく少数に留まるのに対して、佳作と呼ばれる、あるいは呼ばれもしない無数の作品が、書店の棚を実際に埋めている。
この非対称性は、単に人気の分布として片付けられるものではない。人気の分布であれば、少数の当たりと多数の外れという形に落ち着くはずである。しかし漫画の棚に並ぶ佳作群は、外れとして淘汰される前に、まず作品として成立してしまっている。問われるべきは「なぜ売れるのか」ではなく、「なぜこれほど多くのものが、そもそも作品になり得るのか」という、生産の手前の条件のほうだ。
この問いを立てたとき、視線は自然と「誰が、どういう条件でそれを作れるのか」という側に向く。次の対話が向かうのは、まさにその生産条件の話である。
一人でも成立してしまうという条件
富良野: 漫画って、極端に言えば紙とペンがあれば一人で始められるんですよね。もちろん商業誌に載る作品は編集や印刷会社が関わってきますけど、成立の最低条件で言えば、そこまで人を必要としない。
Phrona: 映画だとそうはいかないよね。カメラ、照明、役者、編集、公開する場所。関わる人の数が最初から違う。
富良野: 演劇もそうです。舞台があって、観客が集まる時間があって、成立するまでの前提が重い。漫画はその重さがない。
Phrona: 軽いから、企画会議を通さなくても始められる。
富良野: そう、そこが大きいと思っていて。大きな資本が動くところって、どうしても多くの人に届く企画が優先される。小さな違和感とか、限られた人にしか刺さらない話は、その時点で弾かれやすい。
Phrona: 漫画だとその弾かれ方が緩いってこと。
富良野: 緩い、というか、そもそも弾く人がいなくても成立してしまう。一人で描いて、一人で完結させられる。
Phrona: それってつまり、市場が選ぶ前の段階で、もう作品になってるってことだよね。
富良野: そうです。市場に出す前に、作品として存在できてしまっている。この順番が、他のメディアだと逆になりがちなんです。
Phrona: 先に選別があって、選ばれたものだけが形になる、みたいな順番。
富良野: 漫画はそこが緩いから、選ばれなかったはずのものまで、とりあえず形になる。
ポイント解説
生産条件の軽さは、単なる制作上の便利さではない。むしろそれは、何が作品になり得るかという範囲そのものを決めている。大きな資本と組織を要するメディアでは、企画の段階で「誰に届くか」が問われ、届く範囲が狭いものは着手される前に脱落する。これは意思決定の手前に存在する選別機構であり、制度として作品の可能性を絞り込んでいるということでもある。
漫画は、この選別機構が働く手前で作品を成立させてしまう。一人の描き手が紙とペンを持てば、届く範囲の狭さを理由に着手を止められる場面が、そもそも少ない。結果として、限られた読者にしか響かない題材が、まず形になってから、届くか届かないかが後から決まる。
この順序の逆転が、佳作という現象の土台になっている。選ばれてから作られるのではなく、作られてから選ばれる。だから、選ばれなかった、あるいはまだ選ばれていない作品が、これほどの厚みで存在できる。
小さな話が、それでも届くという話
Phrona: さっきの話、成立はするけど、それだけだと届くかどうかは別問題だよね。
富良野: そうです。成立することと届くことは別で、そこにもう一つ条件が要ると思っていて。
Phrona: 漫画の絵の力ってことかな。
富良野: はい。表情とか、間の取り方とか、コマの余白とか。あれって説明じゃなくて、体験させる仕掛けになってる気がします。
Phrona: 説明されるより、見せられるほうが早いもんね。誰かの顔がふっと固まってる一コマだけで、状況が分かることがある。
富良野: 小説だと、それを言葉で組み立てないといけない。読む側にも時間がかかる。
Phrona: 漫画は一目で渡せる。渡す速さが違う。
富良野: この速さがあるから、小さな話でも成立するし、届きもする。両方揃って初めて、佳作が佳作として機能するというか。
Phrona: 作れるってだけじゃなくて、伝わる形で作れる、ってことだね。
富良野: そうです。伝わる形で、しかも一人で作れる。この組み合わせが、たぶん漫画だけが持ってる強さです。
ポイント解説
伝わる速さは、感情移入という言葉で片付けられがちだが、実際に働いているのはもっと具体的な仕組みである。表情、視線、間、余白は、状況を説明する代わりに、状況を直接提示する。読者は意味を組み立てる作業を経ずに、場面そのものを受け取る。
この速さが、生産条件の軽さと結びついたときに初めて、佳作という現象が機能として成立する。一人で作れることと、作ったものが伝わることは別の条件であり、どちらか一方だけでは、これほどの厚みは生まれない。
軽さは、諸刃でもある
富良野: ただ、この軽さっていいことばかりでもなくて。参入障壁が低いってことは、逆に淘汰も別の形で働くということでもあるんですよね。
Phrona: ああ、売れる型に寄っていく力のこと。
富良野: そうです。一人で作れるからこそ、逆に「これなら伸びる」っていう型に、みんなが引き寄せられやすくなる面がある。
Phrona: 泣ける展開とか、分かりやすい役割分担とか。
富良野: それが積み重なると、視点を開くはずだったものが、いつのまにか型を固定する方に働いてしまう。
Phrona: 低資本だから自由になれる話と、低資本だから型に流れやすい話が、同じ根っこから出てるってことだよね。
富良野: はい、同じ根っこです。だからこの話、単純に漫画を礼賛して終われる感じじゃないんですよね。
Phrona: 礼賛はしたくないな。むしろ、この緩さがあるからこそ気をつけないといけないことがある、くらいの話だと思う。
富良野: そうですね。作れてしまうことの自由さと、作れてしまうことの危うさは、たぶん切り離せない。
ポイント解説
参入障壁の低さは、多様な視点を可能にする条件であると同時に、市場による選別が働きやすい条件でもある。一人で着手できるということは、着手する側が「売れる型」に自ら寄せていく余地も大きいということだ。したがって、視点の解放と視点の定型化は、同じ生産条件から生じる、切り離しがたい二つの帰結として捉える必要がある。
漫画を無条件に礼賛する立場は、この二つ目の帰結を見落としがちである。低資本性を語るなら、それがもたらす自由と、それがもたらす偏りの両方を、同じ議論の中に置いておくべきだろう。
名作は結び、佳作は編む
富良野: さっきの佳作の話に戻ると、名作は共通の記憶を作りますよね。みんなが同じ場面を知ってる、みたいな。
Phrona: うん、あれは横に結ぶ力だと思う。知らない人同士でも、同じ作品の話で繋がれる。
富良野: 佳作はそれとは違う働きをしてる気がしていて。共通の記憶にはならないけど、ある一人にとってはすごく的確に何かを言い当ててる。
Phrona: 私はそれ、網目って言い方がしっくりくる。太い糸で結ぶんじゃなくて、細かい糸で編んでる感じ。
富良野: 網目、いいですね。名作が横の繋がりだとしたら、佳作は縦というか、深さの方向に効いてる。
Phrona: それに、名作が作るものって外から見えるよね。数字になるし、話題になるし。でも佳作が編んでるものって、外からはほとんど見えない。
富良野: ある読者の中で、これまで言葉にできなかった違和感に輪郭がついた、っていう一回きりの出来事でしかないですもんね。
Phrona: うん。でもそれが、一人だけじゃなくて、無数の場所で無数に起きてる。
富良野: その一回一回は小さいけど、積み重なると、社会がどれだけ細かい痛みまで拾えるかが変わってくる気がします。粗い網だと大きい魚しか掬えないけど、網目が細かくなると、これまで抜け落ちてたものまで掬えるようになる。
Phrona: その網目を細かくしてるのが、結局さっきの話に戻ると、一人でも作品が成立してしまうっていう軽さなんだよね。
富良野: そうです。あの軽さがなかったら、こんなに細かい網目にはならなかった。名作だけの世界だったら、網目はもっと粗いままだったと思います。
Phrona: じゃあ、低資本性の話って、単に「作りやすい」ってだけの話じゃなかったんだね。
富良野: はい。あれは、社会の感受性の網目をこれだけ細かく保つための、目立たない条件だったんだと思います。
ポイント解説
名作が担うのは、不特定多数を同じ記憶で束ねる機能である。これに対して佳作群が担うのは、束ねる機能とは異質な、個別の経験に輪郭を与える機能である。前者は広さの方向に働き、後者は細やかさの方向に働く。名作の作る共有記憶は数字になり、話題になり、外から存在が見える。佳作が編んでいるものは、ある読者の中で違和感に輪郭が与えられたという一回きりの出来事にすぎず、外からはほとんど見えない。
しかし、その一回きりの出来事が無数の読者の中で無数に起きるとき、それは社会の感受性の網目を細かくしていく過程になる。粗い網では拾えなかった痛みや違和感が、網目が細かくなることで初めて拾えるようになる。ここまで見てきた低資本性という条件は、単なる制作上の便利さではなく、この網目の細かさを可能にするための、目立たない土台だったということになる。
このような、生活の中の名前を持たない感情に場面を与えて流通させる回路は、漫画に固有の発明というより、落語や草双紙が担ってきた機能の延長線上にある。形式は変わっても、日々の関係の機微を掬い上げるという役割は、途切れずに引き継がれてきた。
この記事は、Projeteam, Inc. ウェブサイトで先行公開された
を素材として対話形式で再構成したものです。元記事では、「なぜ一人で成立してしまうのか」という条件を軸に、名作と佳作の機能の違い、そして軽さがもたらす両義性まで、対話では触れきれなかった部分を含めて論じています。あわせてご覧いただけると、議論がより立体的に見えてくるかもしれません。
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