【行雲流水】「人民」は作れても、境界は作れない──闘技民主主義が答えていない境界線
前回は、MAGAという政治運動の構造を見ました。言説や戦術は多くの場所で作られるのに、何が本物かを決めるのは一人だけ。今回はその構造を、政治理論の側から読み直します。手がかりはシャンタル・ムフの左派ポピュリズム構想です。ムフが左派のために描いた設計図を、右派が先に実演してしまったようにも見える。
だとすれば、ムフの理論は証明されたのでしょうか。富良野は「証明した」という言い方がどこで強すぎるのかを詰め、Phronaは理論を守る側の言い分を拾いにいきます。答えが一つに決まらないこと自体が、今回の中身です。
証明された、と言いたくなるけれど
Phrona: MAGAの話をしていると、シャンタル・ムフが、まさに同じようなことを左派のために構想していたことを思い出すんです。
富良野: 異質な要求を一つの人民としてまとめて、既存のエリート支配に対抗する主体を作る、という話ですよね。
Phrona: はい。それって、MAGAの姿とほとんど重なりますよね。だとすると、ムフの理論は正しかったということになるんでしょうか。
富良野: そこを、僕はけっこう慎重に扱いたいと思っていて。「MAGAはムフの理論を実証した」という言い方が、あちこちで見られるんですけど、実証という語は強すぎる気がするんです。
Phrona: 強すぎる、というと。
富良野: 実証と言うためには、ほかの説明では説明できないことを示す必要がありますよね。でもMAGAの成立って、別の理論でもかなりの部分が説明できてしまうんです。
Phrona: 例えばどんな。
富良野: 社会的アイデンティティ理論とか、地位が脅かされることへの反応とか、感情的な分極化とか。あるいはもっと制度に寄った説明で、共和党が長期的に右へ寄っていたこととか、予備選のやり方とか、保守系メディアの広がりとか、SNSが注目を奪い合う経済になっていることとか。
Phrona: どれも、それだけで話が成り立ちそうに聞こえます。
富良野: 成り立つんです。だから、MAGAはラクラウとムフの理論の説明力を強く例証した、くらいが正確だと思うんです。
Phrona: 例証と実証は、そんなに違いますか。
富良野: 違うと思います。例証は「この理論で読むとよく見える」ということで、実証は「ほかの理論より優れている」ということなので。
ポイント解説
理論の当否を評価するとき、事例による例証と、因果的な実証は区別しなければならない。MAGAが、異質な要求の連結、意味の確定しない象徴、情念による集合的アイデンティティの形成、われわれと彼らの境界設定という論点の有力な事例であることに疑いはない。しかし、それは競合する説明を排除したことにはならない。
実証へ近づけるには、命題を検証可能な仮説へ分解する必要がある。例えば、共通の敵対線が強いほど、政策的な利害が異なる集団が同じ政治的主体へ統合されやすいのか。意味の柔軟な象徴ほど、連合の裾野が広がるのか。政策的な一貫性が低い連合ほど、指導者が象徴的な統合の機能を担うのか。情念と運動文化による帰属が強いほど、個別の政策への不満が離反につながりにくいのか。
この形にすれば、理論的な読み込みではなく検証の対象になる。現時点で言えるのは、MAGAがラクラウの人民構築論とムフの情念政治論の説明力を強く例証した、という水準までである。
ムフの側にも言い分がある
Phrona: 別の角度から聞きたいんですけど。MAGAでは、対立する相手が単なる競争相手じゃなくて、国を裏切った敵として語られやすかったですよね。
富良野: 民主党も官僚も大学もメディアも、そういう扱いを受けてきました。
Phrona: ムフは、相手を敵じゃなくて敵対者として扱うべきだと言っていた。だとすると、MAGAはムフの理論を反証したことになるんでしょうか。
富良野: そこも慎重に見たいところです。ムフの側からは、たぶん反論できるんですよ。
Phrona: どんな反論ですか。
富良野: ムフの言う敵対者って、自由と平等という民主主義の基本的な原則を共有していることが前提なんです。だから、その原則を共有していない相手は、そもそも敵対者としての条件を満たしていない。
Phrona: つまり、MAGAは敵対者になり損ねただけで、理論そのものが間違っていたわけではない、と。
富良野: そういう言い方はできると思います。だから僕は、MAGAがムフを反証したとは言えないと思っていて。
Phrona: でも、それだと理論の側が安全すぎませんか。原則を共有しない相手が出てきたら、その相手は最初から対象外です、と言えてしまう。
富良野: そこなんです。批判するなら、そこを突くべきだと思うんです。
Phrona: 私が引っかかっているのは、その原則を「共有している」という状態が、勝手に保たれるわけではないところで。誰かが作って、維持して、壊れたら直さないといけない。
富良野: ムフはその原則を示してはいるんです。ただ、共有をどうやって形成して、維持して、失われたときに回復するのか。その過程の制度論が薄い。
Phrona: 理想が間違っているのではなく、理想への道が描かれていない。
富良野: 僕の見立てでは、そこがいちばん正確な批判の形だと思います。
ポイント解説
ムフの構想には、性質の異なる二つの層が含まれている。異なる要求を等価性の連鎖で結び、共通の敵対線によって人民という集合的主体を構築するという記述的な層は、より直接的にはエルネスト・ラクラウのポピュリズム理論に属する。これに対し、敵を敵対者へ転換し、自由と平等という民主主義の共通原則をめぐって争うという闘技民主主義の構想は、ムフ自身の規範的な提案である。
MAGAが強く例証したのは前者である。後者、つまり構築された人民が敵対者どうしの闘技にとどまるという期待については、MAGAは裏づけていない。ただしこれを反証と呼ぶことはできない。ムフの立場からすれば、民主的な自由と平等の原則を共有しない相手は、そもそも敵対者としての条件を満たしていないからである。
したがって、より正確な批判は次の形になる。ムフは敵対者が共有すべき原則を示したが、その共有を形成し、維持し、失われたときに回復する制度的な過程を十分に説明していない。誰がどの手続きで、ある勢力が条件を満たしているかを判定するのか。この問いが空白のまま残っている。
どこまでを、話の通じる相手とするか
富良野: その空白がいちばん厳しく出るのが、境目にいる勢力をどう扱うか、という場面だと思います。
Phrona: 具体的には。
富良野: 選挙結果を繰り返し否定する。政治的な暴力をほのめかしたり容認したりする。野党が政権を取る資格そのものを否定する。公権力を使って競争相手を排除する。一部の市民について、そもそもこの国に属しているのかを疑う。こういう勢力です。
Phrona: それを正統な相手として扱い続けるのは、たしかに苦しいですね。
富良野: 扱い続ければ、民主主義を内側から壊そうとする行為を、民主主義の名前で守ることになる。
Phrona: かといって、排除すればいい話でもないですよね。私、そこがずっと引っかかっていて。誰が「あれは反民主的だ」と判定するんですか。
富良野: そこが核心です。判定する権限を持った側が、その基準を都合よく使えてしまう。反民主的というラベルが、単に気に入らない相手を黙らせる道具になる。
Phrona: しかも、判定する場所が一つしかないと、そこが党派的になった瞬間に全部が崩れる。
富良野: だから必要なのは、判定する機関を複数持つことと、判定に対して異議を申し立てられることと、制裁が違反の程度に見合っていることと、直したら戻ってこられることだと思うんです。
Phrona: あと、自分の陣営にも同じ基準を当てること。
富良野: それがいちばん難しいところですね。
ポイント解説
ここで問われているのは、闘技民主主義と、いわゆる戦う民主主義をどう接合するかという問題である。対立を活性化させる理論は、対立が破局しない条件までは自動的に用意しない。
敵対者の関係が成立するには、いくつかの相互承認が要る。反対者にも政治参加の権利があること。選挙に敗れたら政権を引き渡すこと。野党にも将来政権を得る資格があること。暴力ではなく制度的な手続きによって争うこと。市民の基本的な権利を陣営によって差別しないこと。
問題は、これらに違反する勢力をどう扱うかにある。無条件に包摂すれば民主主義の自壊を保護し、排除すれば判定そのものが党派的な武器になる。したがって制度の側には、敵対者として認められる最低条件、違反を判定する複数の独立した機関、判定理由の公開、異議申し立ての手続き、違反の程度に応じた比例的な制裁、是正後の再参加の可能性、そして与野党の双方へ同じ基準を適用する仕組みが必要になる。これらは現在の制度論において、最も未決の部分である。
誓いでは、たぶん保たない
Phrona: ここまでの話、どれも「そういう制度を作ればいい」で終わりそうなんですけど、私、そこがいちばん怪しいと思っていて。
富良野: というと。
Phrona: それを作るのは、勝った側ですよね。選挙に勝って、これから権限を握ろうとしている人たちが、自分から自分を縛る仕組みを作るでしょうか。
富良野: 作らないと思います。しかも作らないほうが合理的なんですよ、短期的には。
Phrona: 行政の権限は広く持っていたいし、独立した機関の拒否権は弱めたいし、野党が情報にアクセスできる範囲は狭めたいし、指導者が交代しにくいほうが都合がいい。
富良野: 勝ちが見えているときほど、その誘因は強くなります。だから「良識ある指導者であってください」という呼びかけは、たぶん機能しない。
Phrona: じゃあ何なら機能するんでしょう。
富良野: 特定の陣営の善意に依存しない形にするしかないと思います。陣営を横断した相互の保障として作る。選挙の結果を与野党が共同で検証する。野党にも議会や行政の情報へのアクセスを継続的に保障する。制度を変えるには複数の勢力の同意を必要とする。違反があったら自動的に手続きが作動する。
Phrona: 監視する機関に、独立した人事と予算を持たせる、とかも入りますか。
富良野: 入ります。あと、党の内部が一人に掌握されない仕組みも要る。
Phrona: ただ、こういう縛りって、増やせば増やすほどいいわけでもないですよね。
富良野: そこは正直だと思います。拒否権が乱立すると統治そのものができなくなる。独立機関が既得権を守る装置になることもある。司法や監視機関だって党派化しうる。
Phrona: 硬すぎる制度は、新しい多数派の意思を不当に止めてしまうことにもなる。
富良野: だから問題は縛りの量じゃなくて、権力の集中を防ぎながら、統治不能と既得権の固定化も防ぐ組み合わせをどう作るか、というところに移るんだと思います。
ポイント解説
自己制約を規範として要求するだけでは足りない。権力の獲得を目指す運動にとって、自己制約は短期的には合理的でないからである。したがって制約は、運動の善意に依存しない相互保障として設計する必要がある。
具体的には、選挙結果の陣営横断的な検証、野党の継続的な制度アクセス、司法と報道と研究機関の多元性、行政権限への期限と範囲の設定、党内の指導者交代のルール、地方と中央への権力の分散、制度変更に複数勢力の同意を求める仕組み、違反時に自動的に作動する手続き、監視機関の独立した人事と資金の基盤が挙げられる。
ただし、拒否権や独立機関も既得権の保護や党派的な武器として使われうる。したがって論点は制約を増やすことではなく、権力集中を防ぎながら、統治不能と既得権の固定化も同時に防ぐ組み合わせをどう設計するかへ進む必要がある。
誰を敵と名指すかで、行き先が変わる
富良野: もうひとつ、詰めておきたい論点があります。「人ではなく構造を敵にすべきだ」という言い方、よく聞きますよね。
Phrona: 聞きますね。個人を叩くのはよくない、と。
富良野: 方向としては正しいと思うんですけど、それだけだと抽象的すぎて、責任を負う人が誰もいなくなるんです。
Phrona: 構造が悪い、で終わってしまうと、誰も何もしなくていいことになる。
富良野: そうなんです。だから三つの水準に分ける必要があると思っていて。ひとつは、所有の集中とか、政治資金への依存とか、説明責任を欠いた専門家統治みたいな、変更可能な権力関係。もうひとつは、それを維持したり変えたりする企業や政党や行政機関という組織。そしてもうひとつが、具体的な決定に責任を負う、交代可能な公職者や経営者です。
Phrona: 人間の市民としての所属は否定しないけれど、制度上の責任は曖昧にしない、ということですか。
富良野: その線引きだと思います。人そのものを敵にすると排除へ向かうけれど、関係を争点にすれば改革の余地が残る。ただ、関係だけにすると誰も責任を取らなくなるので、交代可能な立場の人という水準を残しておく。
Phrona: ここまで聞いてきて、ひとつ気になっていることがあります。今日の話、左派も右派も同じ危険を持っている、という前提で進んできましたよね。
富良野: 進んできました。
Phrona: それって、本当に同じなんでしょうか。形は似ていても、行き着く先まで同じとは限らない気がして。
富良野: そこは僕も同じことを思っていて。人民とエリートという形式は左右どちらにも起こりうる。単一の原因ですべてを説明する誘惑も、敵を道徳的に悪と決めつける傾向も、どちらにも出る。
Phrona: でも。
富良野: でも、誰を人民に含めるか、敵対線が変更可能な権力関係に向いているのか固定的な属性の集団に向いているのか、反対者の政治的な権利を認めるか、運動の内部の多元性を保障するか。ここが違えば、民主主義にとっての帰結は変わります。
Phrona: 形の上での危険は共通していても、実際の危険度まで同じとは限らない。
富良野: そう整理するのが正確だと思います。ここを雑にすると、ただの両論併記になってしまうので。
Phrona: 「作られた人民をどう縛るか」の話をしていますが、縛る以外のやり方はないんでしょうか。一度できあがった人民を、閉じたままにしないで、もう一度ばらけさせるような。
この記事は、Projeteam, Inc. ウェブサイトで先行公開された
敵対者と敵の間は、紙一重でしかない──MAGAが浮き彫りにする闘技民主主義の課題
を素材として対話形式で再構成したものです。
元記事では、「実証と例証をどう分けるか」という方法論の検討から入り、検証可能な仮説への分解を経て、境界問題と自己制約の動機へ進みます。あわせてご覧いただけると、議論がより立体的に見えてくるかもしれません。
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